256日目
256日目
キルマウスは真顔であった。
「もう一度言え」
きびしく問いかけてくる。
「はい、私とアール、アミルさんの三人で紙を製造いたしました。製法もこちらに記してあります。製法に関しては改善点はありますが、それは作りながら改善していけばいいかと思います。我々としては、相談は受けても直接的な製造を手掛けようとは思っておりませんので。
実物はこちらです。そして、そのペンは私とアールと鍛冶屋で開発したガラスペン。どうぞお試しください」
キルマウスは席を立つと壁際の机に移動し、ガラスペンで紙に字を書いた。なめらかな描き心地であった。墨の持ちも良いし、線が細く描きやすい。
それにしても、紙ときたか…キルマウスは笑えてきた。この街にイセが来てから一年もたたずにこれである。
「製法を簡単に話せ。何を使う?ファハーンで作れるのか?どのくらいの手間がかかる。費用は?お前はどこでこの製法を知った?」
いつもの調子のマシンガン質問である。
「製法は麻や綿や木の皮や草などを灰汁で煮て繊維を取り出し、水に分散させ、それをすくい取って乾燥させると、その紙になります。一部の鉱物なども入れますが…。
ファハーンで作るのは極めて難しいと思います。私が作ったように、実験のお試し程度であれば可能ですが、工場を立てるとなると不可能です。紙の生産には川が近くに必要かと思います。大量の水を使い、汚します。
手間は…断言はできませんが、10人いれば一日で千枚くらいはできると思います。費用は人件費と材料費、燃料費です。この辺の試算はしていませんが。
私がこの製法を知っているのは、私とアールの国で過去につくられていた紙の製法だからです」
キルマウスは、数秒の間を開けて聞いた。
「今、これを知っているのは何人だ?」
「10人もいません」
アミルが答えた。
「お前ら良くやった。」
そう言ってキルマウスはジャラジャラと銀貨を袋に入れると、それを伊勢に手渡した。
「3人で分けろ。近いうちに帝都に行くから準備しておけ。誰にもこの事は言うな」
やっぱりな。と思いながら伊勢は「は!」と勢いよく答えた。
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その後、アールとはアミルの家で別れた。なにやらアミルの長女のアフシャーネフと鍛冶屋の娘のラヤーナと共に、買い物に行くそうだ。
「おー、楽しんでこいよー」
などという軽い声をかけた伊勢は、運転手のロスタムを連れてちょっと高級な喫茶店に入った。キルマウスに貰った袋の中には3万ディル以上が入っていたので、3人で1万ずつ分けて、少し気が大きくなったのである。まことに小市民の感覚だ。
コーヒーを飲み、水タバコを楽しんだ。慣れると水タバコというものはなんとも旨いものである。この国の暑く乾いた空気には実にマッチしたタバコだ。水に香りをつけて楽しむ事も出来る。考えついた人間は天才であろうと伊勢は思うのであった。
「どうしたのかね?ロスタム君」
ロスタムは、きょろきょろ、そわそわしているようだ。このような店に入った事が無いからであろう。
「いや師匠、何か居心地が…悪くてですね」
「気にする事はないのだよロスタム君。堂々としていたまえ。君の師匠的な雰囲気の私に私に恥をかかせるつもりかね?」
そう伊勢に言われて、ロスタムはなんとか胸を張ろうとするが、緊張した田舎者の雰囲気は誤魔化しきれないのであった。
「師匠はこういう所になれているんですか?」
伊勢はふと考えてみるが、この世界に来て人に対して緊張した事はあっても、豪華な雰囲気や調度などに圧倒され、緊張した覚えはなかった。感心しただけだ。どこかビジター気分というのもあるし、日本で高級な所に行った経験もそれなりにあるからだろう。
「ふむ、私は私の祖国で慣れているからね」
「師匠の国ですか…師匠からあまり聞きませんが、どんな国なんですか?」
