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異世界ツーリング  作者: おにぎり
第七章~師弟
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一年と272日目

一年と272日目


「どうしてこうなった?」

 謎である。

「相棒、獣人さんのお店に香辛料の仕入れに行ってきますヨ」

「…ああ。気をつけてな」


 謎だ。


 以前、伊勢が鍛冶屋の親父に渡した棘猪の自家製ベーコンが、全ての元凶であった。「てめえの塩肉、旨かったぜ!」とか、柄にもなく嬉しそうに言う親父が悪いのだ。いや…親父の言葉に調子に乗って、工房全員分の昼飯を差し入れた伊勢がいけなかった。そもそもこの国には昼飯を食う文化など無かったのに。

 さらに、調子に乗ったマルヤムとセシリーが、伊勢とアール留守中に、親父の弟子たちにスパイシーなホットドッグモドキを差し入れたのもいけなかった。あっという間に職人街全体に広がってしまったのだ。「あそこの差し入れは美味い」、と。


 「旦那、これ売れるんじゃないかいキシシ」なんてほくそ笑むマルヤムに、好きにしろ、つい軽く言ってしまったのも良くなかった。商魂たくましい彼女はさっそく厨房で量産を始め、その結果、あれよあれよという間にホットドッグ屋の開店である。今ではセシリーの考案したピザも売っている。

 12時の鐘がなると、近所のいろんな工房から、弟子が人数分を買いつけに来るのだ。安くて美味い、知る人ぞ知る評判のお店なのである。工業団地の外れという立地も、ある意味で最高にして最悪だった。固定客によく売れるのである。よく売れるが、売値が安いので儲かっているわけではない。利益は一日に20ディル程度である。


 アールが獣人の友達から仕入れた香辛料も評判の理由だ。香辛料は高いのだが、アールは友人価格か何かで、廉価で買いつけてくる。この家にも、しばしば獣人が入れ替わり立ち替わり遊びに来るが、伊勢には誰が誰だかわからない。アライグマの顔を見分けられる人は、ムツサブロウさんとアールくらいのものであろう。


 今では、ご近所から呼ばれる伊勢の通称は「昼飯屋の旦那」になってしまった。鍛冶屋の親父だの、昼飯屋の旦那だの、なぜこの世界の人たちのネーミングセンスは即物的なのだろう。伊勢には皆目、見当がつかぬ。

 ちなみにロスタムは「昼飯屋の弟子」、マルヤムは「昼飯屋のババア」、セシリーは「昼飯屋のお嬢」、ビジャンが「昼飯屋の用心棒」、アールだけが何故か「昼飯屋のアールさん」、だ。不思議だ。

 世の中に不思議な事など何も無い、と言っている黒ずくめの人もいるらしいが、その予想は背理法によって今この瞬間に偽であると証明された。


 さて、そのアールが一番楽しそうに昼飯屋をやっている。彼女はバーベキューコンロの横にピザ用の石窯を作り、家の前の塀に『昼飯屋』と日本語で大書した木看板まで掲げてしまった。流麗な書体は無意味にかっこいい。ただ、読める人はこの国におそらく二人だけである。

 庭には小さな菜園もある。ここでアールが香草の類や野菜を育てて、料理に使っている。この前など、土から芽が出てくる瞬間を一生懸命に観察していた。チートバイクならではの忍耐力である。

 そんなわけで、アールが毎日のメニューを考え、仕入れをし、調理もする。マルヤムとセシリーがそれを手伝う。伊勢とロスタムとビジャンが横からつまみ食う。大体こんな役割分担である。実に効率的なフォーメーションなのであった。


「フフーンフーン♪」

 鼻歌を歌いながら、買い物袋を抱えたアールが家を出ていった。朝だと言うのに、すでにカンカンに砂漠の太陽は照りつけているが、そんなものでは楽しげな彼女に水を差す事は出来ぬ。バイクだからだ。


「…まあ、楽しいなら、何だって良いか」

 会社を首になり、妻に捨てられ、異世界に来て、戦闘士になり、軍曹になり、あれやこれやのモノを作り、武術大会に出て、皇帝に直訴して、またモングと戦い、今は昼飯屋の旦那の伊勢である。

