作戦術は作戦級とはあんまり関係ありません
スヴォーロフといえば、日本でミリタリに興味のある人にとっては、バルチック艦隊の旗艦の名前でしょう。もちろんこれは人の名前です。スヴォーロフ大元帥はフランス革命政府を包囲する大同盟に加わり、イタリアやドイツでも戦いました。
このスヴォーロフの言葉に、「鹿の通れるところなら、ロシアの兵士は通れる。鹿の通れないところでも、ロシアの兵士は通る」というものがあります。北の方はじめじめと沼が多く、南の方は夏になると土ぼこりがひどく、春と秋には平等に泥の季節を迎えます。泥の中では、西欧の足が細い軍馬はすぐ足を痛めてしまいます。コーカサス地方まで行くとステップ気候の土地が広がり、人口希薄で水が手に入らないので川沿いの移動しかできません。これに森が加わりますから、とにかく移動が容易でない土地です。
地図で見たロシアは今でも小さな国ではありませんが、移動にかかる時間で考えると、かつてはもっと大きな国であったわけです。
『The Russian Way of War: Operational Art, 1904-1940』というRichard W. Harrisonの有名な本は、19世紀ロシアから20世紀ソヴィエトにかけて発展したオペレーショナル・アート(作戦術、ロシア語ではオペラツィヴノイェ・イスクストゥヴォ)の概念形成を追った本です。誰が何を思いついて、誰が別の意味で同じ言葉を使って……といった時系列的なことはざっくり抜かして、帝政ロシアにおいてこの言葉「オペラーシャ」が持った様々な背景を並べてみることにしましょう。
まず、国土の広さと移動のしにくさです。すでに述べたように、ロシアでは軍が逃げるのも困難であり、追うのも困難です。また弱い敵と出会い、戦力比に見合った損害を与えるには、どんな地形で追いつくかも重要です。時間をかけて移動し、次には敵はどこに行く、その時自分たちはどこにいる……と互いの運動を先まで読まないと、優勢を勝利に変えることはできないのです。ナポレオンがまさにそれを果たせず、モスクワで立ち往生しました。逆に日露戦争のクロパトキンは戦力比の割には不出来であったものの、個々には劣勢な戦いを重ねながら、最後まで決定的な敗北を避けることには成功しました。これは目の前の敵と戦う「戦術」でもなく、君主やそれを代理する総司令官が持つべき「戦略」でもない、中間領域を作り出します。これが「作戦」とそれを上手にやる「作戦術」という概念の源流のひとつだとハリソンは言います。「戦闘」と「戦闘」をつないだ流れが作戦、流れを合理化するのが作戦術だというわけです。特にこの時期のロシアはポーランド分割を終えていますから、ドイツとオーストリア=ハンガリーに国境を接していて、名称はどうあれ次の大きな戦争では「ドイツ方面軍」と「オーストリア=ハンガリー方面軍」に分かれるという具体的なイメージを持てました。
しかし、舞台はロシア帝国ですから、「戦略」を担い、「作戦」の実行者たる軍司令官~方面軍司令官を選ぶのは皇帝か皇族です。いくら頭の良い軍人でも、「有事となれば皇帝はこうすべきだ」などと軽々しく言えるものではありません。軍人たちの議論が具体的なことに踏み込めず、言葉の定義に多くの紙数を使ったりしたことをハリソンは指摘していますが、たぶんそれにはロシアのお家事情が影響しているでしょう。
第1次大戦でのロシア帝国軍の戦いぶりも序盤だけおさらいしておきましょう。ドイツが東部戦線を手抜きする「シュリーフェン・プラン」を実行してくることは確実ではないが可能性が高い……と総司令官ニコライ大公(皇帝の遠縁)の幕僚たちは見ていました。だから2個軍から成るロシア帝国北西方面軍はドイツの出方を見つつ、「我は数的優勢」の判断のもとにゆっくりと進んできていました。ところが退却と守勢を命じられていたドイツ第8軍にヒンデンブルクとルーデンドルフの司令官・参謀長コンビが赴任すると、「素早く片方を囲んで食えるんじゃないか?」と思い始めました。北西方面軍司令部自身がロシア領ワルシャワにいて、ロシア第2軍はすでにワルシャワの真北から北北西に進もうとしていました。
