339日目
339日目
武術大会の終わった後、会場から攫われるようにして屋敷に戻され、夕方から翌日の朝にかけては大宴会であった。
「はじめましてイセ殿。~の~です」という自己紹介を100回は聞いたが全く伊勢は覚えていない。今のところアールたちとマトモに話せてもいないのだ。
こんなことを毎日やっているなら糖尿にもなるよなぁ…と思うのだが、主役が逃げられるはずも無く、盛り上がる酒の席で愛想笑いしながら、タバコの煙をにまぎらして嘆息をごまかすだけが、唯一のさみしい息抜きだったのであった。 宴会の席でアミルは伊勢の手を握り、瞳を潤ませていた。よほど心配だったのだろう。彼の気持ちに、伊勢としても感慨深いものがある。
翌日の朝10時に起きた伊勢は、キルマウスに呼ばれた。
「イセ。ご苦労だった。なかなか良い口上だった。我々は初期の目的を概ね達成した。後は監視していかねばならん。まあ陛下が数万人の前で言ったから大丈夫だろう。勝った。もう警備を付けるなら外に出て良い。紙工場を考えておけ」
「はい」
とだけ返事して下がった。
自分の部屋に戻って、新ネタの装置を考えようと思ったが全く頭が働かないので中庭に出てみた。
「おお、イセ君!昨日はお疲れだったね!怪我はないのかい?」
中庭の東屋にレイラーが居た。何やら紙に書きつけている。
「ああレイラー、疲れただけだ。怪我はないよ。俺は…強いからな」
「強い事が悪いように言うね」
「まあ、なあ…」
レイラーの言うとおり。伊勢の戦闘術はチート、反則なのだ。努力して得たものではない。競技会に出ていい人間ではないのだ。
「私はキミが強く無かったら今頃死んでいたけどね!」
「?…ああ、黒馬族の襲撃か」
「ああ、キミは命の恩人さ」
あの時、伊勢はレイラーをひき殺そうとする馬から、身を呈して救ったのだ。
「あれから忘れた事はないよ」
彼女は庭を流れる小川を見ながらそう言った。久しぶりに見る、誰かの優しい表情な気がした。
「レイラー……あ、いい事を教えてやるよ。紙をこうやって折るとな…ほら出来た」
「…イセ君。私の紙を無駄にしないでくれないかね?」
ジト目で伊勢を見る。この後の表情の変化が実に楽しみである。
「いくぞ…ほいっ!」
「おおおおおおお!とんだあああああ!!」
絶叫し、呆然としているレイラー。思った通りの彼女のリアクションに、伊勢は小さく笑った。
アールの部屋に行ってみると、彼女は絵を描いていた。
「おはようアール…もう昼だけどね」
「おはようございます相棒」
「なんの絵を描いてるの?」
「秘密です」
「秘密ならしかた無いな」
「はい」
アールは沢山絵を描いているけど、一度も伊勢に見せてくれた事はない。秘密、だそうだ。
下手でもいいから見せてくれればいいと思うが、秘密なら仕方ないので、伊勢は密かに見たりもした事が無いのである。その辺は誠実なのだ。
彼女は真剣な顔だ。シュッシュっと筆を走らせ、ピチャピチャと水で絵の具を洗い流す音だけが聞こえる。眠ってしまいそうだ。
「相棒」
「ん?」
「とっても、難しいです」
絵の事ではない。
「どうしたらいいか、わからない事が増えて来ました」
「うん」
「どちらが良いのか、わからない事があります」
「そんなのしょっちゅうだよ」
「わかってます」
アールは生まれてもうすぐ340日だ。経験がだんだん増えて来て、色んな人と出会って、迷いが生まれてるんだと思う。
そういうものだと自分でもわかってはいるけど、初めての事だから対処の仕方に戸惑っているんだろう。
「アール、どちらが正しいか、どちらが良いか分からないときは、どちらが好きかで決めて良いよ。」
「え?」
「それでしか決められないなら。アールの好き嫌いで決めて良いさ」
「いいんですか?そんなので」
「それで良いんだ」
じゃないと一歩も動けなくなる。
「わかりました…相棒?」
「ん?」
「家はどうなってるんでしょうね」
「うん。そうだな…早く帰りたい」
この街は、疲れるからな。
ロスタムはセシリーに文字を教えていた。
「ロスタム先生、ラッキースケベ狙いか?」
「違うに決まってるでしょう師匠バカッ!」
ふむ。これは内心で期待していたものと思われる。でなければ、ここまでの反応は返さないものだ。まあ彼の名誉のためにスル―しておく事にしよう。
「ふむ、で、どんな具合だ?」
「文字は全部覚えたので、今は読み方を教えています…俺が文字を人に教える日が来るとは思いませんでした…」
ロスタムは偶に怪しいが、まあ問題なく読み書きができる。この国の文字は母音を省略するので、文章の読み書きは非常に難しいのだ。
しかし、その程度の事はロスタムにはできないわけはないのである。この子供は結構かなり物凄く賢いのだ。まあ時々、抜けているが。
「ロスタム、お前は俺の持ってる技術とか概念をこの世界に広げるんだ」
「え?」
「俺の後はお前がやるんだ」
「はい」
「だから勉強しろ」
「はい!」
ロスタムは賢いが、所詮は単なる人間に過ぎない。日本で生まれ、系統立った高等教育をされるわけでもないから、伊勢の全てを受け継ぐ事なんてできないだろう。だがそれでも、エッセンスだけでもいいから、この国の物と混ぜ合わせて、上手く使ってくれると良いと思う。
伊勢が最近ロスタムに望むのはそれぐらいだ。一人の人間に期待するものとしては、それでも破格に大きいと思う。とりあへず、弟子風味、位には昇格させてやって良いだろう。
『セシリー、俺の仕事が終わったらグダードを出るよ。見たいものがあったら言っておきな?』
「建物わたし見たい。宮殿、礼拝堂、Library」
彼女が少し考えて言った言葉はアルバール語だった。知恵の館、という単語は出てこなかったけど、アールと一緒にお手製辞書を作って頑張っているのだ。
「わかった。俺達も観光してないから、一緒に廻ろう。あんだすたん?」
「わからない」
ダメだった。
『我々も観光していない。だから一緒に廻ろう。と言ったんだ』
「わかりました」
「おし」
彼女はちゃんと先に進んでいる。本当にえらい。
アミルはいつも通りいなかったので、伊勢はやる事が無くなり、寝台に戻った。
なんにも考えずにゴロゴロしていると、アールがやってきて伊勢の足元に座って刺繍を始めた。
「刺繍なんかいつ始めたんだ?」
「この一月、暇だったんですヨ」
確かにそうだ。ずっと軟禁状態だ。
アールは伊勢の足もとでチクチクチクチクと刺繍をする。特にここでやる意味はないけれど、伊勢の暇つぶしと、一人にしないでおこうと思っているのだろう。
アールが大きなからだで、小さな刺繍を器用にするというのは、なかなか面白いもんだ。しかも滅茶苦茶に真剣な顔だ。ふふはは…
「相棒の笑顔を久しぶりに見た気がします」
「うん」
「今回はとても…難しかったですね」
「うん。疲れたよ」
「ボクはここにいるので寝ても良いですヨ」
「うん、そうする」
「お休みなさい」
「お休み」
伊勢は眠った。
久しぶりに夢は見なかった。