 自分でもわけが分からないが、最近ではライクアローリングストーン式の急転直下人生にも、かなり慣れてきた気がするのも、また事実なのであった。人間の適応力というものは無限なのだ。ケセラセラ、である。


 それにしても鼻歌を歌っているアールを見たのは初めてだな…。ふと伊勢は思った。

 彼女も、少しづつ変わってきているらしい。




 さて、まだかなり早いが俺も行くか…、と伊勢は自分の部屋の椅子から腰を上げた。近ごろ、レイラーの父、ベフナーム先生の弟子に講義をしているのだ。平たく言うと中学くらいの理科の授業である。


「ロスタム…いねぇな。…ビジャン、何書いてんだ?」

 伊勢が弟子もどきのロスタムを探して居間を覗くと、ビジャンが机に向かって何か書きつけていた。珍しい光景である。

「……手直し…」

「え?」

 ビジャンの一言トークにも最近ではかなり慣れた伊勢ではあったが、さすがにこれはレベルが高すぎた。全くわけが分からない。

「つまり?」

「……『タイラス・アポロニウス』の手直し…」

「お前が?」

「……そう…」

 ふむ。要するにこういう事だ。シェイクスピア原作を元に、セシリーが劇を書き、アールがアルバール語に翻訳して、それをビジャンが手直しすると。…よりにもよって、あの無口なビジャンにそんな事が出来るのだろうか。

「ちょっと見せてみろ」

 ビジャンの野太い戦闘士丸出しの指から紙束を受けとって目を通してみた。


―見るが良い!其は人間世界の暴虐の精華!天上世界から滴り堕ちた腐汁の結晶!暗黒世界から飛び上がった鈍色の鷹!至高なる神の慈悲も届かぬ、やみわだの子!

―おう、聞くがいい。お前らの骨を挽いて粉にし、お前らの血脂でこねて練り物をこしらえ、それからドタマをかち割って饅頭をこしらえて、あの穢れた淫婦に喰わせてやる!そうだ!お前らのお袋にだ!ははっ!

―俺が人生で一度でも善をなしたとすれば、魂の底から悔んでいるだろうよ。

―善が善なるから報われるとも限らぬ。悪が悪なるから報いを受けるとも限らぬ。なればこそ欲に身をまかせて生きておるのだ。


 おう…黒すぎる…

「確かに…良い感じになっているな…。アールの訳文よりずっとリズムが良い」

「……手直しは…おもしろい…」

「そうか、頑張ってくれ」

 伊勢はビジャンに紙を返すと、足早に立ち去った。少しびびったのである。伊勢は元来、小心者なのだ。




―コンコン

「おい、ロスタム」

 伊勢がロスタムの部屋をノックすると、中でバタバタと暴れるような音がした。

「入るぞ」

「待ってくだ…!」

 …あー、ふむ、そういうことか。そういう歳ごろだから仕方ないだろう。ロスタムも14歳なのだ。男の14歳となれば、そういうアレがアレになるものだ。止めようと思っても出来るものではないのだ。伊勢にもしっかりと覚えがある。とことんある。

 すぐにロスタムは真っ赤になりながら出てきた。

「行くぞ」

「はい師匠」

 ロスタムはバタバタと走って、自操車を準備しに行った。伊勢には何も言うつもりはない。遠い昔、伊勢の母親も何も言わなかったからだ。


 自操車の幌を透かして日の光が差し込んでくる。暑い。カラッと乾燥しているので、日本の夏よりはすごしやすい部分もあるのだが、暑いものは暑いのだ。

 朝のうちならまだ良いが、昼になると外で動くのは危険なほどだ。3時過ぎくらいまでは道を歩く人も殆どいなくなる。金持ちの人たちは、奴隷に扇がせながら昼寝である。伊勢もそれなりに金持ちのはずなんだが、全自動奴隷式扇風機に扇がれながら寝る、などといった高度なプレイは精神衛生上の理由から出来ない。ヘタレだからである。

「ロスタム、お前はダール殿に俺の学問を教えているのか?キルマウス様から聞いたけど。」

「はい。いけなかったでしょうか…」

 本当はいけない。師匠の許可を得ず、学んだ学問を勝手に教えると破門になる。伊勢のもとでしか学んでいないロスタムには、そのあたりが分かっていない。

「いや、まあ良いよ。だが、普通なら破門だろ?俺はそんなつもりはないけどな。だが、そもそもお前はまだ人に教えられる段階じゃねえからな。中途半端に教えるくらいなら、触りだけにしとけ」

