165日目
この話は技術的に突っ込みどころ満載ですが、タグのご都合主義を心に秘めて、ジャポネーゼ・リーマン・スキルによる適度なスル―をお願いします。
作者自身、ちょこちょこつっこんでますので…ええ…わかってますとも
165日目
伊勢は煮詰まっていた。
苛性ソーダ、つまり水酸化ナトリウムが欲しい。最近、伊勢が思うのはそればっかりだ。紙を作るのにも石鹸を作るのにも、苛性ソーダがあれば最高なのである。
あのガラス工房での騒動の後、10日ほどかけてじっくりと魔石バーナーを設計してみた。地球から持ってきたパソコンで設計して、それをスケッチブックに書き写すといういつものやり方だ。
正直言ってとても面倒くさいが、プリント出力が出来ない以上は仕方が無いのである。ちなみに書き写すのは、弟子のような雰囲気がそこはかとなく漂わなくもないロスタムの仕事である。
バーナーは大体こんな構造だ。
鉄製で、内側にガラス屋から持ってきた耐熱煉瓦内張りをした、全長30センチくらいのカマボコ型の部分に炭を詰め、横から空気を送る。
送風機構は足踏みミシンのようだ。足で踏んだ上下運動がクランクシャフトを回して、シャフトに付けたタービンがパイプに空気を送る仕組みである。送風パイプは二本あり、各々調節可能なバルブを配した上で、炭に送るメインのパスと魔石に直接送るサブのパスの二系統を組んである。
最後の熱風が出てくる部分は直径一センチくらいの湾曲した煙突として、その開口部に白金で作ったネットを配し、そこに魔石を置く事にした。そう、白金があるのである。使用量は本当にわずかだから価格的にもそれほど問題は無い。白金の加工は極めて難しいが、そこは親父の魔法だから問題は無いのだ。親父にしかできない工作だ。
もう、親父のほうに図面は投げて、説明もしてあるから、あとは毎日フォローしながら作ってもらえばいい。ただし、かなりの部分はアールの変形チートで作ってもらった。開発費用の節減だ。
親父に払う価格は一万ディルになった。高いが、この世界での工業製品は、部品から何からすべて手作業だから仕方が無いのだ。まあ、それでも伊勢の手元には三万ディルほどあるから問題は無いだろう。
石鹸は、試してみたところ、どうにも柔らかいものの、一応それらしきモノはできるには出来る。材料はアミルが伊勢に届けてくれる予定だが、少しだけ試しにやってみたのである。
木灰を水に溶かし食塩を入れて、それを濾してから、マルヤム婆さんがどこかから調達してきたホーロー鍋で熱して、アルカリの温水を作る。それを温めたオリーブオイルに徐々に入れ、温めながらグルグルとよくかき混ぜる。そうすると硬くなってくるので、充分に鹸化したら型にとって重りを乗せて水を抜く。要するに予想されてる作り方だ。
海藻を灰にしたものをアミルがジャハーンギールの支店かファジル村から取り寄せる予定なので、それが届いてからもう一度、である。
条件の最適化には、たぶんかなり時間がかかる。でも、たぶんできると伊勢は考えている。グリセリンの件はその後だ。
伊勢が考える問題は紙の方である。
砂漠の国である以上、この国には木材資源があまり多くない。魔境で木材が取れると言っても、危険なためにあそこで特定樹木を栽培はする事はできないのだ。
なんちゃって和紙を作ろうと当初の伊勢は考えていたが、考えてみると和紙というものの原料は木の皮である。特定の樹木の皮だけ、他の木の木質部分が使えない、というのは資源的にかなり問題がありそうな気が、伊勢にはするのである。伊勢の考え過ぎかもしれないが、数十年単位では大丈夫であっても、それ以上の長期にわたって恒久的に供給可能とは、なんとなく思えないのだ。自分の広めた技術で、環境が破壊され、結果的に住民が困るのは伊勢にとっては嫌なのである。
だから煮詰まっている。できれば和紙じゃなくて、木質パルプで紙を作りたい。だから水酸化ナトリウムが欲しいのであった。
「相棒、何を悩んでるんですか?」
腐りながら寝転んで、宙を見ながらタバコを吸っているだらしのない格好の伊勢を見て、アールがそう声をかけてきた。
「いやー、電気が欲しいなぁと思ってな」
「電気ならボクから取ればいいじゃないです?」
