一年と332日目 幕間
一年と332日目 幕間
「ロスタム君、はい、どうぞ。今日は鳥そぼろですヨ」
アールさんがバスケットをロスタムに手渡す。
「ありがとうございます!行ってきます!」
「ロスタム!待ちな!」
急いで家を出ていこうとする彼に、マルヤム婆さんが小さな布の袋を投げてよこした。
「レモン味だよ!クシシ」
これは、飴だ。すばらしい…。
笑う婆さんに、ロスタムは手をあげて、感謝の合図をすると、師匠の家を飛び出した。街の中を駆け抜けていく。
バスケットには『昼飯屋』特製の鶏そぼろホットドッグが5本入っている。これだけは落とさないように、気をつけて持つ。
ロスタムは足が早い。短距離は大したことは無いが、持久走なら誰にも負ける気がしない。日ごろの鍛錬に加えて、筋肉に遅筋の割合が高いためなのだろう。代わりに筋肉は鍛えても大きくならない。
武術の天稟も、まるで無い。ダールはもとより、その仲間の友人と試合してもほとんど勝てない。師匠とビジャンさん、ファリドさんとの朝練に毎日付き合っているのにこれだ。まあやらないよりは良いと、ロスタム自身は達観している。
彼が出来るのは、学問の他には走る事だけ。だが、長く走れるのは素晴らしいことだ。それが出来たからこそ、ロスタムは今ここにいるのだから。
主壁内の立派な町並みを駆け抜け、高級住宅街へ。商業区との境目だ。ロスタムは息を整えて、何事も無いように歩く。目立ちたくは無い。『軍曹殿』のいうところの擬装って奴だ。師匠のお付きで裕福な市民とも会っているから、彼らの家の者の所作をまねるのは簡単だ。
街区を何周か回り、前の道を何往復かしているうちに、目的の小さな人影が後ろを窺うように、そっと塀と塀の隙間から出てきた。ロスタムは早足に、だけど何事も無いように近づいた。
「フィラー」
「ロスタムさん」
どちらからでもなく、二人とも笑顔になってしまう。
「はい、これ」
「いつもありがとうございます」
ロスタムは彼女が持ってきた布袋に、バスケットの中のものを移した。ホットドッグは多少形が崩れてしまうけど、仕方が無い。時間が無いのだから。
「これは飴だよ。俺の師匠がつき合っている商人が、ナードラの砂糖を沢山分けてくれたんだ。」
「飴?…っ!飴!!」
「隠れて食べな。レモン味だってさ」
彼女は胸に飴の袋を抱いて、信じられないくらい嬉しそうに笑っている。婆さんに感謝!
「さ、行きな」
「あ」
小さな声をあげる彼女を無視して、ロスタムはゆっくりと立ち去った。見つかったら元も子もない。もう来れなくなってしまうし、彼女が折檻されてしまう。
振り返らないでそのまま歩き、角を曲がったところで走りだした。また早く、家に帰らないといけないのだ。
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「ロスタム、行くぞ?」
「はい、師匠」
師匠の乗る自操車を運転して、モラディヤーン家に向かう。ベフナーム先生とレイラー先生のお宅だ。ロスタムにとっても恩師である。
ロスタムの数学の半分はレイラー先生に、神学や論理学はベフナーム先生に教わったものだ。彼らがいなければ、今のロスタムの学力は無い。師匠とアールさんの学問は異国のものだから、アルバールの学問とは体系が違うのだ。ロスタムはその両方を学ばなければいけない。
「今日は黒板を使うからな…」
運転席から後ろを振り返ると、師匠が黒板を撫でながらニヤついていた。新しい物を作った時の師匠は、大体こんな感じだ。浮ついている。
「ロスタム、今日は電気について話すからな。お前には復習になる事も多いだろうが、まあ聞いておけ」
「はい、師匠」
電気というものにロスタムは魅せられている。師匠に初めて磁石を見せられた時は、本当に驚愕したものだ。磁力という、目に見えない力があるのだ。しかもそれは、人が使う魔法では無い!物質の持つ力なのである!
磁石の持つ磁場の中を導体が動くと、電流が発生する。逆にコイルに電流を流すと磁場が発生する。電気の力でモノを加熱する事も出来るし、動かす事も、光を得ることも出来る。師匠の持っている、いくつかの『魔法具』というのも、実はこの電気で動いているのだ。師匠が図面を描く時に使っているパソコンだって電気と数学で動いているのである。まったく魔法などでは無い。
ロスタムは以前行った発電と電気分解の実験を思い出した。ロスタムが手で回した発電機が、電流を生み、それによって水を水素と酸素に分解し、最後に得られた気体が爆発した。運動エネルギーが電気エネルギーになり、それがさらに化学エネルギーに変換され、最後に火種という活性化エネルギーを与えられた水素と酸素が化合してより安定な水になり、その過程で熱エネルギーを発生し、瞬時に発生した高温により光が発生しているのだ。
世界は循環している。
師匠が言うにはエネルギーは保存される。つまり、違う形になるだけなのだ。エネルギーは形を変えて存在し続けていく。エネルギーは質量と光速の二乗の積であらわす事も出来るという。物質でさえ、本質的にエネルギーと等価であるなら、それはまるで―――
――ロスタム!!
危なかった…また、自操車が露店に突っ込みそうになっていた。
「すいません師匠…考え事をしていました」
「あぶねぇよ…この間、瓜を売ってる露店に突っ込んだばかりだろうが…あれからどんだけ瓜食わされたと思ってんだ」
11食分だ。だけどロスタムは黙っている事にした。沈黙は金、である。これも彼の師匠の受け売りだが。
沈黙は金、と言えばアールさんだ。
彼女は普段はあまりしゃべらないけれど、時々発する言葉は非常に物事の本質をついているような気がする。
師匠が、「アールは俺と同じくらいの知識があって、考え方と感じ方が違うだけ」と以前言っていたが、その通りだ。あの人は直線的に物事を射抜くように観察しているとロスタムは思う。
彼女が描いている、あの絵もすばらしい。師匠には何故か秘密にしているが、このアルバールにない画法で、穏やかな筆致で描かれた絵は、本質と印象をとらえている。完全に風景を描写するほどの技術を持ちながら、あえてそれに拘泥せず、風景から自分が得た印象を、そのまま紙に載せるという技法なのだろう。ともすればそれが彼女の心の風景であり、言いかえればそこには―――
――ガンッ
「てめえ!またやりやがったな!あー…またか…」
自操車の周りに大量の野菜が転がっていた。
「すいません…師匠…」
「ああ…」
そんな事があり、しばらくの間、玉ねぎには困らなくなった。