「破門?!す、すいません…そんな事になるなんて…わかりました」

「ああ」

 ロスタムはもう少し伊勢たち以外の人と過ごした方が良いだろう。彼はいま一つ世の中の常識に疎い所がある。村から出て来て、これまた常識を知らない伊勢の弟子になったんだから仕方がない。だが、今後はそれでは困るのだ。

 まあ、レイラーとベフナーム先生に相談してみよう、と伊勢は考えた。話しているうちに何か良いプランを思いつくだろう。


 そんな事をぼんやりと考え事をしながら幌の隙間から後ろを見ていると、道を歩いていた女の子がフラフラとして倒れるのが見えた。

「おいロスタム。止めろ。…止めろ!」

「え?はい」

 また上の空で運転していたのだろう。ロスタムは戸惑いながら自操車を止めた。それをしり目に、伊勢は飛び降りて、女の子まで小走りで駆け寄った。彼女の服装からして、どこかの奴隷か、身分の低い小間使いのようだ。

「おい!どうした?」

「らんれすか?わらふぃふぁかいおろにいくんれしゅお?おしゅかいれしゅ…」

 ろれつが回って無い。目線もふらふらしている。首筋を触ってみると、すごく熱いのに殆ど汗をかいていなかった。

 伊勢は医学なんて知らないが、これは誰だってわかる。熱中症だ。


「ロスタム!手を貸せ!」

「はい、師匠!」

 幸い、目的地のモラディヤーン家までは目と鼻の先だ。部屋を借りて治療すればいい。

 ロスタムに脚を持たせ、伊勢は上半身を抱えて自操車に運び込んだ。女の子の体を触って良いかなんて考えている暇は無い。

 伊勢は手持ちの水を彼女の頭からぶっかけた。少量を口から飲ませる。ギリギリ、水を飲む力は残っているようだ。

「車出せ!」

「はいっ!」


 自操車は5分ほどでモラディヤーン家についた。

「レイラー!先生!手を貸してくれっ!」

 玄関先で伊勢が怒鳴ると、すぐにレイラーと執事のキルスが出て来てくれた。

「どうしたんだねイセ君そんなに慌てて…その子はどうしたねっ?!」

「部屋貸してくれ。いや、庭の日陰で良い。キルスさん、冷たい水をたくさんくれ!」

「いいとも!私が運ぼう!」

 レイラーは自操車から魔法で女の子を下ろし、浮かせたまま庭先の日陰に連れていった。さすがに魔法師だけあって器用かつパワフルに力を使う。


 女の子を石の床に下ろすと、キルスがバケツ一杯の水を持ってきた。下着姿にして、水をぶっかけた。痩せた小さな体だ。

「わらしはおしゅかいいいくんれしゅ…」

 相変わらずろれつが回って無い。扇であおぐ。

「イセ君、冷やしたいなら地下水道に漬けてしまおうか?私の家は水道にもぐる階段があるがね?」

「おお、それいいな!流水で冷やした方が良く冷えるだろう。頼む」

 水道は綺麗に使わなくてはいけないから、本当は体を漬けるなど言語道断なのだが、今はそんな事を言っている場合ではない。

 レイラーが彼女を魔法で抱えて水道に運んで行った。手伝いにロスタムをついていかせる。


「キルスさん。砂糖はある?」

「申し訳ないですが…」

「あー、じゃあ…蜂蜜ください」

 蜂蜜は裕福な家なら大概は置いてある。

 伊勢はボウルに水を入れ、スプーンに二杯くらいの蜂蜜と、一杯くらいの塩を入れて溶かした。なんちゃって経口補水液だ。スクロースの代わりに蜂蜜が良いのかどうかは知らないが、あっても大丈夫だろう…多分。

 伊勢はボウルから、大きめのコップに補水液を取り分け、それを持ってキルスの案内で地下水道に向かった。


「レイラー」

 伊勢は外から声をかけた。水道へ続くトンネルの中は狭いので、彼女とレイラーとロスタム、3人も入るといっぱいなのだ。体の大きな伊勢は、一人でも入るのがギリギリだろう。

