一年と105~116日目
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1年と105日
「よし、ロスタム。回せ」
「はい!」
―シュワ…
「おおおおおお!イセ君!イセ君!泡が!」
「イセ君!なんだね!なんだねこれは!」
レイラーとベフナーム先生である。後ろで静かに見ている親父の弟子と比べると非常にうるさい。
「これは俺達の国の言葉で言うと酸素と水素だ。オキシジェンとハイドロジェンとも言うな」
「ふむ。サンソ、スイソ」
「水分子が酸素原子と水素原子で構成されているという話はしたよな?酸素を中心に水素が左右に…確か112°位の角度で二つくっ付いてるのが水分子だ。コイツに電圧をかけるとそれぞれ酸化還元されて酸素と水素に戻る。これを電気分解と呼ぶ」
「すごいね…」
伊勢は発生した気体を試験管に集めて、燃えた炭で火を付けた。
―キュンッ
「うおおおおお!イセ君!燃えた!爆発したよ!」
「凄い!青く光って爆発した!イセ君!凄い!」
実にうるさい。真剣に黙って観ているロスタムを見習ってほしい。ああ、ロスタムは目を見開いて放心状態だ…
「ロスタム、落ちつけ。不思議だが、不思議なことなど何もないんだ。科学だからな、何にでも理由がある」
「はい、師匠…もう大丈夫です、驚きました」
どうやら戻ってきたようだ…ロスタムは考え込むと周りが見えなくなる。だから自操車で壁に突っ込むのである。
「ロスタムが発電機を回した運動のエネルギーが、発電機によって電気エネルギーに変換され、さらに電気エネルギーが電気分解という形で化学エネルギーに変換されたわけだ。今のは俺が酸素と水素の混合気体に火を近づけたので、両者は急激に燃焼したんだ。酸素分子、水素分子、それぞれであるよりも、水分子になった方が安定だからだ。この世の反応というものは必ず安定になる方向に進む。自由エネルギーが小さくなる方向と言っても良い。後で説明するから名前だけ覚えておいてくれ」
「イセ君、その考え方はスッと入ってくるね」
「どうしてだいレイラー。教えにそうあるのか?」
「神は世を全てが治まるべくして治まるように作った、とあるよ。同じ事だよね?」
治まるべくして、か…確かに同じようなものだ。理論の裏付けがあるかないか、だ。
「うん、その教えは近いと思う」
そう言うと、レイラーもベフナーム先生も、少し安心して嬉しそうな顔をする。彼女らは学者だが根っこは本当に信仰心が篤い。ロスタムは少し違うと思う。彼は神を知ろうとしているが、多分もう信仰はしていない気がする。いや、信用していないというべきだろうか。
いずれにしろ彼らの言う『神』の概念が、伊勢には完全にはわからない。彼らの文化の中で成長した人間でないと、分からないのかもしれない。今の伊勢は『日本通の外人』みたいなものだ。たぶん、どこまで行っても『外人』だと思う。
「さて、じゃあ居間に戻って理論の解説をしよう」
伊勢は実験にひと段落を付け、居間に戻る事にした。
こんな感じで彼らの授業は行われていくのだ。
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『ファリスとロクシャーナ』の客入りはなかなか盛況だった。アールの描いた素晴らしい看板のおかげもありそうだが、話自体の魅力が間違いなくあるのだろう。
幸せにならないという結末を批判する人は多いものの、劇自体を批判する人はあまりいないのだ。客の内心では良い劇だと認められているのである。内心で認めているからこそ、最後が悲しくて、幸せになって欲しくて、だから批判したくなるのかもしれぬ。
団員もやる気になっているようで、この劇が認められたら、ファハーンでは悲劇の上演が忌避されなくなるかもしれない。一つの文化のターニングポイントになりそうな気配だ。
昨日、伊勢にセシリーがこんな話をしてきた。
『ミスターイセ、お聞きしたい事があります。私を買い戻すには3万200ディルでいいですか?利子は付きませんか?』
『利子は付けるつもりはないが、できるだけ早く返した方が良い。そうすれば君は自由民になれるんだから』
買い戻すも何も、奴隷の稼いだ金は主人の物なのだから、本当は無理な話だ。だが、まあそんな事はどうでもいい。
彼女は以前ほど自由民という身分を求めてはいないけど、なにしろ自分から動けるというのはとても素晴らしい事だ。彼女にはこの世界で、出来る事が増えた。もう媚びる事しか出来ないと、思い込んでいた彼女ではないのだ。
「がんばり、ます!」
彼女は伊勢の言葉を受けて、拳を握って宣言した。
アールの言うとおりだ、これなら大丈夫だろう。
セシリーはすでに2作目の執筆を開始している。タイトルは『タイラス・アポロニウス』。もう少しひねるか、あるいは原題そのままの方が良いんじゃないかと伊勢は思う。ただ、この話は間違いなくこの国で受けるだろう。絶対に確実だ。
ちなみに敵役は、伊勢の頼みによりモング族にしてある。地味な嫌がらせ的情報工作である。
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マルヤムはオリーブオイル以外で石鹸をつくるための実験をしている。デーツ(ナツメヤシ)の種からとれる油での実験だ。
