26:凄く嬉しいです
「ごめん。でも……言いに行きたくない」
授業開始のチャイムが鳴り響く中、その音に負けない凛とした声で、如月さんは言う。
彼女の言葉に、私は「え……?」と聞き返す。
すると、如月さんは椅子から立ち上がり、続けた。
「授業始まったから……もう、教室戻るね」
「えっ、ちょっと……」
「……また、昼休憩になったら、来るからね」
端的に言い、如月さんはベッドを囲むカーテンの隙間から出て行ってしまった。
それに、私はベッドに寝たまま、彼女を見送ることしか出来なかった。
首を動かしたことにより、額に乗せていたタオルは落ち、枕元に転がっている。
一時間程寝ていたことと濡れタオルのおかげで、体調は大分良くなっている。
けど、まだ少し辛い。昼休憩に屋上に行くのは難しいし……下手すれば、このまま途中下校となるだろう。
明日から週末だから月曜日には体調自体は復活するだろうが、今日中の回復は見込めない。
けど……まさか、断られるとは思わなかったな。
私は転がったタオルを額に当て、ぼんやりと天井を眺める。
……そもそも私は、如月さんに断られるかもしれない、なんて……少しも考えてなかった。
彼女なら承諾してくれる、と、心のどこかでは確信していたんだと思う。
優しい如月さんなら、これくらいのお願いは受けてくれる、と……甘えていた。
改めて考えれば、昨日の一件で、二人の距離はぎこちなくなっている可能性だってある。
感性なんて、人それぞれ。
如月さんがあの一件で、レイに二度と話しかけたくない……なんて考えた可能性だって、ゼロでは無いのだ。
オマケに、私達の教室から屋上は遠い。友達の伝言だけであの距離を歩くこと自体、かなり面倒だ。
「……最低だ……」
ポツリ、と、私は呟く。
考えれば考える程、如月さんが断る理由しか思いつかなかった。
……無意識の内に私は、彼女の優しさに、縋っていたのだろう。
そもそも私には、友達との距離感なんて、分からない。
今までロクに友達がいたことも無いし、それどころか、まともに手を握ってくれる人さえ何年ぶりかってレベルだ。
言い訳をするわけではないが、私には人と関わる経験が無さ過ぎる。
回復したら、如月さんに謝らなくちゃ。
折角出来た友達だ。失いたくない。
……その為にも、この週末は安静だな。
一人そんな風に考えて、目を瞑った。
「……結城さん?」
聞き覚えのある声がして、私は瞑った目を開いた。
声の主を探した私は、壁から上半身を生やし、心配そうに私の顔を覗き込んでいる少女に視線を止めた。
彼女を見た瞬間、私は目を丸くした。
「……レイ……?」
「結城さん、こんな所で何をしているんですか? ……授業はどうしたんですか?」
そう言いながら、レイは壁から抜け出て、ベッドの横に降り立つ。
彼女の言葉に答えるべく、私は口を開いた。
しかし、途端に様々な感情が胸の内で巡って、咄嗟に言葉にならなかった。
結果、私は「ケホッ、ケホッ」と咳き込んでしまった。
「わわ、大丈夫ですか!? もしかして、風邪ですか? 先生呼んで来ましょうか!?」
「や、大丈夫。……大丈夫だから」
私は掠れた声でそう言いながら体を起こし、二、三度咳をする。
急に噎せた時は焦ったが、何度か咳をしていると徐々に喉の調子も治り、普通の声を出せるようになった。
しかし、やはりまだ色々と怠く、体を起こしただけで頭が重くなったような気がした。
額に乗せたタオルを片手で押さえつつ、私はレイに視線を向けた。
「……大体、レイは他の人には見えないんだから、呼びようがないじゃないですか」
私の言葉に、レイはハッとしたような表情を浮かべながら「そうでした!」と声を上げた。
どうやら気付いていなかったらしい。
彼女の反応がなんだか可笑しくて、私は小さく、息を吐くように笑った。
次いで、「あははッ」と笑い声を上げてしまった。
「な、何が可笑しいんですかぁ!」
「あははッ……いや、レイの反応が可愛いなぁ、と思って」
そう言いながら、私は笑った拍子に零れた涙を指で拭う。
笑うと震動が頭に響いて少し辛いが、レイを見ていると、不思議と安らぐような感覚があった。
レイはどこか不満そうにしていたが、やがてその表情を緩め、改めて私の顔を覗き込んでくる。
「えっと……本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫ですって。多分、ちょっと重い風邪なので……少し寝れば治りますよ」