「どうだ?」

「ああ、さっきより良いよ。すこし喋れるようになってきた」

「よし。首筋とか、わきの下とか、脚の付け根。そういう太い血管が走っている場所を良く水にさらせ」

「ああ、わかってるさ」

 さすがレイラー。たぶん彼女は自分で考えて、そういう結論に至ったのだろう。伊勢の伝えた血管と血流の知識が活きている。


「意識がはっきりしたら俺が持ってきたジュースを飲ませてくれ。塩と蜂蜜が入れてある」

「ほう?!塩はわかるが蜂蜜かね。後で理由を聞かせてくれたまえ。」

 さすがレイラー。こんなときでも知識欲は無限である。

「あ、レイラーさん。結構よくなってきたみたいです」

「ふむ、もう少し漬けておきたまえ、ロスタム君。もっと冷やした方が良い」

 レイラーに任せておけば大丈夫そうだ。

 伊勢は経口補水液をレイラーに手渡し、入口で待つ事にした。今は特にやることも無い。


 しばらくの後に、3人が入口から出てきた。彼女は表情も暗く、ロスタムに肩を支えられているが、それでも自力で歩けている。これなら大丈夫そうだ。

「すいません…ご迷惑をかけて…」

「いいから、吐き気が無いのならこのジュースを飲むんだね。キルス、布を」

 蚊の鳴くような声で謝る彼女に、レイラーが優しく声をかける。男の目の前で下着姿を曝させておくのも可哀想なので、ざっくりとした大きな布で体を包んだ。

「じゃあ部屋に行こうかね。キルス、タライに水を入れて持ってきてくれたまえ」

「はい、お嬢様」

 レイラーが彼女を部屋に連れていく。

 普通ならレイラーのような名家のお嬢様がやるような事ではないのだが、この家にはキルス以外の使用人は通いの婆さんしかいないので、仕方が無いのだ。裕福なくせに使用人を使いたがらない。


 ベフナーム先生は所用で知識の館(図書館)に出かけているとの事なので、伊勢とロスタムは厨房で勝手に薄いお茶を作り、居間でくつろいだ。モラディヤーン家には、しばらくのあいだ住んでいた事もあったので、遠慮などみじんもない。レイラーも伊勢の家で遠慮なくくつろいでいるのだから、これで良いのだ。

「師匠、あの子は暑さにやられたんですね?」

「そうだ。熱中症と言ってな、あまりに体が熱くなると、体温を調節する機能が体から失われるらしい。当然、脱水症状もおこすんだ。今はもう大丈夫だと思うけど、結構危ないんだよ。後でちょっと腎臓とかも悪くなるかもなあ…どうしようもないけど」

 点滴など出来ないから、薄い塩水を飲ませて冷やすくらいしか手の打ちようは無い。腎臓が悪くなったところで、伊勢は対処法も知らぬ。

「そうですか。ときどき、暑さにやられる人は見ますけど、介抱したのは初めてです」

 ロスタムにとっては良い経験になったかもしれない。

「まあ対処法は覚えとけよ」

「はい、師匠」

 そんな風にして、師弟はモラディヤーン家の居間のソファーに体を預けた。


^^^

 それからしばらくして、ベフナーム先生が8人ほどの弟子と共に、コロコロした小さな体を弾ませるようにして帰って来た。彼の弟子は図書館の宿舎に住んでいる。堂々とした職権乱用、公私混同である。

「おお、イセ君!キルスから聞いたよ。好きなだけ休ませてあげたまえ」

 先生は大体いつもこんな感じだ。基本的に人に優しいし、学問以外には変なこだわりは一切無いのだ。知らない奴隷が家で介抱されていても、気にはしない。先生はすでに、ある種の境地にまで達しておられる。

 はい、それはそれ、という感じでベフナーム先生はさっさと弟子を指図して、授業の準備を始めた。粘土板を綺麗にして台に斜めに立てかける。ここに字を書くのである。つまり黒板の原型なのだ。

 伊勢としては、そのうち黒板も作ろうと思っている。ニスみたいなものはあるので、そこに砥石を粉にしたものをフィラーとして入れ、堅い板に塗れば出来る気がする。おそらくかなり実験が必要だろうが、要は書いて読めれば良いのである。チョークの方も、なんとかでっち上げられるだろう。


