81:卑怯者 雨宮怜視点
<雨宮怜視点>
如月さんがいなくなった屋上には、嫌な静寂が流れる。
春の、朝の爽やかなそよ風が、私と結城さんの間を吹き抜ける。
彼女はスマホを持った手をダランと垂らし、信じられないといった様子の表情で私を見つめた。
「……結城さん……」
掠れた声で、私は何度も呼んだ彼女の名を呼ぶ。
どんな名前よりも、誰のものよりも愛おしい……最愛の人の名前。
けど……演技をやめた状態で呼ぶのは、初めてかもしれない。
「……レイ……さっきの如月さんの言葉は、本当なの……?」
震える声で尋ねる結城さんの言葉に、私は答えられない。
言葉が出てこないし、何より……何を言っても、言い訳にしかならないような気がした。
ずっと黙っていると、彼女は大股で私の元まで歩いてくる。
「黙ってばかりじゃわからないよ! 何とか言ってよ!」
詰め寄りながら、彼女は悲痛な声で叫ぶ。
あぁ、もう……ダメだ。隠せない。
本当なら、時期を見て私から言うつもりだったのに……あの女は余計なことをしてくれた。
けど……良い機会なのかもしれない。
ここまで強引にしてくれなければ、私はきっと、これからも結城さんに全てを隠していたような気がする。
穢れを知らない、可愛らしい純粋無垢なレイを、演じ続けていたと思う。
「……そうですよ」
小さく、私は答える。
すると、結城さんは「えっ……」と、声を漏らした。
私はそれに、自分の胸に手を当てて続けた。
「如月さんの言う通りです。私には……生きていた頃の記憶があります」
私の言葉に、結城さんは目を見開いた。
左目は、眼帯に隠れていて見ることができない。
唯一見えている右目は大きく見開き、どこか悲愴な色を帯びながら、私を見つめている。
「じゃあ……今までの私との時間は……全部偽物だったの……?」
「……」
「ずっと……私のこと笑っていたの? 何も知らずに、貴方の為に頑張ろうとする私を、馬鹿にしていたのッ!?」
「違いますッ!」
責め立てるように叫ぶ結城さんの言葉を、私はとっさに否定する。
笑ってなんかいない。馬鹿になんてしていない。
私はただ、結城さんの気を引きたくて……彼女に、ここにいてほしかっただけ……。
それ以外は……何もいらなかった。
「……酷いよ……」
その時、微かな結城さんの声がした。
今にも泣きそうなその声に、私は反射的に顔を上げた。
そして……言葉を失った。
「レイのこと……信じていたのに……騙すなんて酷いよ……ッ!」
目に涙を浮かべながら、結城さんは言う。
……彼女の泣き顔を見るのは……少し苦手だ。
好きな人の泣き顔を見るのが嫌と言うのももちろんだが、それ以上に……彼女のコンプレックスが少し、浮彫になるから。
結城さんは……涙を、右目からしか流さない。
左目からは、一滴の涙も零れないのだ。
眼帯で隠れているから当たり前だと言われるかもしれない。
でも、どんなに号泣しても、涙が零れるどころか眼帯が湿る様子も無い。
何より、どれだけ泣いても、眼帯を外したりする素振りが一切無いのだ。
彼女が左目に何らかのコンプレックスを抱えていることは、なんとなく分かる。
詮索するつもりは無いけれど、彼女の泣き顔を見ていると、そのコンプレックスの片鱗が見え隠れしているような気分になる。
考えたくなくても、無意識の内に彼女のことを詮索してしまう。
「……ごめんなさい……」
口からは、謝罪の言葉しか出てこなかった。
何を言っても、今の彼女には、薄っぺらく聞こえると思ったから。
ここまで私のことを愛してくれた人に……私は何を言えば良いのだろう。
一体、何を伝えれば良いのだろうか。
そんなの……私なんかに、分かるわけがない。
彼女を騙し続けた私なんかに、分かって良いものではない。
「……私の話を……聞いてくれませんか……?」
掠れた声で、私は続けた。
それに、結城さんは涙で濡れた右目で私を見つめる。
何を言っても、言い訳にしかならない。……薄っぺらい言葉にしかならない。
だったら、いっそ……隠すのはやめる。
もう彼女を騙さない為にも……何も知らない無邪気なレイちゃんはやめる。
「……レイの……話……?」
涙で濡れた声で、結城さんはそう呟く。
それに、私は「はい」と頷き、微笑んで見せた。
「もう……嘘はつきません。ちゃんと、正直に全て話します」
私はそう言いながら、結城さんの頬に触れる。
触れた手は彼女の頬を擦り抜けて、掌が僅かにめり込む。
涙で濡れた頬に触れても、彼女の涙で私の手が濡れることはない。
一瞬、私を見つめる結城さんの顔に……澪ちゃんの顔が重なる。
その顔を思い出すだけで、胸が抉られる。
「だから……もう一度だけ、信じて貰えませんか?」
彼女の目をまっすぐ見つめながら、私はそう続けた。
すると、結城さんの表情は徐々に悲痛に歪み、涙で濡れた目にさらに大粒の涙が浮かぶ。
ボロボロと涙を流しながら、彼女は続けた。
「……卑怯者……」
涙声で、結城さんは小さく呟いた。
それに驚いていると、彼女は手で涙を拭いながら続けた。
「そんな言い方されたら……私には……良いよって言うことしか出来ないじゃないですかッ……」
悲痛な声で言う結城さんに、私は声を詰まらせた。
……卑怯者……か。
確かに、私は卑怯だ。
彼女の気を引きたくて嘘をついて、好かれるように精一杯明るく振舞って、何も知らない無邪気な幽霊を演じた。
私が彼女を心から愛してしまったように、彼女も私を心から愛してしまった。
今更騙されていたことが分かったところで……嫌いになろうと思って、なれるものではない。
「……ありがとうございます」
何を言えば良いかわからなかった私の口からは、そんな、皮肉のような言葉が零れた。
ただ……私の話を聞いてくれると言った、彼女の言葉が嬉しかっただけ。
けど、今お礼を言うと、なんだか嫌味のようだと思った。
だけど、まぁ……卑怯者の私にはお似合いか。
「……私がこの屋上から飛び降りて自殺したのは、先月の、三月十九日の……修了式の日のことです」
私の言葉に、結城さんは涙を拭いながら、口を噤んで次の言葉を待った。
……さぁ、話そうか。
卑怯者の私が、唯一誰かに正直に向き合った時の話を。




