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96:馬鹿にしないでよ

「あの後……レイの過去を、全部聞いたんだ」


 しばらく考えた末に、私は言った。

 それからシャーペンを持ち直し、プリントに向き直る。

 如月さんのプリントを見て解答を書き写しながら、私は続けた。


「それで……レイの過去を聞いて、私……どうすればいいかわからなくなって……」

「……それで逃げてきたの?」

「ちがッ……いや……違わないか……」

「どっちよ」


 呆れた様子で言う如月さんの言葉に、私は答えられない。

 彼女の言う通り、私は逃げてきたにも等しい。

 考える時間が欲しいと言って、必ず戻る約束をしたのは良いけれど、結局は予防線を張って逃げてきたようなものだ。

 あの後すぐにレイに向き合う気になれなくて……逃げ出したんだ。


「……で、私にどうしてほしいの?」


 何も言えずにいると、如月さんはそう続けた。

 彼女の言葉に、私は解答を書き写していた手を止めて、しばし考える。


「……私……どうすればいいのかな……」


 小さく呟くように、私は言った。

 会話と言うよりは、独り言に近いように感じた。

 私は続ける。


「レイはきっと、すごく覚悟を決めて私に話してくれたんだと思う。それが分かるから、どうすればいいのか分からなくて……」

「……」

「私……私も、レイに隠してることあるから……真正面から向き合ってくれたレイに……申し訳なくて……」


 言いながら、ソッとシャーペンを置く。

 ズキズキと左目が痛み、その痛みが私の体を蝕んでいくような錯覚がした。

 私は眼帯に手を添えてその痛みを堪えつつ、さらに続けた。


「苦しいんだよ……レイのこと好きだからこそ……私なんかがレイの気持ちに応えられるはずがないんだって……!」

「……何それ……」

「嫌われたくなくて、この眼帯すら外せないような私に……レイに愛される資格なんて無いんだよ……ッ」

「結城さん」

「でもそれでレイを拒絶したら、真っ直ぐに向き合ってくれたあの子の気持ちを無駄にするみたいで……私もうどうすれば良いのか……!」

「結城さんッ!」


 如月さんに遮られ、私は声を詰まらせた。

 彼女の声はよく通り、教室中に響き渡ったような感覚だった。

 実際のところは、クラスの大半が雑談で騒いでいるため、彼女の声はかき消されたようなものだったけど。

 困惑していると、彼女は私の腕を掴んだ。


「行くよ、結城さん」

「え、どこに……」

「良いから来てッ!」


 強く言われ、私は反射的に口を噤んだ。

 すると、如月さんは私を強引に立たせて、そのまま歩き出す。

 彼女はずっと顔を伏せたままで、こちらから表情を探ることは難しかった。

 少し歩いて辿り着いたのは、女子トイレだった。


「如月さん……ここで何を……」


 女子トイレに連れ込まれてそう言った瞬間……破裂音がした。

 パァンッ……と、乾いた音が響き渡る。

 視界に閃光が走り、思考が少し吹っ飛ぶ。

 頬に感じる痛みで、先程の音が私の頬から発せられたことを知った。

 それはつまり……如月さんに、ビンタされたということ。


「……如月さん……?」

「……何が……私なんかよ……」


 微かに呟いたその言葉に、私は口を噤んだ。

 明らかに怒気を孕んだ声に、一瞬で怯んでしまう。

 怖気づいている間に、如月さんは続けた。


「嫌われたくないだの、愛される資格なんてないだの、なんだの……口を開けば自分を卑下するような言葉ばっかりッ! 結城さんは自分を何だと思っているの!?」

「き、急に言われても……」

「そんな風に言われたら……結城さんを好きになった私が馬鹿みたいじゃないッ!」


 怒鳴るように発せられたその言葉に、私は反射的に口を噤んだ。

 如月さんの顔は、怒りのせいか――別の感情が原因か――真っ赤に染まっていた。

 耳まで顔を赤くして、今にも泣きそうな目で、彼女は続けた。


「結城さんは……優しくて、真っ直ぐで、笑顔がかわいくて……言い出したらキリが無いくらい、良いところなんてたくさんあるッ! それなのに……私なんかとか言って……私の好きな人を馬鹿にしないでよッ! 貴方を好きになった私を馬鹿にしないでよッ!」


