思ってたのと違う、いろいろと
『ミハイルから依頼された本をお届けに、それと、彼の奥様に是非お目にかかりたくて伺いました』
目の前の美女にそう言われ、オーロラの笑顔が強張った。
ミハイルの周囲にいる人で、彼を”ミハイル”と敬称なしに呼び捨てるのは、彼の両親である前侯爵夫妻しか会ったことがなかった。
仮とはいえ妻の立場にあるオーロラも、最初は”様”を付けて呼んでいたし、それに彼自身も異を唱えはしなかった。オーロラが”ミハイル”と呼ぶようになったのは出会ってひと月近く経ってから、両親に会う際に親密さをアピールするために彼にそう呼ぶようにと言われてからだ。
なのに目の前の女性は、さも当然のように彼のことを”ミハイル”と呼んだ。
そして、彼の妻であるオーロラに会いに来た、と。
「ご所望の本は、こちらに。
ご確認いただけますか?」
「あ……はい。ありがとうございます」
オーロラは動揺を押し殺し、差し出された本を受け取り確認した。オーロラがリストにしてミハイルに頼んだうちの数冊で間違いない。
「確かに受け取りました」
笑顔で頷く女性から目を逸らし、本の表紙を撫でながらなんとかぎこちない笑顔を作ろうとして、オーロラが表紙に書かれた文字に目を止めた。
《翻訳:カオル・ニルヴァーナ》
(あれ?この名前……)
受け取った全ての本に同じ翻訳者の名前があって、オーロラは思わず目の前に立つ艶やかな美女と本の表紙の間で視線を行ったり来たりさせてしまった。
オーロラの記憶が確かなら、最初に家庭教師のマーガレット・ワイスナー夫人から貰った二冊も、同じ翻訳者だった。
「あの、失礼ですが……もしかして、翻訳家のニルヴァーナ先生、でいらっしゃいますか?」
「やだわ、先生だなんて。
どうぞ気軽にカオルとお呼びください、侯爵夫人。
はい、私がこれらの本を北大陸公用語に訳しました」
「わ、私のことも是非、侯爵夫人ではなく、オーロラと。
私、カオル先生の訳本、これ以外にも何冊も持っています。失礼ながら、ずっと男性だと思っておりました」
「ああ、マルンスでは男性名でもありますからね。
でも女性にもカオルという名の方はけっこういらっしゃるんですよ」
「そうなのですね。
あらためて、お会いできて光栄です」
「こちらこそ、こうして直接お目にかかれて嬉しいですわ。
ミハイルったら、訊いてもなかなかあなたのことを教えてくれないんですもの」
(あ、また……)
再びカオルの口から彼の名前が出て、浮き上がりかけたオーロラの心が揺れる。
契約妻は彼の交友関係に口を出せる立場ではない。いや契約でも妻には違いないのだから立場的には口出し可能なのか。
知りたい、でも知りたくない。
この気持ちがなんなのかは知っているが、ミハイルとの関係を考えればオーロラにとっては名前を与えてはいけない気持ちだ。
「私とミハイルの関係、お知りになりたいですか?」
オーロラの表情から心中の葛藤を読み取ったのか、カオルが尋ねてきた。
なんと答えたものか、考えあぐねるオーロラを見てカオルが笑みを深める。
「お可愛らしい奥様、華の顔が曇ってしまってますわ」
両手で口元を覆い、心配そうな、でもどこか妖艶な表情のカオルが衣擦れの音とともにすっとオーロラに近づいた。
「ミハイルとはそれはそれは昔からの、親密な付き合いなんですの。貴女とミハイルが出会う前からずっと。
だって私達は……」
美しく整えられた嫋やかな指先が、言葉を失ったオーロラに伸び、その頬にあと少しで触れるところまできたとき―――
「オーロラ!!」
大きな音とともに応接室の扉が開き、プラチナブロンドを少し乱したミハイルが飛び込んできた。
驚くオーロラに向かいつかつかと足早に歩み寄った彼に両腕で掻き抱くようにグイッと引っ張られ、カオルとの距離が開いた。
走って来たのか、いつもの香水に交じって汗の匂いがして、珍しく息も上がっている。
「私の妻に、気安く触れないでいただきたい」
オーロラを抱き寄せたまま、さらに一歩下がってカオルとの距離を取りながらミハイルが美女を睨んでいる。何がどうなっているのかわからないオーロラは、黙って捕まえられたままになるしかない。
「ふふっ、あーあ、バレちゃった。
ミハイルったら、帰って来るの早すぎない??