「でも……」
「最近色々あって疲れただけだと思うから……気にしな……」
そこまで言って、私は固まった。
……自分が言葉選びを間違えたことに気付いたからだ。
今の言い方では、間接的にではあるが、『レイのせいで風邪を引いた』と言っているようなものだ。
そりゃあ、レイに協力することは、確かに疲れる。
けど……嫌じゃない。
嫌だったら、とっくの昔に縁を切っている。
「あ、いや、レイ……これは……」
咄嗟に弁解しようとした時、レイは私の額に触れようとした。
しかし、彼女の手は私の額を貫通し、肘までめり込む。
突然の彼女の行動に、私はしばらく固まった。
間近に見えるレイの顔が、物凄く悲痛そうで、何も言えなかった。
「……触りたい……」
小さな声で、レイは呟く。
彼女の言葉に、私は顔を固めた。
すると、レイは続けた。
「結城さんは、私のせいで辛い思いをしているのに……私は、触ることも出来ない……」
「……レイ……」
「結城さんの熱を感じることも、タオルを取り換えることも、何かあった時に先生を呼ぶことも、何も……出来ない……」
「……」
「それなのに私は、記憶を取り戻す手伝いを結城さんに頼んで……迷惑掛けて……無理させて……なんで……」
幽霊になんてなっちゃったんだろう……と。
か細い声で呟きながら、レイはその顔を両手で覆う。
きっと私は、ここで、彼女の頭でも撫でて慰めてあげるべきなのだろう。
彼女の体を抱きしめて、「貴方のせいじゃないよ」と、言ってあげるべきなのだろう。
しかし、私は何も出来ない。ベッドの上で体を起こし、俯く彼女の頭頂部を、ジッと見つめることしか出来ない。
……レイが幽霊で……私に霊感があるから……。
私達が触れ合うことは無いし、お互いの熱を感じることは出来ない。
レイという少女は、この世界からは隔離された存在で、この世界に干渉することは出来ない。
反対に、私も彼女の世界には干渉できない。
だから、レイは私の看病をすることも出来ないし、私はレイの涙を拭うことは出来ない。
ただ、言えることは……。
「……レイが幽霊じゃなかったら……きっと私達は……出会っていませんでしたよ」
私の言葉に、レイは顔を上げる。
涙で潤んだ黒い目に、私の顔が映り込む。
彼女に見られていることが恥ずかしくて、私は顔を逸らしつつ、続けた。
「レイが幽霊で、授業中なのに屋上にいたから、私達は出会えた。……私は、あの時、人の目から逃げたくて屋上に行ったんです。普通の生徒じゃ、あの時屋上に入れませんから」
そう言いながら、私はタオルを握り締める。
頭が痛くて、上手く言葉が纏まらない。
感情の赴くままに、私は続けた。
「それに、この風邪のことも、私はレイのせいだなんて思いません。……高校生になって周りの環境が変わったことだとか、新しいクラスのこととか、私を疲れさせる要因はたくさんあります。……あと、今日は少し寝不足で……多分、熱を出した一番の理由は、そのことだと思います」
思いつくままに、感情のままに、私は言葉を紡いでいく。
湿っていたタオルは私の熱で温くなり、本来の意味を失う。
私はタオルを持った手を下ろし、ゆっくりと目を瞑って、続けた。
「だから私は……レイのことを、迷惑だとか、そんな風には思いません。レイと一緒にいられて、私は凄く嬉しいです」
そう言いながら、私は瞼を開き、レイに視線を向けた。
するとそこでは、間近でこちらを見つめるレイがいた。
彼女も私が自分の方を向くとは思っていなかったらしく、「あっ」と声を上げた。
見つめ合う数秒間。
ぬるくなったタオルから、じんわりとした温もりが、私の掌に伝わって来る。
小さな鼓動の高鳴りが、私の頭に直接響き、痛みを助長する。
しかし、不思議と不快ではなく、むしろどこか心地良く感じていた。
頭に響く鼓動の音は少しずつ大きくなり、そして――。
「……ぁ……」
一気に頭が熱くなり、私は額に手を当てて、ベッドに倒れた。
何だ……顔が熱い……呼吸が荒い……。
体を起こしている時間が長かったのか……それとも……。
思考を巡らせるだけで頭痛は強まり、私は瞼を強く瞑る。
しかし、目を閉じていても、レイが大慌てで動揺しているのが分かった。
全く……声が頭に響くから、少しは静かにして欲しいものだ。
頭を押さえながら、そんなことを考える。
そこで、頭の中のどこか冷静な部分が考える。
同じように如月さんと接近した時は、何も感じなかったな、と。




