案外アタリマエではない歩兵戦術
いま思うと、私が大学に入った1982年は「日本語ワープロ(専用機)がついに100万円を切った」とか「漢字が表示できるパソコンが出た」とかいう時代で、インターネットの商用利用が広がった1990年代後半まで怒涛の変化が続き、「業界のアタリマエ」がどんどん入れ代わりました。銃砲の19世紀も、技術革新が立て込んだ時代でした。
その技術のひとつが、砲身の内側への「ライフリング」でした。それまでの砲弾は、大砲を飛び出すときには(点火する都合などで)前・後ろがあるのですが、「どこから落ちるかわからない」ものでした。流線型の砲弾が回転しながら飛んでいく時代になって、先端部に着発信管をつけた砲弾がやっと作れるようになったわけです。
しかしそうなると、超小型の大砲もどきを使って破片をばらまき、死者よりも負傷者を出す戦争になることが懸念されました。感染症に対する血清も、まして抗生物質もない時代ですから、「助からない負傷者」が出やすく、敵の負傷者を増やすことは敵の手を割くことになって、今日よりも効果的であったでしょう。
1868年、欧州諸国代表がロシアに集まってSaint Petersburg Declaration of 1868を採択しました。これは「炸薬、燃焼剤などを内包する400グラム未満の発射物を禁止」する合意です。イギリス風に言えば1ポンド砲が下限ということですね。37ミリ砲弾は400~500グラムのものが多く、これくらいの小型兵器に各国の関心が集まることになりました。まあ以後の経過を考えれば、小銃擲弾などこの規定を無視した兵器がどんどん出てくることにはなったのですが、第1次大戦まで歩兵用15ミリ砲や20ミリ砲が出てこなかったのはこの合意が影響しています。
もうひとつの技術革新がダイナマイトでした。すでに黒色火薬を使った手榴弾はありましたが、一般兵士には取り扱いが難しく、第1次大戦を契機に近代的な手榴弾が量産されるようになりました。
そして機関銃です。ハイラム・マキシムはアメリカ生まれですが、先祖をたどるとフランスを脱出したユグノーの血筋だそうです。この人が世界中に売り込んだ機関銃は従来品の倍くらいの発射速度を誇り、イギリスに立てた会社ごとヴィッカース社に買収されましたが、ドイツに売り込まれた製品はMG08機関銃の原型となり、ロシアでも独自の発展を見せました。
ドイツ(プロイセン)はもちろん射撃試験も行ってマキシム機関銃の現物を数百丁買い、さらに小改修を加えてMG08機関銃を量産しましたが、その時には2丁のマキシム(輸入)機関銃が200名ほどの日本兵を一掃したというプロイセン観戦武官の報告も届いていました。ところがプロイセンが真っ先に試験や配備を行ったのは騎兵と猟兵の部隊でした。つまり初期のドイツ機関銃は歩兵兵器というより、重い砲を随伴させにくい部隊への代用砲のように扱われたのです。
第1次大戦が始まるころまで、歩兵も騎兵も猟兵も、分隊や小隊は均質なものでした。一斉に射撃し、一斉に横隊を組んで前進するのが原則であり、そこから猟兵は地形に合わせた展開をするとしても、隊内の分業関係はなかったのです。だから「砲」である機関銃が歩兵部隊から独立した扱いだったのは不思議ではありません。実際、当時の歩兵は小銃の進歩もあって、1分で15発くらい射撃できるように訓練されていました。カタログスペックから見ると、従来品より速いとはいえ「1丁で小銃兵30人分くらい撃つ兵器」として、有力な支援武器以上のものには見えなかったのでしょう。
ところが、これらすべてが交差したうえに、鉄条網で絡まってしまったのが第1次大戦でした。機関銃は「守りに強い兵器」であり、それまで勝利の決め手だった歩兵の横隊突撃を無効化することがはっきりしました。両軍ともそれを思い知ってしまったために、鉄条網で守られた機関銃陣地に実際に突っ込むのは慎重に計画された攻勢時に限られることになり、戦死者が機関銃弾よりも砲弾で生じる傾向を生んだわけです。
鉄条網を切ることはできますが、切っていたら機関銃のいい的です。ですから砲撃で掘り返す不確実な方法か、でなければ戦車で踏みつぶすかという選択になりました。ドイツの立場に立って、まず戦車はいないものとしましょう。ところが砲弾の穴は戦場の地形を不規則にしますし、通れるところ通れないところは現場に行ってみないとわかりません。
