90:何かあった? 雨宮怜視点
幸せは、人を弱くする。
それが、私がこれまで生きていきて得た、一つの結論だった。
もしもの話をしよう。
例えば、生まれてからずっと、冷たい暗闇の中で生きてきた人間がいたとしよう。
皆からすれば、その人は不幸かもしれない。
だけど、自分を不幸だなんて思わない。
なぜなら、自分より幸せな人を知らないのだから。
その人にとっては、その冷たい暗闇だけが世界の全てだったのだから、自分より幸せな世界で生きていることを知らなかった。
じゃあ、その人を光の差す暖かい世界に連れ出してみたらどうなるだろう?
一歩その世界に出た途端、その人にとって、今まで自分がいた世界は冷たい暗闇の世界と化す。
優しい温もりを知り、眩い光を見たその人には、今までいた世界が冷たく暗い世界となる。
一度その幸せを知れば、今まで自分が味わっていた境遇が不幸だったことを、同時に知る。
そして、またその不幸を味わうことを極度に恐れるようになる。
今までずっと同じ境遇だったにも関わらず、だ。
話が逸れてしまった。
長々と、一体何を言いたかったのかと言うと……澪ちゃんによって光の差す暖かい世界を知った私にとって、また独りに戻ることは、冷たい暗闇の世界に戻ることと同義であるということだ。
そして、今までずっと独りだったにも関わらず、また独りになることは酷く私の胸を締め付けた。
あの日から、私は皆から陰口を叩かれるようになった。
同性愛者だと言われ、影で私を馬鹿にするあだ名を付けられ、嘲笑された。
体育の授業の際に女子と同じ教室で着替えているとヒソヒソと文句を囁かれるので、トイレで着替えるようになった。
男子からは雨宮菌が移るとか言われて、よくあるばい菌鬼ごっこのようなもので遊ばれた。
何だっけ……菌が移ったらホモになる、とかだったかな。
気味悪がられて、私とぶつかったりするとそこを手で拭って別の人に擦り付けられたりしている。
あと、授業等で他の人の席に座ると、後で雑巾で椅子と机を拭いているのを目にすることもしょっちゅうだった。
ハッキリ言おう。幼稚園児か?
中学生の頃に私を苛めていた奴等よりも、やっていることは中途半端で幼稚だ。
あの頃のクラスメイトも相当だと思うが、今のクラスメイトはそれ以下だ。
……中学の頃よりも、イジメの内容が稚拙なものになっていることは自覚している。
だけど……私には、それすらも耐えられそうになかった。
なぜなら、それは……。
「……あっ」
一人考えながら廊下を歩いていた時、前から歩いて来た澪ちゃんと目が合った。
友達と話していた澪ちゃんは、私を見て、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
しかし、すぐに見なかったことにするかのように目を逸らし、友達と話しながら私とすれ違って行った。
……私の心は、彼女のせいで弱くなった。
澪ちゃんと出会う前の私が、今のようなイジメを受けていたとすれば、きっと今よりも平常心で受け止めることが出来ただろう。
中学の頃よりはマシ。……そんな風に考えて、現状を受け入れていただろう。
しかし、私は彼女に出会ってしまった。
彼女に出会うことで、私は優しさを知ってしまった。
光の差す、暖かい世界を知ってしまった。
その優しさが消え、再び冷たく暗い世界に戻されれば……凍てつくような寒さが、私の体を突き刺す。
今まで感じ慣れたはずの寒さが、異様に冷たく感じる。
「雨宮さん?」
名前を呼ばれ、私は足を止めた。
振り向くとそこには……宇佐美先生が立っていた。
「う、宇佐美先生……」
「大丈夫? 顔色悪いけど……何かあった?」
そう言いながら、宇佐美先生は私の肩に優しく手を置いた。
彼女の言葉に、私は泣きそうな気持ちになった。
先生だから当たり前かもしれないけど、彼女を含めた先生達は、他の生徒と分け隔てなく私と話してくれる。
中学の頃は先生もイジメに参加したりしていたので、ごく普通に接してもらえるだけで、凄く有難く感じてしまう。
「だ、大丈夫ですよ……元気です」
「本当? もし何かあったら、ちゃんと相良先生の所に行くのよ?」
そう言って、宇佐美先生は朗らかに微笑む。
相良先生、とは、保健室の先生の名前だ。
フルネームは相良 奈緒美。明るい感じの飄々とした性格で、すごくフレンドリーな先生だ。
噂では、宇佐美先生と相良先生の仲が良いらしく、たまに保健室で二人で談笑したりもしているらしい。
……先生の中でも、宇佐美先生と相良先生の二人が、特に好きだ。
他の先生よりも頻繁に話しかけてくれて、心配してくれて、優しい先生。
今の私にとって、二人の存在はかなり大きかった。
……でも、二人が優しいからこそ、現状がさらに辛くなる。
宇佐美先生と別れれば、私はまた、独りになる。
先生達だって、いつも一緒にいられるわけじゃないし……何より、こうして私のことを気に掛けてくれるのも、結局は仕事でしかない。
それは分かっているけど……つい、二人を心の拠り所にしてしまう。
「うわッ!」
「えっ?」
前から声が聴こえて、私は咄嗟に顔を上げた。
直後、前から走ってきた男子生徒が私にぶつかる。
左肩に強い衝撃を受け、私はよろめきつつ、壁に手を当てて停止した。
「いってぇ~! 最悪、雨宮菌付いちまった~!」
私とぶつかった男子は、謝りもせずに走って行きながら、友達にそんなことを愚痴っていた。
馬鹿にするような嘲笑の声を聞きながら、私は壁に凭れ掛かった。
「……死ねばいいのに」
ポツリと、私はそう呟いた。
それは、いじめっ子共に対してなのか……それとも……――。