「まあ…面白い国だよ。今頃どうなっているんだろうね…」
伊勢は日本の斎藤、木村などの友人や、別れた妻の事を思い出して、少ししんみりした。
「まあ、そのうち話す事もあるだろう。そのためにも勉強したまえ」
「はい、師匠」
ロスタムはこういう所が素直だと伊勢は思った。
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伊勢とロスタムが家に帰るとレイラーが居た。良くある事である。
「イセ君、ところで私を君の医術の弟子にしてくれないかね?」
「断る」
当然である。
伊勢は医者ではない。医術などTVで黒い顔の司会者が~は体に良い、とかやっていたのと同じレベルの雑学しか持って無いのだ。
しかも、この間のビジャンの親父の件を受けて調べてみたところ、この世界の医者はきな臭いらしい。旧学派VS新学派で揉めていて、帝都グダードの方では殺し合いも起きたとか。こんな所でさらに『異国の新しい医学』なんぞ持ちだしたら、全方位からタコ殴りにされかねないのであった。
そもそも、それが無くても、レイラーを『弟子』なんぞにするのはごめんだ。ロスタムでさえ『弟子のような何かそんな感じの奴』でしかないのだ。
「ふむ、まあ君が断るのは予想していた。では医術に関する知識を教えてくれるかね?」
「あー、そうだな。…何から話したらいいか分からんから、レイラーから聞いてくれるか?ロスタムお前も聞いとけ。ノート持ってこい」
「はい師匠」
ロスタムがファハーンに来て4カ月弱。彼の学力は順調に伸びている。読み書きにはほとんど問題はない。ただし、字は壊滅的に下手だ。数学は日本式のやりかたである。伊勢もアールも、この世界の数学はわからないのだ。ロスタムはおそらく小学5~6年くらいの数学力だと思う。
4か月で読み書きと数学をソコソコ出来るようになったのだから、やはり頭自体はよいのであろう。ただしどこか抜けている気がするが。
「で?なにからだい?」
「まずは、この前言っていた血の巡りという話から…」
…
…
「も、もう良いんじゃないかな?」
3時間である。3時間ひっきりなしに質問を受ける恐ろしさ。しかもレイラーはとても真面目で知識に対して真摯、そして聞いた言葉をほとんど忘れない天才だから、雑な事が言えずに大変なのだ。
「仕方が無いね。まだまだ聞きたいことは山ほどあるが…」
「続きはアールにでも聞いてくれ。まあ今はいないけどな」
「アール君も知っているのかね!」
「ああ、まあな。俺の知ってるような事は大体アールも知ってるんじゃないかな?」
伊勢の記憶がアールの記憶のベースなのだから当然である。
レイラーもロスタムも驚いているようであるが、アールが普段あまりしゃべらないのは、経験が無いために、どのように話せば良いのか分からない事が多いからであって、モノを知らないからではないのだ。
「言っておくが、俺の相棒は大した奴だぞ?俺と同じ程度の知識で、俺とは考え方や感じ方が違うだけだ」
「そうかね…」
そう言って、レイラーは黙ってしまった。何か感じいった事があるらしい。
「どうした、レイラー」
「イセ君、私にはね、その人が持つ知識の多寡で、その人の評価をしてしまう所があるのだよ」
「うん」
「間違ってはいないとも思うのだが、私はどうにもそれが嫌でね…あまつさえ、さっき君に言われるまで、私はアール君を不当に低く評価していたようでね…これが恥ずかしくてね」
苦そうに笑いながらレイラーは答えた。
レイラーは知識を求める学者だからそういう傾向が強いのだろうが、伊勢もレイラーの考え方は別に間違ってはいないと思う。
知識の多い人間は社会的に価値が高い。自明だ。当然のことだ。知識の多い人間を社会が『偉い人』だと評価するのは当然だと思うし、そうでなければ学問を大切にする文化なんて得られないと思う。褒められるから、認められるから、逆に無知はバカにされるから…それらがインセンティブになって人は勉強するのだ。知恵に価値を、権威を見出すのだ。