確かにアールにはACアダプターをつけてあるので、電気はとれる。バッテリーからも取れるが…
「いや、それじゃその場にアールがいないと使えないだろう?電解がしたくてな。」
「ん?じゃボクのジェネレーターあげますヨ」
アールはそう言うと、ほいっ、という感じで懐に手を入れてジェネレーターをとりだし、伊勢の目の前においた。
「え?」
伊勢は目が点である。タバコの灰がぽとりと胸に落ちた。
「え?だめですか?磁石だけの方がいいですか?磁石だけ、もっと大きいのだしますか?」
「いや…ダメってわけじゃ…え?でっかい磁石出せるの?そ、それでアールは大丈夫なの?体とか変になって無いのか?」
「別に大丈夫ですけど…ボク本体についてる部品なら自分ですぐに修復できますし。」
大丈夫なら良いのだが…それにしても謎仕様である。バイク本体についてる部品を変形合成チートで作れるなら、複雑なものであっても原料さえあればいくらでも複製できる。
「アール、例えばエンジンをくれって言ったらできる?」
アールは少し悩んだようだ。考えてから答えた。
「バイクからジェネレータをとっても、バイクはバイクですよね?バイクからエンジンをとったら、それはもうバイクでは無いので、エンジンはあげられません」
「…バイクって言うアイデンティティーの範囲内なら何でもチートで部品を取れるけど、エンジンとかフレームとかだと死んじゃうって事?」
「そうそう、そう言う事ですヨ」
「じゃあエンジンの部品をくれって言ったら?」
伊勢の言葉に頷いてしばし服に手を入れてごそごそやっていたアールであったが、しばらくして落胆したよう項垂れた。
「すいません、相棒。コンロッドをとってみようかと思いましたが…エンジンの部品はとれないみたいです。ミッションやクラッチも無理みたいです」
「そ、そう…いや、別に良いんだ…すごいな…」
伊勢は新たなアールの新事実に驚愕であった。今まで変形合成チートで色々なものを作っていたが、ジェネレータのような複雑なものまで作れるとは…そしてエンジンなどの主要部品は外に出せないとは…謎仕様の不思議ボディである。
いずれにしても、磁石は大きいものを作れるとの事。おそろしい事だが、そのうちに発電機も作れるであろう。夢が際限なく広がっていく。
「それで、悩んでた事は解決しましたか?」
「いや、まだ半分だ。だけどまあ、良い事にする。アールのおかげで長期的には何とかなりそうな気になってきた。」
直流発電機を作って、食塩水を電解すれば苛性ソーダは得られるのだ。まあ濃縮や不純物の除去についての問題はあるが、その程度の事は気合いで解決するのである。
「ふふ、役に立って良かったです。」
それどころか、いつも役に立ってくれてるどころの話じゃ無い、とは思うが、それを口には出せない伊勢なのである。どうせアールにはバレているが。
伊勢は、なんとなく恥ずかしくなったので出かける事にした。
「マルヤムは何やってんだ?」
「今は相棒のポンチ絵で紙をすく為の、すだれみたいなのを作ってます」
マルヤムはじつに器用な婆さんである。笑い声は変だが、機転が効くし、読み書きも簡単な計算も出来て、かつ異常に要領が良い。一日2ディルで雇うには最高の人材であった。
「そか、じゃあロスタムと出かけてくるよ。レイラーの所に行ってくる」
「でもそろそろご飯ですヨ?」
「食ってから行く」
ナン、ナスと鶏肉の炒め物、卵焼き、漬物。
簡単な料理だが、いつも通り、美味しかった。こういうのシンプルなのが良いのだ。
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レイラーの家、モラディヤーン家には歩いていく事とした。探知魔法しか使えない伊勢なので、自操車はロスタムに運転させるしかないのだが、ロスタムの運転は危険なのである。簡単に言えば、ぶつけるのだ。
「師匠、今日はレイラーさんの所にどんな用事ですか?」
「あー、いや、特にないけどさ。たぶんなんかのヒントが貰える気がする。お前、字は?あと算数は?」
「はい、初心者向けならもう読めます。今は普通の読み書きを練習してます。算数は足し算と引き算なら二桁までは」
「お前ならそんなもんか。早く九九を覚えろ。読み書きそろばんが十分に出来ないでは、まるで使いもんにならん」