 そんなこんなをしているうちに、レイラーもやってきた。彼女の看病はキルスに任せてきたらしい。

「さあ、イセ君!今日はどんな授業かね!?」

「今日も楽しみでならないね!」

 全く同じ口調のベフナーム&レイラー親子の知識欲には常に火が付いている。彼らの欲望に限界は無い。

「えーと、じゃあよい機会なので、今日われわれが助けた彼女の症状について…」

「「おお!」」

 親子の息はぴったりだ。彼ら親子の顔と体形が似ていなくて、本当に良かったと伊勢は思う。神の慈悲はそこにあるのかもしれぬ。


「え、えーと…人の体温調節をかく事と、背中の細胞…あー褐色脂肪細胞だったかな?が発熱する事で調節されています。細胞については、この前説明しましたね?で、この調節機能が何らかの形で破たんしたのが熱中症です。汗をかき過ぎると体内の水が無くなって…………

 体温調節をはじめとして、不随意的な体の機能は、脳の下の脳幹という部分が担っていて、勝手に調整してくれます。これを自律神経と言い、体温調節以外にも、心臓の鼓動、消化器官の蠕動運動などをつかさどっています。脳の一番根幹な部分なので、ここを破壊されると即死です。問題は、脳が熱に弱く………」


「なので、一番大事な対処法としては、我々がしたように体を冷やす事。特に脳を冷やす事です。脳を冷やすには脳に血液を送っている首の動脈を冷やすのが効果的で、その他、体の太い血管が走っている部分を冷やすと良いです。で、次に水を与えるわけですが、この時の水はただの水では無く塩水にしてください。水2ポルに対して、塩1オンくらいの割合で。できれば体への水の吸収を助けるために砂糖をそこに10オンくらい入れると良いと思います。今日は蜂蜜を使いました。本当は…蜂蜜で良いのかどうか自信は無いです。俺は医者じゃ無いので。この後は腎臓か肝臓に問題が出るかもしれませんが、これの対処法はわかりません」


 皆、真剣に聞いてノートをとっている。ちなみに、一番真剣なのがモラディヤーン親子であるのは論を待たない。もちろん使っているのは伊勢の開発したガラスペンである。こういう風にみんなに使ってもらえるのが、開発者としては一番嬉しい。


「なるほど!吸収を助けるための糖分とは!糖分は栄養の為だけではないのだね!」

「すばらしい!脳がそこまでの機能を持っていたとは!人体は神の創りたもうた神秘だね!」


 このように今日も伊勢の授業は、彼らにこの上無い幸福をもたらしたようである。神に幸あれ。



^^^


 伊勢が授業を終わり、質問をしていた弟子たちが帰るとフィラーがキルスに連れられて居間にやってきた。

 熱射病でたおれた彼女はフィラーと名乗った。商人の奴隷だそうである。年齢は本人も知らないらしいが、12歳くらいに見える。


「あの…本当にお世話になりました。ご迷惑をおかけして…」

 将来はなかなか可愛くなりそうな顔立ちの女の子だが、小さな声でおどおどと喋っている。

「いいじゃないかね、そんな事は。迷惑だなんて思っていないよ君!」

「少し休んでいけば良いんじゃないかね?!迷惑だなんて気にしなくて良いのだよ!」

 レイラーとベフナーム先生のモラディヤーン親子は、彼女がこのまま二三日家にいたとしても全く気にしないだろう。彼らにとって、そんな事はどうでもいいのだ。他に気にするべき数学の命題が腐るほどあるからだ。


「あの…私は買い物のお使いに行く途中だったので、これで失礼したいと…お遣いをしなくちゃいけませんし、これ以上ご迷惑をおかけするのも…私はお礼も出来ませんし…」

 フィラーはとてもおどおどとしている。見ている伊勢の方が切なくなるくらいだ。

「フィラー君。まだ暑いから今帰ったとしても、また倒れてしまうよ?主人の所には使いをやって知らせるから寝ていたまえ。君の主人の名前は何と言うのかね?」

「ザンド・ナイヤーン様です…」

 伊勢にはおそらく聞き覚えのない名前だと思う。ベフナーム先生やレイラーにも覚えがない。まあ、彼らは商人の名前などには興味が無いのだが。

「私が存じていますので、行ってまいります」

「でも…お遣いが…!」

 さすが執事のキルス。できる男は一味違うのである。彼は明日の昼までフィラーを預かるという伝言を持って、家を後にした。

 フィラーはあれよあれよという間に決まってしまった自分の処遇にあたふたしている。もう今更遅い。無理の出来ない体に鞭打っても、潰れるだけなのだ。無駄な無理は無意味どころかマイナスなのである。