そこでドイツはいろいろな兵器を持った小さなチームを作り、「通れるところを探して通る」ようにしました。そのために、小集団を率いる士官だけでなく下士官にまで、柔軟な裁量を認めました。フランス軍が「浸透戦術」と呼んだ戦い方です。手榴弾で一気に敵を倒す兵士、重い機関銃を担いでくる兵士、火炎放射器を扱う工兵やシャベルと空袋(土のうになる)を持って占領地の陣地づくりをする工兵、そして小銃兵が協力します。大戦末期になるとここに、射程が短く反動の小さい短機関銃を持った兵士が加わりました。
そうして進めば、新たな敵の機関銃座などが見つかります。しかし後方の砲兵に連絡する方法はありません。そうしたときに使われたのが歩兵砲でした。第2次大戦時のデータを見ると、迫撃砲はむしろ防御戦で弾薬消費が多くなる兵器でしたから、攻撃では準備射撃には便利でも、新たな敵を精密に狙えるようなものではなかったでしょう。第1次大戦では旧式で小型のロシア軍要塞砲や、途中で登場した77ミリ歩兵砲がドイツ軍によって使われました。フランスの37ミリ歩兵支援砲であるピュトー砲は、ルノー軽戦車の主砲に使われたことでも有名です。
そして機関銃も、歩兵の小グループに組み込まれるものとして進化を始めました。アメリカ軍のBARのように小さめの弾倉を持ち、火力は高くないが信頼できる分隊支援火器を選ぶ軍もありましたし、ドイツはその逆に4人チーム(ひとりは冷却水タンク係)で運用する水冷式機関銃のMG08/15を多数配備しました。
フランス軍が「浸透戦術」と呼んだように、ドイツ歩兵のチームは眼前の陣地をあえて通り過ぎ、別のチームと挟み撃ちにしたり、守りの薄い後方の破壊を狙ったりしました。下級士官や下士官は、その作戦の基本的な目的は何なのかを理解し、どうすればそれに貢献できるかを考えて行動するよう期待されました。
機関銃も水平な場所に固定して正確に斜め上を撃てば、放物線を描いて狙った距離に着弾します。防衛ラインの後方に重機関銃(この場合は、重くて安定した銃架に据えられた機関銃)を置き、破られそうになったら後ろから支援することは第1次大戦で普通に行われました。第2次大戦になっても、ドイツのMG34/42用の銃架に取り付けた照準器には、遠方を撃つための調整目盛りがついていました。
しかし機関銃の発射速度が上がるにつれて、「相手が何もできないうちに、多数の弾をばらまける」ことが機関銃最大の利点になってきました。敵部隊がこちらに気づかないうちはじっと接近を待ち、伏せたり隠れたりしないうちに多数の敵を一度に掃射してしまうのが、成功した機関銃の使い方……相手から見れば最も恐ろしい使われ方になっていきました。そのため、相手の機関銃は見つけたら最優先でつぶすべき目標でもありました。
ですから機関銃は所在を隠し、相手の視線を浴びる正面よりも側面の、できれば特定の狭い角度からしか撃てない場所に配し、掃射して位置をさらしたらなるべく早く場所を移すべきものとされました。どこでも撃てる場所にある銃は、どこからでも撃たれてしまうのです。
たぶん第2次大戦になっても、機関銃で弓なりに遠くを(陣地の後ろから)撃って、突撃してくる敵歩兵に損害を与えたことはあっただろうと思うのですが、そうした撃ち方に「ひどくやられた」とか「脅威だった」とかいう軍人の回想は見かけません。一番怖い機関銃の使い方は上記の不意打ち系だったからでしょうか。
逆に複数のドイツ兵士が書き残しているのが、夜襲を受けたとき断続的に機関銃を撃ち続け、それによって兵たちの不安を鎮めて、夜明けまで粘ったという話です。1分10発に絞ったとしても、1時間で弾薬箱2箱が空になる勘定ですが、陣地内にストックがあったのでしょうね。銃手の横では暗い中で誰かが必死に、空いた弾帯へ弾丸を通していたに違いありません。
第1次大戦ドイツでは砲兵陣地の前に師団直轄機関銃大隊が防衛線を敷くことがよくありましたが、第2次大戦になるとさらに進んで、砲兵部隊に自衛のための機関銃手が配置されるようになりました。
異質のものを抱え込んだ指揮官は、それを一番必要なところに送って一番緊急の仕事をさせるよう、現場の判断をしなければなりません。経営者になるのです。今まで師団長クラスがやっていればよかったタイプの部隊経営が、小隊長や分隊長にも求められるようになりました。下士官というものの責任がズシリと重くなり、仕事が難しくなったのですね。
さて、こうなると短機関銃の話をしないといけませんが、それは次回へ回します。




