一年と364日目
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一年と364日目
早いものだ。そう、伊勢は思う。
この世界に来てもう二年、伊勢は34になった。
明日にはアールが2歳の誕生日を迎える。
伊勢は来たときと大して変っていないと自覚している。軍曹をやったせいで、ちょっと変になっただけだ。
アールは随分と変わった。
『昼飯屋』という、絵を描く以外の情熱の向け先も出来た。伊勢以外の人の機微に以前より敏くなったし、これからはそれで悩む事も多いかもしれない。それはそれで良い。
伊勢に彼女という相棒がいるように、彼女にも伊勢という相棒がいるのだ。彼女はこれからどれだけ変化しようと大丈夫だと伊勢は思っている。根っこの部分は常にアールだ。まっすぐに正面からぶつかっていく性格だけは、絶対に変わらないだろう。
ロスタムはもう14歳。まだ細いが、ここ一年で随分と背も伸びた。
光陰矢のごとし、少年老い易く学成り難し、というが、彼の学は順調に育ってきていると伊勢は思う。
数学と理科だけは、彼の学力は日本の中学レベルを一部凌駕すると考えている。たった二年にも満たない時間の成果としては、かなりのものだ。ことわざの教訓を生かし、努力を積み重ねて才能をモノにしている。
友人が少ない事が悩みだったが、キルマウスの息子のダールを始め、徐々に彼独自の友人関係を構築しているようだ。最近では外出する事も多い。良い事である。
セシリーは以前よりずっと闊達になったし、執筆と昼飯屋の仕事に余念がない。
彼女のアルバール語もかなり上達したから、日常生活においては意志疎通にもう問題は無いレベルになりつつある。文法は滅茶苦茶だし、字は今一つ苦手のようだが、そんなものは後でゆっくり学んでいけば良い事だ。
レイラーはもう27歳だが、伊勢の耳に浮いた話が入った事は一度も無い。彼女は容姿も美しいのだから、行き遅れとは言え惹かれる男も多いと伊勢は思う。それでも当の本人はひたすら学問一筋だ。
ただ、昔と比べると、自然で気負いが無くなった。これは新しい彼女の魅力だろう。
アミルやキルマウスや親父といった、オジサン連中は変わっていない。彼らはもう完成形なのだ。伊勢も同じかもしれない。たぶん、ビジャンも半ばそうだし、マルヤムのババアは変化のしようがない。あのババアが変化するのは死ぬ時だ。
アミルの長女アフシャーネフと、キルマウスの次男ダールは一年以内に結婚するだろう。北東部の情勢も、今は一段落している。タイミングとしてはちょうど良いのではないだろうか。
そして、親父の娘のラヤーナと、ガラス工房のファルサングは今日、これから結婚する。
ラヤーナは17歳、ファルサングは22歳。似合いの二人ではあるが、婿に入るファルサングは確実に苦労するだろう。なにしろ、あの親父である。だが、ファルサングだって親父の事を知っているのに、一瞬で入り婿を決断したほどの男だ。もしかしたら、伊勢などが心配する事など一切無いのかもしれない。
「相棒、行きますよ」
「ああ。おうアール、すごいな!」
「ふふふふ」
結婚式は街の礼拝堂で、神官に執り行ってもらうのがしきたりだ。自操車で10分ほどの場所である。
アールはラヤーナの介添役になっているので、しきたりに沿った専用の衣装を着ている。ふんだんに布を使った、丈の長い真っ青なドレスだ。美しい布のドレープで魅せるタイプのドレスなのだろう。長い髪はアップにしてまとめられている。
見なれない変わった格好ではあるが、いつもと同じか、それ以上に美しいことには間違いがない。髪に刺したシンプルなガラスの装飾の付いたかんざしが、全体をまとめるピンポイントとして働いている。
伊勢については言及するまでも無い。
二人はロスタムの運転する自操車に乗って家を出た。
「アールさん綺麗ですねぇ」
自操車を運転しながら、小さく振りかえって、背中でロスタムが言う。
「ありがとう、ロスタム君。そのうち、ロスタム君の結婚式にも行きたいですね」
「はは気長に待っててください」
ロスタムは随分と余裕だ。初めてラヤーナに会った時なんて、真っ赤になって喋る事も満足に出来なかったくせに。変われば変わるものだ。
「はい、着きました」
「お、サンキュー。二時間で終わるから、迎えに来てくれ」
「じゃあ、相棒、後で」
「ああ」
二人は自操車を降りた。アールはラヤーナに付き添いに行く。伊勢は他の人と喋りながら式が始まるまで時間を潰す。
ファルサングはなかなか立派な、古式の恰好をしている。借り物の衣装だろうが、様になっている。腹の帯に男のたしなみとしての短剣を差し込んでいるが、あれは親父の作品だろう。伊勢にはもう、造りを見ただけで大体分かる。良い剣だ。
他には親父の親戚らしき男女が数人、ガラス工房のベルディア夫婦、ガラス工房の弟子仲間、それにアミルの名代としてのアーブティンの姿もある。伊勢は一通りにそつなく挨拶をしておいた。ジャポネーゼ・リーマン・スキルである。
親父はどうしているかと言うと、水の入った器をもって、柱の陰から庭をじっと見ている。伊勢は近づいて声をかけた。
「親父、おめでとう」
「おう」
親父はいつも以上にぶっきらぼうで無表情だ。何を考えているのだろうか。
「イセ。…ラヤーナはな…俺はな…」
親父はそれっきり絶句してしまった。親父にも何を言いたいのか分かっていないのだろう。彼も不器用な人間だ。とるべき行動が分からないから、今は庭を見ている。伊勢にも、なんと言葉を発して良いかはわからない。
こんな時、アールなら何というだろうか。伊勢はアールではないから彼女のようには出来ないが、