でも…
「あー…博識は立派な人間の十分条件じゃないって事だろ?全ての価値はその社会だけのもんだ。
どうせ神様から見れば、石ころも俺達もモングも同様に無価値だよ。軍曹風に言えば、俺達には両生動物のクソほどの価値しかねぇのさ。レイラーにも全部わかってんだから良いんじゃないの?…まあ俺は神様なんて信じてないけどな」
だからレイラーは今のままで良いのさ、なんていいながら、ひらひらと手を振る伊勢にレイラーは苦笑している。
レイラーは全てわかっているから良いのである。わかっているから気にしているのだ。気にしていると言う事は、わかっていると言う事なのである。伊勢はそう思っている。
「師匠、神様を信じない、ってどういう感じなのですか?」
ロスタムが伊勢に聞いてきた。真剣な表情だ。彼にとってはとても重要な質問なのだ。なぜなら、ロスタムは神様を知りたいから、神様を信じていない伊勢の弟子になったのだから。
「ちょっと待ってくれ。今、考える」
伊勢はタバコに火を付けた。
真剣に答えないといけないが、伊勢にとってはとても難しい質問だった。この世界に来た時の経験から、伊勢は別の上位世界があるらしい、という決して証明できない予想を陽子さんから聞かされている。この上位世界のナニカが『神様』なのだろうか…伊勢は違うと思う。人間が創り出した『神様』なんて、いないのだ。だけど人間とその社会に影響を与えるという意味だけにおいて、『神様』はいるのだ。
伊勢が悩みながら、そこまで考えるのに10分くらいかかった。
それからゆっくり、ゆっくり、一文字ずつ言葉を発しながら答えていった。
「俺達の考えだとさ…神なんて存在しない。この世界が出来たのも、月も太陽も大地も、ただの偶然の蓄積により形成された。俺達が存在するのも偶然だ。俺達が死ねばそこで終わり。人間がこの世界の理を説明するのに作った物語が神だ。単なる間違った教本であり、間違った幻想に過ぎない。世界の法則があるだけであって、人間の幻想である神は世界の法則に関与することなど当然、出来ない。単なる幻想だ。この世界を見てなんかいないし、願いを聞き入れる事も無い。だって幻想なんだから。
全部、嘘だ。
だけど…だな、その幻想が重要なんだと思うよ。人と社会がその幻想を持っているから、みんなに影響を与える。幻想にすがる事も出来る。幻想が規範になってくれる。俺達はバカだから、怖くないと自分達を律する事が出来ないんだ。共有した幻想の無い社会は、脆いと思う。信じられる幻想の無い人間も。まあ、そんな風に考えてる。」
伊勢が話し終わっても、レイラーとロスタムは無言だった。
「ロスタム、わかったか?」
「……良くわかりません…」
まあそうだろうな。伊勢自身にも良くわからないのだから。
「イセ君、君の言いたい事は良くわかった。だけど少しだけ違う。我々にとっては、この空や大地、自然の理の全てが神なのだよ。」
レイラーはとても辛そうに喋った。
彼女が今言った言葉を伊勢はどこかで聞いたような気がした。少し考えて気がついた。
「ああ、食前の祈りの文句か」
「そう!そうだよイセ君」
『唯一にして至高なる神よ。我が戴くこの糧は至高なる神の肉、このワインの一滴は神の血。我が糧に我が血、我が肉となる至高なる神の肉体をお分けいただきました事にこうべを垂れ、深く深く感謝いたします。』
そういうことか。
だからレイラーやベフナーム先生はこうしているのか。
なら、それはそれで良いと伊勢は思う。
「うん、その方が良い。」
伊勢はそう言った。
「ただいま帰りました」
アールが帰ってきた。
「アールさん。神様ってどう思います?」
ロスタムがアールに聞く。伊勢にはアールの答えがわかる気がした。
アールはすぐに答えた。
「ロスタム君。ボクには神様は関係ありません。」
やっぱりそうだ。アールはアールだ、と伊勢は思うのだった。