せっかく、本の受け取り場所を侯爵邸からうんと離れた場所に指定しといたのに」
「ええ、そりゃあもう急ぎましたよ。
貴女がさっきオーロラに会いたいなんて言ってらしたから、なんとなくこうなってる予感がしたんでね。
しかも受け取りに行ったらそこに本はありませんでしたし!!」
「あははははっ、ごめんごめん。頼まれた本なら私が直接渡したわ。
どうしてもアナタの可愛い奥さんが見たかったんだもの」
「このっ………」
「あの、ミハイル……?」
腕の中から名を呼ばれ、ミハイルがようやくオーロラを半分解放する。あくまで半分だけで、腰にはガッチリ手を回したままだ。
「オーロラ、この人は父上の妹で名前を、カエラ・イチジョウ。
マルンス王国の王位継承権も持つ一族、イチジョウ家に嫁いでいる」
「カエラ、様? カオル様ではなく?」
「ふふ。あらためて、はじめまして、オーロラさん。
私はこの子の叔母、カエラよ」
ミハイルをこの子呼ばわりするカエラを、オーロラは言葉を失ったまま見つめた。言われて見れば、ミハイルに、あと彼の父であるシェイマス前侯爵閣下に雰囲気が似ていなくもない。
ミハイルはというと、隅に控えるマシューに向け、何故ちゃんとオーロラに親族だと紹介しなかったと詰問していた。
「申し訳ございません」
「マシューを責めないで。私が口止めしたんだから」
「もちろん、一番悪いのは叔母上です」
「わかってるってば。
オーロラさん、びっくりさせて本当にごめんなさい。ちょっと悪ふざけがすぎたわ」
「!?
何か言われたのか、オーロラ??」
「昔からの、親密な付き合いと仰るから、てっきり……」
「!? 叔母上!!」
「嘘は言ってないわ」
「貴女という人は………!」
ギロッとミハイルに睨まれ、ごめんなさいとカエラは謝った。
あらためて席を設け、運ばれてきたお茶をひとくち飲むと、オーロラもようやく少しだけ落ち着きを取り戻せた気がした。もちろんオーロラの隣はミハイルがしっかりとキープしたままだ。
妻の側から離れる様子がないミハイルに、舞踏会などでまとわりついてくる令嬢をさらりと撒いていたあの甥っ子がと、彼の驚きの変化を目の当たりにして叔母カエラは満足げな笑みを浮かべた。
「カオルという名前はね、旦那様が初めて会った際に私の名前を聞き間違えたのが始まりなの。東方人の彼には、カエラよりそちらのほうが馴染みがある響きみたいで、ならそのままカオルを愛称にしましょうってことにしたの。
だから今の名は、カエラ・カオル・イチジョウ。
ニルヴァーナは翻訳者としてのペンネームね。
さっきはちょっと揶揄いすぎちゃった。そんな顔させるつもりじゃなかったの、本当にごめんなさいね」
「いえ………」
またもや歳を取らない美女が出現し、オーロラはリンデルト家の美の秘訣をますます知りたくなる。
(でも、今こんなふうに呑気なことを考えることができているのは、カエラ様がミハイルの叔母と分かって安心したから、よね)
そこまで考えて、オーロラはきゅっと胸の前で両の手を握り合わせた。名前をつけてはいけないあの気持ちを、抑えるように。
「オーロラ?大丈夫か?」
少し俯く彼女の頬にミハイルの手が触れ、表情を窺うように覗き込んできた。
落ち着いて見れば、カエラの瞳はミハイルと同じリンデルト家の証の深い青色で、確かに血縁なのだとあらためて感じた。大丈夫とオーロラは応えるが、ミハイルはまだ心配そうに見ている。
「まぁまぁまぁ!
可愛い表情をするようになったのねぇ、ミハイルぅ」
「やめてください。
貴女から可愛いとか、小さい頃にも言われたことないでしょう!?」
「そりゃあそうよ。
聞いてオーロラちゃん、小さい頃この子ったらほんっとに可愛くなかったのよー!