「旦那、今日の実験は終わったから、鍛冶屋で『誉』でも踏んでくるよ」
ババアはそうやって伊勢に報告すると、返事も聞かずに出ていった。大したババアである。
マルヤムはいつも何かをしている。止まっているという事が無い。職人の妻として30年生きてきた、その習い性なのだと伊勢は思う。実に大したババアである。
彼女は旦那の事も、過去の事も一言も言わない。伊勢はもう、彼女の死んだ旦那の名前さえ忘れてしまった。
マルヤムが気にしているのは今だけだ。振り返っているのかもしれないが、そんなそぶりは見せないし、将来を気にしているわけでもない。
「ババアだからどうでもいいよ」とは彼女の口癖だが、これは彼女の本心だと伊勢は思う。どうでもいいと口で言いつつ、気にして欲しい、というパターンじゃない。
マルヤムは今を生きるババア。最強である。
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アールは伊勢たちの実験を手伝いつつ、セシリーの創作を手伝いつつ、マルヤムの石鹸作りを手伝いつつ、看板描きの仕事をしている。忙しい事だ。
劇場に掲げられた彼女の看板をみて、絵の注文を入れる人が殺到したのだ。アールは伊勢には良くわからない基準で注文を選んだようだ。たぶん、やりたい順であろう。今は1メートルくらいの木の看板に火箸で絵を描いている。熱した火箸を表面に当てて、焦がすことで絵にするのだ。下書きもせずに描いているが、いったいどんな絵になるのか期待である。
絵を描いている時のアールは、とても真剣に集中していて、声などかけられないような雰囲気をしている。長身で長い黒髪をポニーテールに結わえた美女が絵を描いている姿など、それ自体が一つの絵画のようなものだ。
伊勢は一度、アールが絵を描いている姿をスケッチしようとしたのだが、どうにも形に出来ずにやめてしまった。申し訳ない気がしたのだ。
彼女が普段描いている絵がどんなものか、伊勢は非常に気になるのだが、そこには触れないのが華というものであろう。秘密が保たれているからこその神秘なのである。
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1年と110日目
アミルの長女のアフシャーネフと、キルマウス次男のダールという若者が婚約した。これでアミルは権力者の親戚という権力者になったわけだ。素晴らしいことだ。コネはパワーなので問題はないのである。
知らせを聞いたので、伊勢とアールはアミルの所に祝福に行った。
「こんにちは。どうもこの度は、おめでとう御座います」
「ああ、イセ殿、アール殿…」
娘溺愛型親バカ親父であるアミルはショボくれてしまっている。
「アミルさん、これ、我々からの気持ちです」
伊勢が渡した婚約祝いはガラスの器であった。それなりに高価なものである。ちなみにキルマウスに贈ったものは、この10倍の価値がある絹の反物である。ヤクザの上納金と同じだから、仕方が無いのだ。組からの破門は奴隷堕ちコースである。
「イセ殿、息子が家を出ていった時にはなんにも思わなかったが…娘はキツイなぁ…」
「アミルさん、婚約したばっかりなんだから、まだしばらく居るんでしょ?」
「うむ、キルマウス様が戻られるまでは…」
そうなのだ、キルマウスはすでにファハーンを発ち、東部諸侯軍の一角として北東部に向かっているのである。最近の伊勢とアールは戦闘士協会にも行っていなかったので、まったく知らなかったのだ。
「次男の…ダールさんでしたっけ?彼もいっしょなんですよね?」
「そうだ、娘がそれで泣いてなぁ…」
「相棒、ボクはアフシャーネフさんの所に行ってきますね」
アールはそう言うと、席を立ってアフシャーネフの部屋に行った。他人の家ではあるが、勝手知ったるなんとやらで自由なものだ。
「アミルさん、孫がそのうち出来ますよ。まだいないでしょ?孫」
「孫かぁ…」
このアミルはダメだ。いつもの切れ味がゼロになっている。ただの抜け殻のようである。
伊勢は諦めて、タバコをとりだして一服した。
「相棒、結婚てどんな感じなんでしょうね?」
帰り道を歩きながら、アールがそんな事を聞いてきた。考えてみれば、伊勢とアールがこうして二人で歩くのは、随分久しぶりな気がする。
「結婚ねぇ」
「アフシャーネフさんはとても嬉しそうでした。」
「アールは知ってるだろ?」
「女の方の記憶はないので」
「あ、そういうことか」
そうだ。アールの記憶は伊勢の記憶がベースになっている。だから、日本での伊勢の結婚生活で亜由美が何を思っていたか、本当のところは分からないのだ。
「俺は、結婚する時は、嬉しさよりも不安で怖かったけどな」
「はい、知ってます」
「だよな」
その不安が、半ば的中してしまったわけだ。
結婚ね…伊勢は今と大して変わらないんじゃないかと思ったが、なんとなく黙っておいた。
「今と大して変わらないのかもしれませんね」
「たぶんな」
ほら、こんな風になるから、大して変わらないのだ。
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1年と116日目
朝、キルマウスから伊勢とアールに、参陣命令が届いた。
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