85:ずっと思ってた 雨宮怜視点
体育の授業を楽しいと思わなくなったのは、一体いつからだっただろうか。
高校生になってから? それとも中学生? 小学生?
何を言っているんだ。そもそも、体育を楽しいと思ったことなんてないじゃないか。
運動は出来ないし、クラスにも馴染めない私にとって、体育は苦行以外の何者でもない。
けど、そんな私にとって今日の体育は……すごく楽しかった。
荻原さんはバレーが上手くて、運動音痴の私にも分かりやすく教えてくれた。
私が出来るようになるまで、根気強く、しっかりと。
オマケに優しくて、口下手な私が上手く話せなくても、急かしたりせずにしっかり話を聞いてくれた。
そんな彼女との一時間の体育は、生まれて初めて、楽しいと思えるものだった。
荻原さんが優しくて明るい良い人であることは、充分分かった。
分かったからこそ、やはり気になる。
彼女がなんで、私なんかとペアを組もうとしてくれたのか。
彼女程の人なら、たくさん友達がいるはずだ。
わざわざ私とやる必要なんて無い。
私としては有難い話だけど……彼女が私と仲良くする理由が、見つからない。
「……荻原さん」
更衣室に移動する中で、私は荻原さんを呼び止めた。
すると、彼女は足を止め、こちらに振り返る。
それから、コテンと首を傾げた。
「何? ……どうかした?」
「あ、ぁの……私っ……」
いざその時になると、やはり緊張してしまう。
だけど、ここで逃げたら……何も変わらない。
ずっと、変わりたいと思っていたはずだ。
だったら、ここで逃げたらダメだ。
変わるんだ。変わりたいんだ。だったら……一歩、踏み出すんだッ!
「な、なんで……お、荻原、さんは……私と……」
「雨宮さんと仲良くなりたかったから」
何度もどもりながら言う私の言葉に、荻原さんは笑顔で、当たり前のことのように答えた。
まさかの答えに、私は「え……?」と聞き返してしまう。
この人は……何て言った?
私と、仲良くなりたいって?
予想だにしていなかった回答に、ただでさえ緊張でグチャグチャだった私の頭の中はフリーズしてしまう。
何も言えずに固まっていると、荻原さんはズイッと距離を詰めてきた。
「ぇあッ……!?」
「その顔……さては信じてないな?」
「えっ? えっと……」
「嘘なんかじゃないよ? まぁ、今日ペアを組んだのは、よく一緒に組んでる子が休んでたのもあるけど……前から雨宮さんと仲良くなりたいって思ってたし」
当然のことのように言う荻原さんに、私は何も言えなくなる。
すると、彼女は私の手を握って、ニッと白い歯を見せて笑う。
「隣の席なんだしさっ! 雨宮さん可愛いし、仲良くなりたいなーってずっと思ってたの!」
その言葉に、ドキッと心臓が高鳴るのを感じた。
可愛いだなんて、今まで言われ慣れた言葉なのに……なんで今、その言葉にときめいてしまったんだろう。
困惑している間に、荻原さんは「あっ」と小さく声を上げつつ、私の手を離した。
「ごめんね、手握っちゃって……馴れ馴れしかった、よね?」
「ぇ、あっ……ううん……平気……」
申し訳なさそうに謝る荻原さんに、私はそう答えつつ、離された手を揉む。
先ほどまで感じていた温もりが恋しく、離されると、片手だけ少し寒くなったような感覚があった。
私の言葉に、荻原さんはふにゃっと安心したように笑って「よかったぁ」と呟いた。
「んじゃ、早く着替えて教室帰ろ? 次数学だから……あの鬼山に叱られちゃうよ」
「……ふふっ……そうだね」
冗談めかして言いながら肩を竦める荻原さんの言葉に、私は笑いながら答えた。
鬼山、とは、数学の担当の杉山先生のことだ。
厳しい先生で、授業に遅れた生徒をこっ酷く叱る様子から、そんなあだ名が付けられた。
今まで他人の会話を盗み聞きする中で聞いていたそのあだ名が、目の前で自分と話している人の口から発せられたその事実が、なんだか異様に胸に響いた。
一人感激していると、荻原さんは私の手首を掴んだ。
「ほらっ、早く行こ?」
「……! う、うんっ!」
急かす荻原さんに頷き返し、私は歩を速めて彼女に追いついた。
それからというもの、荻原さんは頻繁に私に話しかけてくれるようになった。
朝学校に来ると挨拶してくれたり、授業が始まるまで話したりするようになった。
今まで憧れていた学校生活が、すぐそこにあった。
彼女には他にも友達がいるにも関わらず、よく私と話してくれた。
その中で彼女の友達も混ざって話す機会も多々あり、最初は中々上手く話せなかったけど、段々皆と同じように話せるようになっていった。
ずっと憧れていた日常。
皆にとっては当たり前の日々。
今まで白黒だった私の日常が、荻原澪という一人の少女によって、鮮やかに彩られていくような気がした。
今思えば、過去の私は人とまともにコミュニケーションを取ることが出来ない、かなり面倒な性格をしていたと思う。
そんな私と根気強く付き合ってくれた澪ちゃんには、感謝の言葉しか出てこない。
彼女とは、一生ものの友達でいられるような気がする。
私はそう……信じて疑わなかった。
しかし、私の平穏な日常は、ある時を境に崩れ始める。
順調に回っていた歯車が、ある日突然……軋み始める。




