300~306日目
300日目
ファハーンを出発してから九日が経った。
相変わらず、夜進んで、昼は街道に敷設された休憩所で休む、という道のりだ。
砂漠の夜は飽きないと、伊勢は思う。
アールに乗って、昼間とは全く違う冷え切った空気を呼吸すれば、体の中の何か余分なものが抜けて行くような、空っぽになれるような気がする。
蒼い光に照らされた、石ころだらけの地面は綺麗だ。
色が無いのがいい。
隊から離れてしまえば、見渡す限りまっ平らな中に、相棒と自分だけ。何も動かない。なにも無い。それが良い。
人が裸で放り出されれば、一日で死ぬような過酷な環境だが、砂漠にはそんな意志も無いし、すべては自動的だ。なるようになるだけ。怖いが、単純で綺麗だ。
そのうち日が昇ってくる。
空がほのかに白くなったと思うと、一気に赤い太陽が上がってくる。
そうすると伊勢はタバコを吸って、Uターンしてみんなの所に戻るのだ。
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ロスタムは毎日、レイラーさんに数学を教えてもらっている。
師匠とアールさんから教わった数学とは別のもの、この国の数学だ。師匠の国の数学の方が単純で、よく出来ていると思うが、それは師匠とアールさんとレイラーさんとベフナーム先生しかわからないので、アルバール国の数学も学ばなければいけない。
そう、数学だ。
ロスタムは羊飼いだった。
そのロスタムが数学を教わっている。
ロスタムがいままで、村から出た事など一度だけ。7歳の時に近くの街で洗礼を受け、巫女の祝福で魔法を使えるようにして貰った時だけだ。
自分は、その辺によくいる、ただの子供だと思う。
田舎者の子供だ。
村がモングにやられて、父さんも母さんも殺され、妹のミナーは攫われた。
ロスタムは助けを求めて街道に走り、偶然にそこにいたジャハーンギールの軍隊に助けを求めた。
軍隊は軍曹殿と呼ばれる隊長が率いていて、助けに来てくれる事になった。あの時は本当に神に感謝した。祈りが通じたと思った。
軍曹は村を襲ったモングを追って、それを見つけ、倒した。
ロスタムも遠くから見ていたが、モングは一瞬のうちに全滅した。本当に一瞬だ。始まったと思ったら終わり。
神の奇跡だった。これでミナーが助かったと思った。
無理だった。
ミナーはもう、とっくの昔に死んでいた。攫われた途中で馬から落ちて頭を打ったとかで。もしかしたらロスタムが助けを呼びに走っていたころには、もう死んでいたのかもしれない。
ミナーは7歳だ。
いつもロスタムのまわりをちょろちょろして、色んな事を聞いてきて、面倒くさくて邪魔だった。
兄貴だから面倒をみなくてはいけなくて、ミナーが何か悪い事をすると、ロスタムが父さんと母さんに叱られた。
兄貴だから面倒を見ているだけで、ミナーなんて好きじゃ無かったと思ってた。
いつも遊んで甘えてケラケラ笑っているだけのミナー。
羊を追いかけるのがミナーは好きだった。デーツの実が好きだった。よく一緒にオアシスに行った。
寝床が無かったので、ミナーとロスタムは同じ寝床に寝ていた。
ミナーはいつもちょっとだけ汗臭かった。
でも、攫われて死んだ。
ミナーが死んだと軍曹から聞いた時、なんで?って思った。
神様が軍曹の軍隊をロスタムにくれたのに。
ロスタムは軍曹の軍隊をモングまで導いたのに。
死ぬ気で、全部出して頑張ったのに。
力を失って座り込んだロスタムに軍曹は「努力は結果を約束しない。頑張ってもダメなものはダメ。俺は神様なんて信じていない」って言った。
細かい言葉は覚えてないが、そういう内容だった。
ロスタムは驚いた。何が何だか分からなかった。
ロスタムは祈ったのに。ロスタムは頑張ったのに。神様は軍曹の軍隊をくれたのに。軍曹の軍隊は神様の軍隊なのに。神様の軍隊を率いる軍曹は神様を信じてないと言う。助けられないわけが無いのに、ミナーは死んだ。
わけがわからない。
ミナーの死体は真っ白くて動かなかった。なんか、とても、変だった。静かに寝ているようだ。でも、確かに死んでいた。
軍曹はなぜかロスタムを弟子にしてくれたので、今は師匠だ。
師匠はとても変な人だとロスタムは思っている。