言葉遣いは大人びてるし、何かしてあげるって言っても結構ですいりませんってつめた〜く言うし。
綺麗な顔なのにいつも仏頂面で、笑ったと思ったらお人形みたいな作り笑いで」
「悪かったですね!可愛げがなくて」
「まあ、こっちはそんなの気にせずに構いまくってたけど。でもミハイルもオーブリーも大人になってゴツくなっちゃったから抱っこしてもつまんなーい」
「抱っこ………?」
「あー、もう、五月蝿い五月蠅い。
オーロラ、聞かなくていいから」
前侯爵閣下やマシューに加え、ミハイルはどうもこの叔母上様が苦手なようだ。
いつもより格段に言葉数が増えている彼を見て、オーロラにも少しだけ笑顔が戻っていた。
「…ふふっ、ミハイルったら子供みたいですよ?」
困ったように少し笑ったオーロラに、ミハイルはほっとし、カエラは感心したような顔になった。
「なんだかぐいぐい来るタイプの令嬢だって聞いた覚えがあったけれど、ずいぶん印象が違うのね」
言われてオーロラはハッとする。
オーロラは、本物の『約束の令嬢』ではない。
もしもカエラが本物について何かしら情報を持っていて、オーロラが偽物だと気づいたら?
強張る彼女の肩をミハイルがぎゅっと抱き寄せるのと、カエラがふわりと美しい笑みを浮かべたのは同時だった。
目を細めて笑うカエラは、どこかほのぼのと笑うシェイマス前侯爵閣下に似ていた。
「聞いていたのと違って、なんて素直で可愛らしい子かしら。
ミハイルが家を離れたがらないのも納得だわ」
「……そんなこと、言いました?」
「あらとぼけちゃって。
でもまあ、こうして仲のいい二人の様子を見られて叔母さんは安心したわ。
ってことで、私はこれで帰るわね」
「はぁ? 本当に勝手な……」
唐突に来て唐突に帰る、嵐のような方だなぁとオーロラは慌てて立ち上がって見送ろうとするが、カエラは笑ってそれを制した。
「いいのいいの、ここで。
今日は本当に失礼をしてしまったけれど、また王都に来たときは遊びに来てもいいかしら?」
「もちろんです、東方の書籍のお話、ぜひお聞かせください」
「ありがとう」
マシューに先導され玄関ホールへと向かう際、呆れ顔をしながらも応接室の扉まで見送ったミハイルの耳元にさっと口を寄せ、カエラが囁いた。
「どのくらいかはわからないにせよ、浮気相手が来たのかもしれないと動揺するくらいには想われているみたいだから安心しなさい」
「っ 叔母上!!」
「はいはい余計なお世話だったわね、ごめんなさーーい」
ようやくカエラが退室し急に静かになった応接室には、オーロラとミハイル二人だけが残された。
ソファに座ったまま、まだ少し不安げな表情を浮かべているオーロラの前に、ミハイルが跪いた。
目線が下がって見上げてくる青に、オーロラはぎこちない笑みを見せる。
「……すごくパワーがあるというか、嵐のような方でしたね」
「オーロラ、私は……」
「ちょっと、びっくりはしましたが、大丈夫です。
もう、落ち着きました」
「もしかして、私が浮気をしていると、疑った?」
訊かれてオーロラは一瞬言葉に詰まった。
押し込めた感情がまた戻ってきそうになるのを、再び心の底へと押し戻した。
「お話の流れ的にそうかもしれないとは思いましたが………
でも、そもそも、ミハイルが誰かと何かあったとしても、浮気では、ないですよね?
だって、私達は………」
オーロラが感情を殺し零すように言ったことと、そして途切れた後に続くと思われる言葉が、逆にミハイルの胸に刺さった。
(共に過ごす時間が長くなって、ずいぶん近づけた気がしていたのに)
彼女にとっての自分はまだ、契約者の枠を全く脱せていないのだと、思い知らされた気がした。
それに逆を返せば、彼女の方にも他者に心を許す余地がある、ということにもとれる。婚約解消に至ってもなおオーロラに執着を見せたという元婚約者のことがミハイルの脳裏を過って、苦い思いが込み上げた。
「……お互い以外の者と情を交わすのは、契約の第二項に違反する。
余計な心配はしなくていい」
「…………はい」
重い沈黙がおり、それに耐えかねたのかオーロラが立ち上がった。
部屋に戻ると告げ応接室を出ていく彼女を、ミハイルは黙って見送った。
今までなら相手の心情など気にせず、心のこもらない言葉を平気で口にしていたのに。
「あんな言い方しか出来んとは、情けない……」
誰か他の女性と情を交わしたりしない。
君が唯一の相手だ。
オーロラを前にすると、いや、オーロラの前だからこそ、これしきのことが言えない己の不甲斐なさを悔やみ、ミハイルは独り、ソファに沈んだ。