ロスタムがこの街に来て約3週間だ。それまで全く勉強していない子供だった事を考えると、習得速度は悪くないと思う。だが、伊勢は安易には褒めない。ロスタムは芯が強いし、アールとマルヤムが伊勢の足りない所を補完してくれているからだ。
「はい師匠!」
ほら、この返事である。
「おおイセ君。久しぶり。めずらしいね我が家に来るとは」
「何言ってんだよレイラー。3日前に俺の家に来ただろう?」
レイラーは良く伊勢の家に来る。いきなり来たと思うと好き勝手にそこらを覗きこみ、伊勢に質問して「おお!」などと感嘆詞を頭に付けながら勝手に帰っていくのだ。良くわからないが面白い人間ではある。本気なのが良い、と伊勢は思う。
「そこはそれ、これはこれ、だよ。しかし私は今からすぐ出掛け無いといけないのだよ。悪いね。」
「そうか、悪かったな。じゃぁ俺はまた来…」
「イセ君ではないかね!!」
小さくて丸っこい男。ベフナーム・モラディヤーン大先生の登場である。
「ではイセ君、父上をよろしく頼むね」
レイラーはそう言って出ていった。執事のキルスも一緒に家を出ていく。と、言う事は、この家にもはやベフナーム先生のブレーキは無いのだ。
「まあ研究室に入ってくれよ君!」
伊勢は引きずられていった。
「イセ君の教えてくれた、あの微積分というのはすごいねぇ!すごく使える数学だね!」
「ええ、確かに非常に使える数学ですね。物理でもメインに使います」
「そうだねぇ!そしてそれを使った”にゅうとん力学”とやら。おかげで私の考えていた物体の運動の問題がどんどん解けていくよ!」
ほんとうにありがとう、そう言ってベフナームは伊勢に深く頭を下げた。
この人は本当に学者…というか知に対して、レイラー以上にどこまでも誠実で探究心のある人なのだ。だから不用意な事が言えず、大変なのだ。単に先人の知識を漏れ伝えただけの伊勢は恐縮するしかない。
「せ、先生、顔をあげて下さい。俺はそんな…。今度また別の…そうだな…複素数とか対数って数学を教えますから」
「あんな数学を他にも知っているのかね!」
「ま、まあ俺の知ってる数学なんて一部ですけど…」
伊勢にしてみれば、自分より年上で、ずっと頭の切れるベフナームに数学を教えるなど、どうにも申し訳ないのである。
「俺の世界では…俺の国ではもう二千年は数学がやられています。近代数学、高等数学となると数百年ですが…たぶんこの国より500年から千年は進んでいるでしょう。
それでも数学の泉は掘りつくされていませんし、まだとかれていない証明は腐るほどありますし、数十万人の数学者が一生懸命考えて考えつくしても解けないものがあります。数学で解かれた命題は絶対に間違いない事が数学によって証明されていますが、一方で数学ですべての命題を解く事が出来ない事自体が、数学によって証明されてたりしたはずです。
まあ、俺の知ってる数学は初歩の数学ですが…それでも先生やレイラーのお役にたてれば…」
「き、君は…」
ベフナームは泣き始めた。
彼は今まで、あらゆることを考えて考えて考え抜いてきた。50年だ。親が死んだ時も、娘が生まれた時も、産後のひだちが悪くて妻が死んだ時も、いつも何かを考えていた。
仕方が無かったのだ。ベフナームには考える事しか出来ない。考えるという事はベフナームにとってすべてであり、神への信仰のすべてであった。
我、考えるゆえに我あり。考えられなくなった時は、神もベフナームも死ぬのだ。神を殺す事は出来ぬ。だからベフナームは考えるしかないのだ。
娘の教育もした覚えが無い。彼女が生まれた時から、一緒に何かを延々と考えて来て25年だ。おかげでレイラーは自分と同じしゃべり方をする、おかしな娘になってしまった。友人も数少ない学者仲間だけ。変な娘だ。恋人だって出来た事が無い。かわいそうな、かわいいかわいい娘だ。
それが、イセという男を連れてきた。数学が苦手と言いながら、見たこともきいた事も無い数学を、物理を語る。娘から聞いたところでは、光が波であり粒子である、などといったらしい。極々微小の世界では物質の存在は確率でしか判断できぬといったらしい。それはまさに神の理ではないか。神はどこまでこの世界を深く愛して創造してくださった事か!