とても強く、ちょっとだらしなくて、たまに一生懸命で、記号を書きながら悩み、変な機械を作って興奮し、紙を作り、石鹸を作り、レイラーさんやベフナーム先生が知らない事まで知っている。
でも、普通だ。
レイラーさんや、ベフナーム先生は師匠のことをすごいと言う。
アールさんは凄くないと言う。
ロスタムにはわからない。
この前、神様について聞いたときに、師匠は真剣に答えてくれた。でも、全然わからなかった。
アールさんは神様は自分には関係ないと言った。
レイラーさんは自然の全てが神様だと言った。
ロスタムには全部わからなかった。
だから、いつかわかるように、ロスタムは数学を学ぶ。
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レイラーは25歳だ。もうすぐ26歳になる。
正直若くはないが、嫁に行く気はないし、そんな事を想像する事すら出来ない。恋人も出来た事はないのだ。
「イセ君!この…自然対数というのは…ああ…私が初めに思ってたよりすごいね…」
「ああ、レイラー、朝飯の後でな…」
レイラーの目下の興味はこれだ。
イセ・シューイチロー。
驚くべき知識が、驚くほど普通の人格に収まっている男だ。
レイラーは自分がおかしい事はわかっている。
物心ついたときから、父と共に数学を、錬金術を、天文学を、神学を、ありとあらゆる事を考えてくる事しかしてこなかった。友人だってほとんどいない。レイラーの女性の友人はアール君だけだ。
自分がおかしい事はわかっているが、いまさら周囲に合わせる事も出来ないので、あえて神聖カトル帝国風の服を着てみたりする。レイラーはそんな女だ。
レイラーは魔法師であり、一流の学者で、アルバールの知識層では天才で通っている。さすがモラディヤーンの血筋、と。
彼女を形容する言葉は、それしか無かった。それだけで彼女の全てがあらわされてしまうのだ。
だからレイラーは焦っていた。
自分にもっと何かを!そう思っても考えつくのは学問の事だけなのである。まったく救いが無い。
欲しかったのは学問以外の『何か』なのだ。しかし、レイラーにはそれを思いつく事が出来ぬ。
歯がゆかった。
自分は人間である。だから人間としての『何か』が欲しかった。
イセ君とは知恵の館で出会った。
レイラーは勇気を振り絞って、声をかけたのだ。知恵の館でレイラーが知らない他人に声をかける事は多いが、そのたびに勇気を振り絞っている。
自分が想像する事も出来ない『何か』を得るためだ。学問以外には何も知らないレイラーに、他の手段は思いつかなかったのだ。
いつも怪訝な顔をされ、モラディヤーンの名前で家に連れてきても、まともな話も出来ず、得る事も無い。からだ目当ての男が来ることだってあった。
たった一つ以外、全部失敗だ。
イセ君に声をかけて、本当に良かったと思う。
彼は本当に新しい。そして異質だ。
レイラーが彼を評価しているのは、彼が新たな知識を持っているからだけじゃ無い。
イセ君の引き起こす色々な騒動をみていると、自分に新たな着想が生まれてくる。
彼はレイラーにとって、泉の神の水瓶のようなものだ。汲みだしてその水を口にすれば、体に何かを呼びおこしてくれる。
彼は、この国の民や学者とは全く違う考え方をしている。
そして普通の人間だ。
これだけの知識がありながら普通。
それがイセ君のイセ君らしさであり、レイラーが求めていた『何か』であると思った。
だから、彼の彼らしさが、レイラーにはとても大切である。
この間、イセ君の家で話をしたときに、彼はレイラーにこう言った。
『レイラーにも全部わかってんだから良いんじゃないの?…まあ俺は神様なんて信じてないけどさ…だからレイラーは今のままで良いのさ』
陳腐な言葉である。
まあ、でも…言われて悪い気はしなかった。
レイラー・モラディヤーンはこれでいいのだ。
だから…
「イセ君!君の言ったこの…ねいぴあ数というのは…おそろしいね!本当にすごい!」
レイラーはこれで良いのだ。
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306日目
一行は帝都グダートに到着した。




