89:考えられないよね 雨宮怜視点
翌日から、二学期は始まった。
あっという間だった夏休みは、終わってみるとなんだか呆気なく感じ、少し物寂しさがあった。
これからまた学校が始まると思うと、なんだか少し億劫になる。
けど、私の足が重い理由は、それだけではなかった。
昨日、夏祭りや花火の影響でテンションが上がり、その勢いで澪ちゃんに告白をしてしまった。
澪ちゃんは告白の答えは待って欲しいと言っていたが……告白の返事が出るまでは、ぎこちない感じになってしまう気がする。
だけど、きっと大丈夫。
例えダメだったとしても、普通の友達には戻れるはずだから。
せめて、告白の結果が出るまでの我慢だ。
大丈夫、大丈夫。
「……よしっ」
小さく呟き、私は教室の扉に手を掛けた。
そして、ガラッと音を立てて、私は扉を開いた。
しぃん……。
先程までの喧騒が一転。
まるで時間が止まってしまったかのように、教室の中が静かになる。
一気に皆の視線が集まり、私の姿を捉える。
え……何……?
教室の扉を開けた体勢のまま、その場で固まる。
何だろう……この雰囲気……。
まるで……中学生の頃のような……。
「ッ……!」
おぞましい考えが脳裏に過り、私の心臓が竦み上がる。
な、何を考えているんだ……。
あの頃とは違う。私には、澪ちゃんが付いているんだ。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
何度も頭の中でその単語を反芻させながら、私は鞄を肩に掛け直し、教室の扉を閉めて一歩踏み出す。
一歩ずつ前に歩く度に、心臓の音が速まっていく。
嫌な汗が噴き出し、私の焦燥を駆り立てる。
この嫌な予感に、根拠なんて無い。
だけど……三年間イジメを受けてきた私の直感が、脳髄にその事実を何度も叩きつけて来る。
『大丈夫』じゃない、と……警告を鳴らしてくる。
「……今でもさ、そういう目で見てるってことでしょ?」
微かに聞こえてきた陰口に、私の足は止まった。
頭を鈍器で殴られたような衝撃が、私を襲う。
グラリと意識が眩み、今すぐにでもその場に倒れそうになる。
その間にも、少しずつ、教室の喧騒が……戻っていく……。
「やっぱそういうことなのかなぁ」
「絶対そうだって」
「汗の匂いで興奮してたりして」
「うわ、ヤッバ」
「キモイというか、最早怖いよね」
どこか声を潜めていて、私には聞こえないようにと良く分からない配慮をした声。
だけど、私の耳は、嫌でもその声を拾ってしまう。
どんなに耳を塞ぎたくても、聞き入ってしまう。
「大体さ、あり得ないでしょ」
そんな中で、私は一つの声を聞き取る。
これだけは……この声だけは聞いてはいけない。
頭の中のどこかで、そんな警告が鳴る。
だけど……気付けば私は、その声に耳を澄ました。
耳を……澄ましてしまった。
「考えられないよね~。女同士なんて」
ケラケラと笑いながら、誰かが言う。
その言葉に、ずっと私の胸中を支配していた不安が的中したことを知る。
だけど……皆がこのことを知っているということは……それを話した人がいるということ。
私は、誰かに恋愛相談なんてしていない。したことなどない。
私の澪ちゃんへの想いを知っている人は……一人だけじゃないか……ッ!
「そ、そうだね」
先程の声に、誰かが答える。
その声の主に、私は視線を向けた。
体ごと、その人に向かって振り向く。
「……澪ちゃん……」
そう呟いた声は……酷く掠れていた。
喉が痛い。目の奥が熱くて……胸が痛い。
私の声が届いたのか否か……彼女はこちらに振り向く。
視線だけで、まるで流し見するように、私を見る。
そして、すぐに……視線を逸らす。
まるで、見なかったことにするかのように……私の存在を、無かったことにするかのように。
あぁ……そっか……。
私にとって澪ちゃんは、私の人生を変えてくれた最愛の人だ。
だけど、澪ちゃんにとっては……一人のクラスメイトでしか無かったんだ。
あぁ、いや、もう……クラスメイトですらないか。
彼女にとっては、私なんて、いらない存在なんだ。
女なのに、女を好きになってしまった、異常者なんだ。
もう、クラスメイトですらない。関わり合いにもなりたくない……邪魔者でしかないんだ。
「……うッ……」
目の前が眩み、腹の奥から何かが込み上げてくる。
私は口元に手を当てて、すぐに教室を後にした。
人の波を掻き分けて、すぐに近くの女子トイレに駆け込む。
その一番奥の個室に入り、洋式便器の中に……込み上げてきたそれを、吐き出した。
「おぉぇッ……ぇぉッ……おぇッ……」
醜い声を漏らしながら、私は全てを中に吐き出す。
ビチャビチャと汚い音を立てながら、今日の朝食が吐瀉物となり流れていく。
澪ちゃんとの思い出も、記憶も……彼女への気持ちも……。
何もかも流れて、消えていけばいいのに。
「おえぇッ……うぶッ……ぇぉッ……けほッ……」
いつしか胃の中は空っぽになり、口からは胃酸しか出てこなくなる。
吐くものなんて無いくせに……空っぽのくせに……私の胸の中は、虚無になってくれやしない。
「けほッ……はぁ……はぁ……おぇッ……」
涙が込み上げてくる。
私はその場にへたり込み、肩で息をしながら、床を見つめる。
……これからどうすればいいんだろう……。
教室に戻っても、陰口を叩かれるだけ。
澪ちゃんのあんな視線……二度と向けられたくない。
でも、じゃあ、どうすれないいのかな。
私は……どこに行けばいいのかな……。
「教えてよ……みおちゃん……」
小さく呟いたその声は、誰かに届くことなく……流れていった。




