238日目
238日目
「もっとまけとくれ!あんたには出来るってわかってんだよ!」
「婆さんにはかなわねぇな…」
八百屋は苦笑して瓜を袋に追加した。これで金額は変わらないが量はアップである。
「こちとら無駄にババアじゃないんだよ」
マルヤムはクシシと笑うのであった。
「ただいま戻ったよ」
「お前は分数も比の計算も出来ねぇくせに何言ってんだ!調子に乗るんじゃない!そもそも何でちゃんと記録して無いんだ!試料が無駄じゃねぇか!」
マルヤムが家に帰ってくると、旦那がロスタムに説教をしていた。まあ、おおかたロスタムが石鹸で何か失敗したに違いない。旦那はロスタムに厳しく接しているつもりのようだが、鍛冶師の職人を夫に持っていた彼女からすると、物凄く甘いように見える。
まあ、旦那はマルヤムにはもっと甘いので文句はない。アールさんには普通だと思うが、そもそもあの人は使用人でも弟子でもないから、また別だ。
「マルヤムお帰り。続きを頼む。午後の実験の条件は書いて作業台においてある」
「あいわかったよ旦那クシシ」
旦那は面白い男だ。何でも知っているが、なんにも知らない。
旦那にバザールに買い物に行かせたら、マルヤムと同じ金額で、半分の量も買えないに違いない。まあそんなのは使用人や奴隷の仕事だから良いんだが、旦那はお偉いさんとの付き合い方も、今一つよくわかって無いらしい。キルマウスという、この街で二番目に偉い人と知り合いだっていうんなら、もっとこまめに顔を売りに行くのが当たり前だ。
そんなお人なのに、変なことはたくさん知ってるし、武術もすごい。そもそも旦那はモング族に襲われたマルヤムの村を助けに、100人の兵を率いてきた男なのだ。モング兵85名を一人残らず全滅させたってくせに、今は紙を作ったりしている。マルヤムには同じ人間とも思えない。
「ま、いいんだけどね。給料良いし。クシシ」
そう言ってマルヤムは厨房に野菜を置き、実験室の作業台に向かった。庭からガラガラと激しい音が聞こえてくるので、アールさんが繊維をほぐしているのだろう。せるろうすの繊維をなんちゃらかんちゃらって奴だ。マルヤムにはよくわからんが、叩いてほぐしているだけだと思う。
「なになに…えーと?、石灰1/2オンとカオリン1/2オン滑石1/2オンを混ぜると…繊維は配合ぱたぁんびぃ、と」
マルヤムは伊勢の指示書に書いてある粉の壺をとって、所定量を秤量すると少量の水に溶かした。それを、これまた所定量の水に所定量の繊維をいれた、通称紙汁にぶっこんでグルグル混ぜた。
この粉もなんだかよく知らないが、そんな事はマルヤムにはどうでもいい。入れた量による感触の変わり方とか、色の感じとか、そういうのだけ指示書の余白に書いておけばいい。
しばらくそのまま混ぜ棒でグルグル混ぜ続けたら、次はこの紙汁を枠のついたすだれで漉く。
この漉きがちょっと難しい。一番上手いのはアールさんで、二番はマルヤム、次にロスタムで一番下手なのは旦那だ。アールさんがやると、いつも全く同じになるのがすごい。死んだ夫の釘作りを思い出す。
漉いた紙のもとは綺麗に削った板の上に載せて、重たい"ろぉらぁ"って言うのを転がして水を絞る。
マルヤムはその紙汁から作れるだけ紙を漉くと、板を持って行って庭に並べた。このファハーンの空気は、マルヤムのいた北東部よりも乾いているから、いつもどおりすぐに乾くだろう。
「マルヤムさん、お帰りなさい」
アールさんが人の腕ほどの径の"ぼぉるみる"を回しながら言った。これで繊維をほぐすのだそうだ。こいつを作るのにも手伝わされた。マルヤムは杵でぶったたけばいいと思うが、まあ旦那にはなんか考えがあるんだろう。
「ああ、ただいま」
アールさんはマルヤムが帰ってきてるのは気付いていたが、彼女が作業中で挨拶出来なかったので、今したのだ。マルヤムが帰って来てから一時間半はたつ。なんとまあ律儀な。
マルヤムにはアールさんという人が一番よくわからない。
