二年と64日目
二年と64日目
サイドカーを運転するのは難しい。テスト以外では、伊勢には初めての経験である。
なにしろまっすぐ走るのも、かなり困難なのだ。アクセルオンで左に曲がり、ブレーキをかければ右に曲がってしまう。走っている時も、常に舵の修正が必要なのである。
このようにサイドカーとは、まことに完成度の低い乗り物なのである。不便だ。これを愛せる人は、仏のごとき慈悲を持っているのかもしれぬ。
「相棒、変な感じですねぇ…なんというか、よれてしまいます。意外に重いですね」
「これ疲れるなぁ。側車の重さに振り回されるかんじだな」
だがキルマウスにはそんな事は微塵も関係ない。彼は大はしゃぎであった。10歳の子供である。
「イセ!アール!馬よりも速い!しかもずっとこの速度とは!すばらしい!」
70~80キロほどしか出していないので、大した速度ではないのだが、彼にとっては初めてのスピードである。いや、この世界で初めて馬よりも速く移動している人が彼である。興奮もひとしおであろう。
一行は砂漠を西に向かって走っている。すでに午後三時を回っているので、太陽に向かって走っている形だ。砂漠の太陽は伊勢のかけているサングラスを突破して、彼の目に突き刺さってくる。少し眩しい。
日差しは強いが、気温はそれほど高くは無い。バイクで走るには、ちょうど良いくらいだ。もう少し暖かくてもいいだろうと思う。
「ふーふふんーふーんふふー♪」
アールは鼻歌を歌いながら走っている。盛高千里であった。選曲基準はわからないが、似合いと言えば似合いなような気が伊勢にはする。どんどん歌ってよい。少なくとも、バイクに乗りながらの全力歌唱はバイク乗りのジャスティスだと、彼は思い極めている。
楽しければいいのだ。
そういうものだと思う。
バイクだからだ。
面倒くさい、あーだこーだは、いいのだ。
途中、朽ち果てた自操車の残骸があったので、そこで休む事にした。
「キルマウス様、疲れていませんか?」
「バカを言うな。この程度。馬よりよい。疲れるなどあり得ん。しかし速い。ここまで馬でも二日はかかるぞ?実に速い!」
彼は満足そうである。体を伸ばしながら側車のカウルを撫でている。よほど気に入ったらしい。
伊勢は自操車の残骸をトマホークでくだいて、アールの給油口に突っ込んだ。こうすれば合成チートでガソリンを作れるのだ。
キルマウスはその姿をじっと見ているが、特に何も聞いてこないので、伊勢も気にしない事にした。キルマウスという人物と100%向き合うのは不可能である。
また、走りだす。
太陽はもう西日になっているので、次の休憩所で宿泊する事になるだろう。茶色一色だった周囲は、もう真っ赤になりつつある。
地平線まで広がる石と砂の大地に、エンジン音だけが響いている。静かだ。
伊勢も、アールも、キルマウスも、言葉を発することなく、淡々と沈みゆく太陽に向かって、まっすぐに進んでいる。
サイドカーの癖も、少し慣れてくると可愛いものだと、今更ながら伊勢は思った。手のかかる機械は、だからこそ楽しいのかもしれない。
休憩所の塔が見えてきた。
「キルマウス様、今日はあそこで泊りますよ!」
「わかった」
木の門を開け、中に入る。後はいままで繰り返してきたキャンプと同じだ。
アールが食事の準備をして、伊勢が石造りの宿泊施設の中にテントを張って、キルマウスがタバコを吸いながら二人の作業を眺める。
「相棒、今日のご飯は昼飯屋特製のカレーですヨ!キャンプと言えばカレーです」
「おお!」
伊勢は日本からカレーを持ってこなかったので、キャンプでカレーは久しぶりなのだ。
「かれぇとは何だ?いい匂いだ。クマンのようだな。いい料理だ」
カレーはクマンらしい。伊勢は今まで見た事は無い。香辛料は高価なので、高級料理なのだろう。
アールは飯盒の蓋と内蓋に、ごはんをよそって伊勢とキルマウスに差し出した。カレーは各自が勝手に鍋から取って、自由に食べるシステムである。何故かワカメの味噌汁もある。マトゥ屋のカレーような組み合わせだ。
「うん、美味い。バターが効いてるな。これ何の肉?鶏?」
「鶏ですヨ。」
「美味い!料理人に欲しいくらいだ。この茶色い汁も美味い。中に入っている野菜は何だ?見た事が無いな。まあいいか」
キルマウスは自己完結したようなので、ワカメの事は誰も答えなかった。
食事の後片付けをしていると、すぐに夜だ。
何度も見た景色だが、月が明るい砂漠の夜は良い。凍えるように寒く、ほの蒼い光に包まれて、これが本当の異世界のようだ。
伊勢は薄く淹れたコーヒーを飲みながら、塀の外に立ってタバコを吸っていた。
キルマウスはさっさとテントに入って寝ている。
アールが紅茶のマグカップと毛布を持って、伊勢の傍にやってきた。長い髪が月光を映している。
「相棒、寒いから風邪ひきますヨ」
「アール、俺はチートで病気にならないよ」
「あ、そうでした」
二人して苦笑した。日本の記憶があるから、こういう時はつい勘違いする。伊勢は受け取った毛布にくるまった。アールはそのままだ。バイクの彼女は寒さを全く苦にしない。
「星座の形は違うんですよね。ボクは相棒の勉強不足のせいで、地球の星座はオリオン座しか知りませんけど。あと、火星とシリウスはわかります」
「昴と北斗七星もわかるだろう?」
「昴はわかりますね。北斗七星は微妙ですヨ」
ではきっと、伊勢にも北斗七星はわからないのだ。
「そろそろこっちの星座も覚えるか。せっかく星は綺麗なんだからな」
「そうですね。惑星はどうなってるんでしょうねぇ」
「さあなぁ…とりあへず月の模様は似ているな」
二人して月を見上げた。ほぼ満月の白い月に、ウサギが餅をついている。
「相棒は本当に夜の砂漠が好きですね」
「昼間と違って綺麗だろ?」
「そうですね。ボクはもっと緑のある所が好きですけど。蜂蜜村とか」
たしかに蜂蜜村に行くときのアールは楽しそうだった。
「そのうち北の方に走りに行きたいよな。…本当だったら北海道にいる予定だったんだがな」
「ケセラセラですヨ」
「こっちの方がいいさ」
「はい!相棒!」
伊勢はもう一本タバコを吸うと、宿泊所に戻って寝た。
バイクのアールには寝る必要は無い。




