セーラー服と短機関銃(日本海軍陸戦隊も持ってました)
第1次大戦後半になると、英仏軍もドイツ軍も半個小隊(2個分隊相当)を1チームとして運用するようになりました。ドイツのMG08/15軽機関銃は4人チームで運用しますが、戦場ですから交代要員が要ります。8人前後の「支援チーム」が軽機関銃を主な武器として働き、残りが前に出て偵察やら突入やらを引き受けるようになりました。この突入班ともいうべき兵士の兵器として、ドイツ軍が使っていたルガー拳銃の弾をフルオートで(引き金を引いている間、射撃が続く)発射する機関短銃が発注され、MP18が完成しました。弾を飛ばす火薬の少ない拳銃弾なので当然短射程になりますが、忍び寄って一気に制圧するには十分と考えられました。
第1次大戦後半から大戦直後にかけて、これと似たような兵器があと2種類開発されました。ひとつは、アメリカ軍のトンプソン大佐(のち准将)が考案したトンプソン短機関銃でした。サブマシンガン(短機関銃)とはこの兵器のために作られた名称ですが、この読み物では他国の銃と一般名称を区別しないことにします。トンプソンもドイツ軍と同様に第1次大戦の塹壕戦を見て、ひとりで扱える小型の機関銃を作ろうとしたのですが、小銃弾をそのまま使うつもりでした。しかし軽くて簡単な構造を追求すると、小銃弾の火薬の量に銃が耐えられないことから、拳銃弾を使う銃として完成しました。ただし自分で会社を立ち上げ、生産が始まったころには第1次大戦は終わっていたので、最初の得意客は禁酒法時代に入ろうとしていたギャングたちでした。少し射程を伸ばすため、小銃弾と拳銃弾の中くらいの専用弾があとで登場しました。イギリス軍など連合軍諸国は、この短機関銃を使って第2次大戦を戦いましたし、有名なグリースガンなど最新の量産技術に対応した短機関銃が登場しました。
フィンランドのスオミ機関短銃(KP/-31など)もMP18をフィンランドの事情に合わせて国産化したものでしたが、50発入り・70発入りのやや大きな弾倉を使うのが特徴でした。フィンランドは1939~1940年の冬戦争で(もちろん小銃とともに)この兵器を使ってソヴィエト軍を苦しめました。そしてソヴィエト軍は短機関銃の開発を進め、有名なPPSh-41を生み出しました。
じつはスオミ機関短銃は、最初からそこにあったMP18を参考にしたとはいえ、「塹壕用」ではなかったようです。フィンランドの技術と器材で量産できる、信頼性の高い自動火器を追求したら、小銃弾を使うものよりうまくいったのです。「安くてどこででも作れる」のは小銃に比べて短機関銃が持つ傾向で、それはAK47突撃銃にも受け継がれています。まあ弾の生産はそうはいかないようですが……
短機関銃は薬師丸ひろ子、長澤まさみ、橋本環奈らが撃って見せたように、胸の下に構えて、照星をのぞき込まずに撃ちます。撃てれば当たるというものではありませんが、軍歴のない若者を動員してごく短期間訓練し、大量生産した短機関銃を持たせるのは、ソヴィエト軍にとって唯一の選択でした。
ドイツ軍は小銃として、基本的には前大戦そのままの小銃を使っていましたから、MG34/42の高性能を割り引いてもソヴィエト軍に弾数で撃ち負けているという懸念が広がり、突撃銃StG44が開発されました。これは従来の短機関銃よりも射程が長めの、トンプソン銃の新型弾薬同様に中くらいの装薬量を持った弾丸を使っていました。新たなバランスを得た「アサルトライフル(突撃銃)」はAK47など今日まで子孫を増やし続けています。
第2次大戦に勝ったアメリカ軍はしばらく今までの兵器体系を変えようとしませんでしたが、ベトナム戦争でジャングル戦が多くなり、長い小銃は邪魔になるし、遠くを撃つ機会があまりないしということで、限られた数の狙撃兵は別として、やはり従来の小銃より銃身の短いM16自動小銃を採用しました。
ところが今世紀になって、また事情が変わりました。アフガニスタンなどの戦場で、再び遠くから発砲されることが増えたのです。今日では、アメリカ軍の歩兵分隊には選抜射手がいて、自動小銃より長射程のマークスマン・ライフルを持ち、遠くの脅威に気づいたら自分の判断で発砲することを認められています。