いい人なのは間違いないし、ババアのマルヤムから見てもふるいつきたくなるような美女だ。人当たりも優しく、丁寧だ。そして二級戦闘士にして異国の大魔法師。モング共を蹴散らした旦那だってかなわない。挙句の果てに、変な機械みたいのに変化するが、これが異国の大魔法であるらしい。あれにはババアであるマルヤムも年甲斐も無く驚いたものだ。
最初のころは、この人は旦那の何なのだろう、と思ったが、今はどうでもいいと思いなおした。良い人なんだからそれで良い。ババアにはその程度の理解でちょうど良い。
紙汁の残りを下水に捨てたら、次は洗濯だ。洗濯板でごしごしやるんだが、最近は初めのころに作った石鹸の出来そこないを使っている。体に使うんじゃ無ければ上等だとマルヤムは思う。
マルヤムが素晴らしいと思うのは洗濯物を絞るためのろぉらぁだ。向かい合わせのローラーに濡れた服を通して、取っ手をグルグル回すと絞れる。これは売れるとマルヤムは思うが、旦那に言ってみても苦笑いだけだった。
マルヤムに休んでいる暇はない。洗濯が終わると、紙の回収だ。
日光と風で、紙はあっという間に乾いている。板からぺりぺりと紙をはがしたらもう完成だ。場合によっては旦那の指示で、これにろぉらぁをかけて表面を滑らかにする。
簡単だ。
こんなので、紙が完成する。双樹帝国から運んでくるあの高価な紙が、だ。
麻や綿のぼろきれや草や木の皮を、灰で煮て、叩いて、漉いて、乾かすだけだ。色々に変えたり、注意すべきところはあるけれど、基本的にはそんなものだ。
紙をはがしながら、マルヤムはバカらしくなった。
マルヤムは遠い昔、5千ディルで親に売られた。5千ディルと言えば薄い紙の束ひとつ程の値段だ。こんなものが、マルヤムという11歳の少女の値段だったのだ。
夫は店に来た客だった。あの時、マルヤムについてくれて、本当に運が良かったと思う。枕元での戯言を本気にして、良かったと思う。
身請けの後、ちょっとしたゴタゴタで街にいられなくなって、東に逃げた。ずっと東の方に行って、寂れた村があったのでそこに住んだ。夫は鍛冶師だったので優遇してもらえた。
30年経って、村はモングに壊されて、夫も死んだ。今はファハーンにいる。
それだけの人生。
簡単だ。紙を作るのと同じくらい簡単な人生だ。
「でも、まあ…紙を作るのと同じくらいは難しかったね。キシシシ」
マルヤムはそう呟いて笑うと、いそいそと剥がした紙をまとめて旦那の所に持って行った。
「旦那、午後の分の紙だよ」
「おう、マルヤム。ちょっと来てくれ」
旦那は懐から綺麗なガラスの棒を取り出して、先端をインクに付けた。ペンであるらしい。
「ちょっとその紙、かしてみ?」
旦那はマルヤムの手から紙を受け取ると、そのうちの一枚にペンを走らせた。
細い線で、紙の上にするすると墨が乗った。
「ふむ。良いペンだね」
「だろう?軽くローラーかけた方がいいな、チョイ引っかかる。…それにしても冷静な感想だな」
「ババアだからね」
ババアだから当たり前だ。いちいち驚いてもいられない。そんなことやってたらすぐに心臓が止まっちまうんだ。
旦那は、ふむん、と言った。
「「「ごちそうさまでした」」」
これがこの家のしきたりだ。食前の祈りも『いただきます』って一言だ。マルヤムには楽で良い。
食事が終ったあと、旦那は机から数本のペンを持ってきてみんなに配った。
「さて、それでは…みんなにペンを渡しておく。大事に使え。そして、まだ秘密にしておけ。あと、使用感も言って欲しい」
気前のいい事だ。売れば間違いなく千ディルになりそうだ。売れないが。
「よし。じゃあ紙の開発はこの辺で終わりにする。次は石鹸に注力するぞ?」
「はい、相棒」「はい師匠!」「あいよキシシ」
またこんなのが続くらしい。
まあ、そんなに悪い生活ではないとマルヤムは思う。
変な生活だが、面白いから。
孫みたいなガキもいるし、ババアにはちょうどいい。




