57:一緒に読もっか 有栖川薫視点
<有栖川薫視点>
「ただいま」
小さく呟きながら、私は家の扉を開ける。
暗くて静かな玄関が、私を迎えた。
私は速やかに靴を脱ぎ、自室に向かって足を進めた。
……頭が痛い。
色々と考えすぎて、このまま熱を出してしまいそうだ。
部屋に入った私は、鞄をベッドに投げ捨て、そのまま倒れ込んだ。
『ナギサさんに……会ってみない……?』
頭の中に、神奈ちゃんの声が響く。
……お姉ちゃんが幽霊になって、学校の屋上にいるなんて……。
神奈ちゃんを疑うわけじゃないけど、正直、にわかには信じられない話だ。
でも、彼女が嘘をついているとは思えない。
嘘をついて私をからかうのが目的なら、もう少し信憑性のある嘘をつくべきだ。
それに、お姉ちゃんの名前を正確に当てられたのが、彼女の言葉を裏付ける証拠になっている。
私は姉がいた話なんて全くしたことないし、名前なんてもってのほか。
彼女が最初にお姉ちゃんの名前を出した時も、私の姉だと明確に分かっているのではなく、あくまでナギサという少女の存在を私が知っているか確認する感じだった。
なんであの時だったのかは分からない。でも、幽霊が見えてお姉ちゃんの存在を知っていたとしたら、彼女の言動にも辻褄が合う。
『会ってみる価値はあるんじゃないかな……』
神奈ちゃんの言葉が、蘇る。
お姉ちゃんに会う、か……。
私は幽霊なんて見えないし、お姉ちゃんの姿も声も認識することは出来ないらしい。
しかも、前世の記憶は全て抜け落ちているとのこと。
でも……私の声は、届けられる。
お姉ちゃんに言いたいことは山ほどある。
神奈ちゃんが言う通り、私はお姉ちゃんに会うべきなんだろう。
でも……気持ちの整理が出来ない。
お姉ちゃんはすでに死んでいて、もう会えないものだとずっと思っていたから。
また会えるかもしれないなんて、考えたこともなくて、色々と混乱しているのだ。
ふと瞼を開いた時、鞄から飛び出ている手帳が目に入った。
私はノロノロと腕を動かし、それを手に取って、手元まで持っていく。
それから、手帳の裏表紙を見た。
『有栖川 渚』
そこには、透明のビニール? のようなものの奥に、お姉ちゃんの身分証明書が挟まっていた。
名前や住所のちょっとした個人情報と共に、入学した時に撮ったであろう、お姉ちゃんの顔写真が貼ってあった。
「……お姉ちゃん……」
小さく呟きながら、私は生徒手帳を胸に抱いた。
瞼を閉じると、お姉ちゃんとの記憶が、鮮明に蘇った。
---10年前---
「ふざけるなッ!」
そんな怒声と共に、誰かが何かを殴る音がする。
すぐ後に、バサバサと何かが落ちるような音が次いで聴こえた。
これで何回目? お父さんがお母さんを殴るのは、一体何回目?
分からない。もう数えきれないくらい、このやり取りは続いている。
あと何回続いたら、聴こえなくなるのかな。
幼い私には、こうして部屋の隅で耳を塞いで震えることしか出来ない。
……こわいよ……。
「大丈夫だよ」
その時、何かに包み込まれるような感覚があった。
視線を動かすと、肩に毛布が掛かっているのが見て取れた。
パッと顔を上げると、いつの間にか隣にはお姉ちゃんがいた。
「大丈夫、大丈夫」
そう言いながら、お姉ちゃんは私の背中を擦る。
毛布を掛けて、背中を撫でるだけ。
たったそれだけのことなのに、それだけで、私の気持ちは一気に安らいだ。
「……お姉ちゃん……」
「今日は学校の図書館でこの絵本借りてきたんだ」
そう言いながら、お姉ちゃんは近くに置いていた絵本を持ち、顔の高さまで持ち上げてニカッと笑う。
タイトルを見てみると、見たことのないタイトルが書かれていた。
ぼんやりと眺めていると、お姉ちゃんは私の顔を見て続けた。
「一緒に読もっか」
「……! うんっ!」
頷いて見せると、お姉ちゃんは「よしよし」と言って笑い、早速絵本を開いた。
私は、この時間が大好きだ。
お姉ちゃんはいつも、学校の図書館で面白い本を見つけて、借りてきてくれる。
その絵本をこうして二人で読むのが、私は大好きだった。
体を密着させて、頭を突き合わせながら絵本を読む時間は、すごく楽しかった。
私には、二歳年上のお姉ちゃんがいる。
明るくて元気で優しい、自慢のお姉ちゃんだ。
家では、いつからか、お父さんがお母さんを殴るようになった。
最初はただひたすら怖くて、部屋の中で震えていた。
でも、お姉ちゃんはそんな私を慰めてくれた。
一緒におままごとやお人形遊びをしたり、絵本を読んだりして、お父さんとお母さんの喧嘩が終わるまでの間、気を紛らわしてくれた。
「こうして、皆は幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし」
そう言って、お姉ちゃんは絵本を閉じる。
いつの間にか、部屋の外からは何の音もしなくなっていた。
どうやら、今日の喧嘩は終わったらしい。
安心すると、なんだか眠くなってきちゃった。
重たくなる瞼を耐えきれず、私はお姉ちゃんの肩に頭を置いた。
「薫?」
「ん……」
お姉ちゃんの呼びかけに答える余裕すら、今の私には無かった。
彼女の体に寄りかかったまま、ゆっくりと瞼を落としていく。
すると、お姉ちゃんは小さく息をついて、私の肩を優しく抱いてくれた。
……頭も撫でられている。
私は、お姉ちゃんに寄りかかったまま、ゆっくりと意識を闇に落としていった。