ドイツ軍の増援が西部戦線から鉄道でやってきただけでなく、一部の包囲部隊は鉄道を使ってロシア第2軍を包囲しやすい位置に進みました。ロシア軍はもうロシアを出て、鉄道と通信網が発達し、気球や偵察機が空の目となる西ヨーロッパに入ろうとしていたのです。こうしてロシアでは得難いスピードと連携、そして火力の前に、(この他に、ロシア側将兵の愚かしい行動もいくつか影響しましたが)タンネンベルクの戦いでロシア第2軍は壊滅することになりました。
ちょっと意地悪く言えば、ロシアの大地ではスローモーションで見える軍の動きが、諸事便利なドイツ領ポーランド(当時)などではごく短期間に完結してしまうので、時系列的な作戦プロセスが見えにくいわけです。
Robert A. Doughtyの『The Seeds of Disaster: The Development of French Army Doctrine, 1919-39』は第1次大戦後から1940年までのフランス陸軍の考え方を研究した本ですが、フランスでは第1次大戦の序盤攻勢で大損害を出したことを忌避し、大戦後半の勝ちパターンをなぞったbataille conduitというコンセプトが流行ったそうです。これはどの部隊も砲撃の傘の下にとどまることを決定的に重要だと考え、前進するなら傘の動きに他部隊が合わせてゆっくり進み、全軍が一糸乱れず中央の采配通りに戦うというものです。もちろん電信、電話、偵察機、自動車といった当時の最新装備と、フランスあるいは近隣国の大地が前提です。これだと見かけ上、戦略と戦術だけがあって作戦的裁量の余地はほとんどない……ということになります。実際、ドイツ軍にスダンを突破された1940年のフランス軍首脳部は、近隣にいた軍司令部や軍団司令部に臨機の反撃を命じましたが、「命令は上から来るもの」という原則を叩き込まれていたフランス軍指揮官たちはすぐに反応できず、個々の部隊が各個撃破されるままになりました。
ここからはマイソフの講釈ですが、じゃあ第2次大戦初期のソヴィエトは作戦術の国だから作戦的裁量を認めているかというと、参謀総長やら参謀次長やらをモスクワに残さず、方面軍司令部や軍司令部に直接乗り込ませて、アドバイスという名の直接指揮をやるわけですね。あれは理解しづらい図式ですが、乗り込んだ幹部たちが毎日スターリンと電話協議をやるわけです。訓練途上の部隊やシベリア方面の部隊をどこにどれだけつぎ込むかは、スターリンの裁可がないと決まらないわけで、じつは第2次大戦期のソヴィエト軍はむしろbataille conduitをやっていたともいえます。そして互いに命令関係にない隣の部隊と協力することを、最後までとことん苦手とするのです。
命令系統を上から下に「攻撃成功の実績がない指揮官は処罰するぞ」と圧をかけていくと、リソースなしにノルマだけ抱えた社畜軍団があちこちで無謀な飛び込み営業をするように、必ずしも全体最適でない多方面同時攻撃が行われてしまいがちです。独ソ戦前半のソヴィエトは、これをやって自分で傷口を広げているように感じます。その相互確実消耗戦略に、最後にはドイツがすりつぶされてしまったのですが。
余談ですけれども、スターリンの耳目となる幹部たちが出払ってしまうと、毎日スターリンに概況説明をするのは作戦課長クラスとなります。何しろ未曽有の大戦ですから、漏れもなく矛盾もなく戦況を説明するのは容易でなく、作戦課長がシャボン玉のようにスターリンに次々と首を飛ばされた時期もあったようです。やがてアントノフ、シチェーメンコといった顔ぶれが固定してくるのですが、その話はいずれ別の切り口で。
「超人ロック」に銀河帝国の細かいトラブル処理を全部自分で親裁して、超能力者のナガト皇帝がげっそりとした顔をするシーンがありました。ああなってしまうとすべては「戦略の細部」になって、余人が横から口出しすることはかえって難しくなるでしょう。