数学は神の言葉だ。新たなる数学は、新たなる神の言葉である。
そしていま、イセは言った。千年経っても解けぬ命題があると。そして数学は完全ではないと。本当におそろしい事であると同時に面白い事でもある。神の言葉ですら不完全とは!
神は考える事しか出来ぬ愚かな私に対して、新たなる言葉をイセという男を通じて与えて下さったのだ。私はそれを活かさねばならぬ。
神よ。
神よ。
私は考えます。
神の為に。
私が私である為に。
「神よ…」
「いや、恥ずかしいところを見せてしまったね」
15分ほどして、ベフナームは立ち直ったようだ。伊勢はまだ少し心配だったが、外見上はすっかり落ちついている。
「いえ、俺も弟子も気にしませんから」
「イセ君。ところで何の用だったのかね?」
いまさらと言えば今さらである。
「いや、用という事も無かったんですけどね。レイラーと話してなんか着想が得られないかと…あ、先生は鉱物には詳しいですか?」
「ふむ、それなり、という所だが…何だね?」
「つるつるする感触の石、つるつるするする感触の砂、柔らかい粘土鉱物の一種なんですが…そう言うのありませんか?私の国でタルクって言うんですが」
「ちょっと待ちたまえ」
そう言うとベフナームは書庫に行って鉱物の図鑑を当たり始めた。
「ああ、あった。君の言うのは滑石かね?」
言語チートのおかげで理解できる。素晴らしく便利だ。
「そう!それです。どこで採れるんですかね?価格はどの程度でしょう?」
「南東の山脈だね。大して高価では無いよ。その山脈では似たような白い粘土とか沢山とれるしね」
ビンゴ、である。伊勢の考えたのは紙なり石鹸なりにタルクを入れてなめらかな手触りにする事だ。他にも取れると言っていたので、タルク以外にもカオリンなどは紙に入れれば白く、筆の運びも良くなるかもしれない。
「鉱石の商いをしている店を教えてあげようかね。ちょっと待ちたまえ」
ベフナームはそう言って、羊皮紙に紹介状を書いてくれた。
「ありがとうございます」
「なに、何でも無い事だ……イセ君、私とレイラーはこれから君の話から着想を得た命題について、沢山の本を書くだろう。その本の中で君の名を一番に挙げる事にしたい。良いかね?」
伊勢は考えた末に了承した。
「わかりました。私の名でよければ。…よろしければ私の相棒、アールの名前も載せてもらいたいのですが…私の功績は相棒の功績ですので」
「そうかね。わかったよ。…弟子の君はロスタム君と言ったね。良く学びたまえ。」
「はい!ベフナーム先生」
ベフナームはロスタムを近くに呼び、その手をとって、二度三度上下に振った。
「…ところでイセ君!今から例の複素数とか対数という数学を!……」
玄関で伊勢とロスタムが送り出される時、ベフナームは娘と仲良くしてやってくれ、と言ってきた。
伊勢には意味が良くわからなかったが、もちろんです、と答えておいた。
ベフナームは満足そうだった。
「師匠、ベフナーム先生はなぜ泣かれたんですか?」
トボトボと歩きながらロスタムが聞いてきた。
「さあな。気にするな」
「はい。…やっぱり師匠はすごいんですか?」
「すごくはない」
「でも本に名前を書くって…」
「すごくはないよ」
そう、すごくはないのだ。
そこそこ程度の人間である。