「親父、ラヤーナちゃんには親父の事は全部わかってるさ」
「……当たり前だ。俺が育てた」
わかっていても、誰かに言ってもらえれば、少しは安心するものだ。
^^^
8畳ほどの控室でアールとラヤーナさんは式が始まるのを待っていた。
ラヤーナさんは白いドレスを着ている。全身を白で覆い、頭にも透けるような薄さの白い布をかけて、布は銀のピンで髪に留められている。
アールは彼女をとてもきれいだと思った。しきたりどおりの衣装だけれど、なぜか、ラヤーナさんらしかった。
「ラヤーナさん、綺麗ですヨ」
「ありがとう。アールさんも綺麗」
二人は、ふふ、と笑い合った。
「今日から一緒に住むなんて、なんか嘘みたい」
ラヤーナさんは自分の手を見ながら、噛みしめるようにゆっくりと顔をほころばせた。
友達が嬉しいと、アールも嬉しい。自然に彼女の目尻も下がってしまう。
「アールさん。あの時、助けてくれたありがとう。本当にありがとう」
ラヤーナさんがアールの手を握って、静かに漏らすように、目をしっかり見つめて言った。アールはコクリと頷いた。
彼女が感謝しているのは、ガラス工房に見学に行った時の一件だ。あの時のアールの言葉で、ファルサングの婿入りが決まったんだ。あの時はあれしか無いように思えた。その後に考えたけれど、やっぱりあれが一番良かったとアールは思っている。今の自分でも、あの時と同じ事をするだろう、と。
「お父さんが……よかった」
ラヤーナさんの言葉は途中で消えてしまった。そこに入る言葉はたくさんありすぎて、選べないんだ。ただ、よかったから、いいんだ。
やっぱり言葉は難しい。絵で描いた方が簡単だ。
アールは静かに笑いかけた。
「ところでアールさんは…いえ」
彼女がいいたい事はアールにも良くわかった。
「相棒とボクは、これで完全なんですヨ。ボクは伊勢修一郎の相棒で、伊勢修一郎はボクの相棒です。これで全部なんです」
そう、これ以上でも以下でもないんだ。これで全部。これで完全なんだ。
「そう、ですか」
レイラーさんにはこれで伝わったけど、ラヤーナさんには伝わらなかったみたいだ。まあ仕方ない。
「ラヤーナさん」
「はい」
結婚なんて良いだけのものじゃない事は、相棒の記憶からアールもよく知っている。
辛い事で相棒の思い出は押しつぶされてしまったけど、でも、良い事も確かにたくさんあった。
アールは知っているんだ。
だから、
「ラヤーナさん。これからたくさんいい事を作ってくださいね」
「はい!」
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式自体は大した事が無かった。
神官が古語で祝詞をあげただけである。祝詞の内容も神への感謝や世界のあり方について述べている内容で、二人に対しての祝福は一言だけであった。
『互いに慈しみ合いなさい。互いに愛し合いなさい。そして沢山の子をなしなさい』
おそらくこの世界で最も古語に堪能な伊勢からすれば、どうも拍子抜けするないようであった。だが、それはそれ、これはこれである。葬式の際の般若心経も大して変わらないから、そんなものと思う事にした。みんな幸せそうなのだから、なんだって良いのだ。
式が終われば二次会である。会場は『昼飯屋』。つまり伊勢たちの家の庭だ。
伊勢は迎えに来ていたロスタムの自操車に、一人で乗り込んだ。アールはラヤーナに付いている。
「師匠、お疲れ様です。家には、もう何十人も来てます。料理の方はしっかり準備できてますよ。丁度よく、ビジャンさんとファリドさんが獲ってきた棘猪がありましたからね。あと、斑鹿もあります」
「楽しみだなぁ」
彼らが獲ってきてくれた棘猪のメスはアールとセシリーによってバーベキューにされているのだ。アメリカンスタイルのじっくり半日以上の時間をかけて、低温のグリルと、煙で料理するやり方である。
日本から持ってきたアルミホイルがあるのでテキサスチートも可能。オリーブオイルを注射した後、ラブをすりこんで、更にマリネ液に漬けこんであるので、肉も柔らかくなっているはずである。バーベキューピットボーイズ並みに手が込んでいるのだ!
同様に斑鹿の肉も料理している。こいつは癖のない肉で、地球の鹿より美味いと思う。薄切りのしゃぶしゃぶにして、ニンニクポン酢でタマネギと一緒に食べるのだ。これも間違いのない料理である。鉄板料理ではないが鉄板だ。
「ラヤーナさんは綺麗でしたか?」
「ん?ああ、そうだな。綺麗だった」
正直言って、伊勢にはあまり印象が無い。確かに綺麗だったが、普通であり、自然すぎたように思えたからだ。そういう印象だけが、彼の中に残っている。
「師匠は……結婚はしないんですか?アールさんと」
随分踏み込んで聞いてくるものである。ロスタムにはもう、伊勢に対しての遠慮は殆んど無い。
「うん。しないだろうな」
「えっ?どうしてですか?!」
「俺達は今で良いんだ。そうはみえないか?」
「そう言われれば…そうかもしれませんが」
「ならいいじゃないか。別にどっちだっていいけどな。同じだ」
ロスタムにはわからないだろう。伊勢とアールの二人にしか本当のところはわからないのだ。いや、彼らを含めて誰にもわからないのかもしれない。だが、それで良いのだ。神官のあげた祝詞のようなものだ。
みんな幸せそうなのだから、なんだって良いのだ。
もしかしたら、そんな風に思える伊勢も、ほんの少しだけ変わってきているのかもしれない。
万物は流転し其は流るる水の如し。
人の心だって諸行無常なのである。
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