^^^

 一通りの用事を済ませた伊勢とロスタムは、軽くパンをつまんだ後、モラディヤーン家を出た。

 今は3時くらいだ。叩きつけてくる日光がべらぼうに暑い。まるでレーザーのようだ。

「あー、日傘作れば売れるかも…」

 雨のほとんど降らないこの国では傘は無い。ゆえに日傘という概念もほとんどない。奴隷や付き人が主人の頭上に掲げる、扇みたいなものがあるだけである。これはビジネスチャンス…

 伊勢がちょっとした空想にワクワクしていると、ロスタムがぽつりと話しかけてきた。

「師匠…奴隷って、あんな風になっても働かないといけないんですかね?」

 ロスタムは考え込んでいるようだ。今まで、ロスタムの周囲にいたタイプの奴隷とは違う、追い詰められた彼女の感情を受け取ったのだろう。

「うーん」

「さっきあの子を引き止めなかったら、絶対にまた倒れてましたよ。この日差しで帽子も無いんですから」


 伊勢には何とも言えない。伊勢自身、この国の奴隷のあり方に対しては、何もするつもりはないからだ。システムとして受け入れているのである。問題があるのはわかっているが、人が考え、運営する以上、無謬のシステムなど存在しないのである。

 「これじゃダメだ!」というのは簡単だが、現行のシステムが相応の歴史によってプルーフされている以上、ケチを付けてひっくり返してもいい事は無い、と彼は思っている。


「奴隷は…結局のところ主人に依るんじゃないかなぁ。アミルさんの店にも奴隷は沢山居るけど、上下の序列をしっかりつけてるだけだろ?さっきの彼女みたいじゃない。あれがこの国の模範的な奴隷の扱いだな。それにキルスさんだって奴隷だ。

 親父の鍛冶屋にもいるけど…あー、親父は特殊だな。弟子も奴隷も区別が無い。ウチのセシリーは参考にはならんし…

 …すまんがやはり何とも言えんな。俺にはどうするつもりもないからな」

「そうですか」

 ロスタムはそのまま少し考え込んだ。


「師匠、俺はもっと世の中を見なくちゃダメですね。これじゃ師匠やレイラーさんから貰った学問を活かしきれません。…来るときに聞いた、勝手に教えたら破門て話も同じです」

 俺はモノを知りませんね…、そう、呟くように言って、ロスタムは黙り込んだ。

「なあロスタム…」

 伊勢は自操車の後ろから、彼の背中に言葉を投げる。

「俺の国には…あー、なんていったかな…真の無知は自分の無知なる事を知らない事、みたいな言葉がある。なんとか仏教…宗教の教えだけどな。

 だからお前は、もう真の無知じゃねぇんじゃねぇの?…まあ勉強しようや」

 伊勢は上手く言えなかった。だがロスタムは「はい」と言って頷いた。

 そもそも、伊勢自身が人に人生を教えられるほどの人間ではないのだ。いや、そんな高尚な人間はどこにもいないか…みんな勝手に勉強して、この辺でいいや、俺は立派になった、って妥協するんだ。そして、妥協した瞬間に真の無知に逆戻りだ。


 伊勢は、あのフィラーって娘の事や、ロスタムの事や、新しい発明の事や、昼飯屋の事を考えながら、白く日光に照らされた街並みを眺めた。

 幌のかかった自操車から覗き見る、強烈に明るいファハーン。これはこれで、綺麗なものなのだ。全部が白に消え…


――ガンッ


「おいロスタムてめぇっ!またクルマぶつけやがったな!」

「すいません師匠!!」


 このガキには人生の前に自操車の扱いを教えねば、と心に誓う伊勢であった。




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