整合的な戦略を立てる参謀チームが作戦レベルのことまで決めてしまい、それが目標達成の近道であるなら、オペレーショナル・アートよりもスタッフ・アートが必要ですよね。そういう意味では、ドイツは作戦計画のためのスタッフ・アートを研ぎ澄まし、スタッフと現場指揮官を頻繁に入れ替え、そのうえで現場指揮官の裁量を認めました。「作戦を作戦指揮官が決めていない」ことがあっても、「士官ならこうする」思考様式を共有していれば、食い違いは大きくならないはずです。だからロンメルとかロンメルとかロンメルとか、陸軍大学校でそれを徹底していない士官がうっかり出世すると、本当に想像を絶する横紙破りを始めてしまったりするわけですね。まあ普仏戦争でも第1次大戦でも、勇み足の命令違反から上司との離間が始まり、ついに顕職から追われたプロイセンの将軍はいるわけですが。
我々は「作戦級のゲーム」「戦略級のゲーム」といった、個人または小さなサークルが意思決定者となるイメージにこだわりすぎているのかもしれません。実際には「作戦級のユニットを自分の裁量で動かせる指揮官」が不在であるような政体がありますし、「実時間としては長い(短い)のだけれど、地勢と輸送技術のバランスやIT技術の普及度によって、意思決定のタイミングが少ない(多い)」ことによって、作戦術を働かせる余地が狭くなったり広くなったりします。「作戦術」から「特定のユニットサイズに関連しない一般論」を全部取ってしまったら、案外残るものは少ないように思います。
「作戦術」に交じりこんだ一般的観点の第一は、「時間というリソースの管理」であり、異時点間の最適化とか最適経路選択とか言ったものです。例えばそれぞれの所属部隊がいくらかの間隔で休息と補給を必要とするとしたら、それが重ならないように「シフト」を組む必要があり、それはコンビニ店長も軍司令官もその権限に合わせて身につけ、実践すべきアートです。南雲部隊がインド洋に出てしまったら、しばらくソロモン海に南雲部隊はいなくなるのですし、本土の守りに加わることもできません。遠征のあいだ他のことができなくなる機会損失を織り込んで、貴重なリソースに何をどういう順でさせたら一番有利になるか考えないといけません。
オペレーショナル・アートが戦後の東側で盛んに論じられたと言われるのは、いったん有事となればフランクフルトなりパリなりを目指して猛進する……という戦略レベルの目標と、それを可能にする数的優位が政治家たちによって堅持されていたからではないかとマイソフは想像しています。偉い人に叱られないというのは組織人の口を軽くします。その論客たち自身に有事の実権があったかというと、それはそれで帝政ロシアと同様の問題があるわけです。
一般的観点の第二は、権限移譲です。戦略レベルのスタッフが作戦の選択肢を絞り込んでしまったり、リソースと目標を細かく割ったりすると、「戦略」と「戦術」の中間にある意思決定者がいなくなります。そしてナガト皇帝のように、戦略レベルのスタッフが直面する時間や情報処理能力の制約が、そのまま軍の任務達成効率を制約してしまうことも考えられます。大企業が子会社や事業部を使った分権的な組織を作り、やっぱり考え直して本社に吸収を繰り返しているのと同様に、「誰に何を決めさせるか」で軍事組織の効率も変わってくるもので、技術、社会情勢、一般的な教育水準などが変化すれば「いま一番効率的な」組織の在り方も変わるのでしょう。それは特定の組織サイズに固有の問題ではありません。
あるドイツ軍連隊長さんの回想を読んでいたら、こんなことが書いてありました。大戦末期になると撤退許可を上申しても決して認めてもらえなくなるのですが、それは詰まるところ、ヒトラーがそうした報告を受けると怒って司令官を処罰するからでした。しかし戦場の実態は実態であり……師団長以上が命令をあいまいに書いて、連隊長クラス以下が時宜を見て撤退することを期待するのが常態化しました。査問会までやるのですが、仕方がなかったのだと述べるとうんうんと軍司令官や軍団長が納得して、むしろ「自分のリスクで撤退する指揮官」を重用するようなところがあったのです。こうなると戦略のほうが不在であり、戦略で何とかすべきところを作戦で糊塗する状態であったと評するべきでしょうか。もちろんごく局所的にどうにかなるだけなのですが。