 感情任せに言っているのだろう。

 中々に恥ずかしいセリフを吐いているにも関わらず、彼女の言葉はまだまだ止まらなさそうだった。

 それに何も言えずにいると、彼女は潤んだ目で私を見つめて、続けた。


「ねぇ……結城さん……」

「……」

「結城さんが、自分をどう思っているのかは分からない。でもね……結城さんは充分、凄い人だよ。だから……あまり、自分を卑下しすぎないで」

「……如月さん、私ッ……」


 告白に答えなければ。

 そう思って口を開いたが、如月さんはそれ以上何も言わずに、ソッと私の隣を通って歩き出す。

 もうこれ以上、話すことは無いと云わんばかりに。


「……あぁ、そうそう」


 トイレを出る直前に、まるで演技がかったような口ぶりで、如月さんは言う。

 反射的に振り向くが、彼女が扉の方を向いているために、その表情は窺えそうになかった。

 彼女は続ける。


「レイさんに言われていたんだよね。……これは私たち恋人同士の問題だから、これ以上は踏み込まないで、って……」

「……レイが……」

「だから、もう……レイさんに関する相談は受け付けないよ」


 言いながら、如月さんはこちらに振り向く。

 彼女の表情は、不自然な程に平然としていて、先程の告白が嘘だったのではないかと疑ってしまうほどだった。

 平然とした表情のまま、彼女は続けた。


「私自身……好きな人の恋愛相談を受けるのは、もう辛いんだ」


 その言葉に、私は一気に罪悪感に蝕まれた。

 一体、彼女はいつから、私のことが好きだったのだろうか。

 私は今まで、レイのことでどれだけ彼女に相談をしてきただろう。私はどれだけ……彼女の心を傷付けてきただろう。


「……如月さん……私……」

「……もう行こう。課題やらないと」


 私の言葉を無視して、如月さんは言った。

 それに何も言えずに、私はその場に立ち尽くす。

 すると、扉を開けた体勢で、彼女はゆっくりとこちらに振り向いた。


「……結城さんはさ……もっと、自分の思うままに行動しても良いと思うよ」

「……それって……」

「許されるかどうかじゃなくて……レイさんと、どうなりたいのか……もっと、自分の心に正直に向き合ってみれば良いんじゃないかな」


 その言葉に、私はしばらく固まった。

 私の……心……。

 レイと、どうなりたいのか……か……。


「……ありがとう、如月さん」


 私はそう答え、一歩踏み出す。

 彼女のおかげで……目が覚めたような気がする。

 私はトイレを出て如月さんの元に行き、続けた。


「あと……ごめん」

「……良いよ」


 短いやり取りだった。

 けど……答えた後の如月さんの顔は、今までよりもどこか、清々しい表情に見えた。


「……今更だけど……結城さん?」

「ん?」

「苗字じゃなくて、名前で良いよ。私も名前で呼ぶから」

「えっ……良いの?」


 反射的に、そんなことを聞き返してしまう。

 今まで友達なんてものがまともにいなかったから、苗字で呼ぶのが当たり前になっていた。

 そんな私の言葉に、如月さんは笑って答えた。


「当たり前でしょ? だって、私たち友達なんだから」


 その言葉に、私は一瞬、足を止めそうになった。

 ……彼女の真意に……気づいてしまったから。

 だけど、私は足を止めなかった。

 ここで足を止めてはいけない。彼女が前に進もうとするのを、止めてはいけない。

 私も、如月さんも……前に進まないと、いけないんだ。


「分かった。じゃあ……沙希」

「ん……何? 神奈?」


 冗談めかした口調で言う沙希に、私はつい笑ってしまった。

 すると、沙希も釣られて笑い返した。

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