レイラーの飛行機械 1
外伝を投下します。
本編の余韻と、ご自分の想像を楽しみたい方は、閲覧を控えた方が良いかもしれません。
ちなみに、作者にはこのテーマに関する技術的知見が不足していますので、その辺の突っ込みはご勘弁を…
外伝 レイラーの飛行機械 1
レイラー・モラディヤーンには、忘れられない光景があった。
いや、正確に言えば彼女の脳は今までのほとんどの光景を、絵画を切り取るように記憶しているのだが、その中でも特に印象的、という事だ。
これほどに印象的だった事は、そう無い。彼女の父、ベフナーム・モラディヤーンと共に、三次関数の解き方を導出した時に匹敵する衝撃だった。
イセ君の折った紙が、宙を飛んだのだ。
あれはそう、帝都のセルジュ屋敷の事だった。
レイラーと話していたイセ君は、おもむろに彼女の手元の紙を取り上げ、それを折り始めたのだ。
その時はせっかくの紙がもったいないと思った、だが次の瞬間である。
『いくぞ…ほいっ!』
『おおおおおおお!とんだあああああ!!』
紙を折っただけのモノが、ゆるやかな弧を描きながら、すべるように宙を舞ったのである。
イセ君の気の抜けた掛け声と共に、彼の折った紙が宙に放たれたとおもったら…飛んだのである。落ちないのである。全てのものは地に引かれるはずなのに、その紙は落ちない。
これは決して魔法では無い。
奇跡や見間違えでもない。
おそるべき事だ。
レイラーはその瞬間、電撃のように思考した。
物が下に移動するのは、下方に向けての力が働くからである。それは重力である。重力は球形を成す大地の中心に向けて、あらゆる物体に働く力である。これは自然であり、つまり神の理である。しかし、イセ君の折った紙は落ちない。何かがそれを、支えているのだ。何が支えているか。紙に接触しているものは無い。…いや、空気が接触している。空気だ!紙は風が吹けば飛ばされる。風はつまるところ一定方向への空気の移動である。風に力があるという事は、イセ君から聞いていたように、空気には質量があるという証左だ。イセ君の教えてくれた”にゅうとん力学”により、F=maなのだから、自明である。という事はその紙は風の力、すなわち空気によって重力と拮抗しているのである。質量のある静止した空気を動かすということは、慣性が働く。空気の慣性力により、あの紙は宙を飛んでいるのだ。イセ君があの紙を折ったのは…空気の慣性力を制御するためである。あの形に何らかの理由があるのだ。あの形を作れば、空気を利用して、宙に浮く事が可能となる。…なるほど、横に張り出した形で下方の空気を受け止め、下部に張り出した形が、前方に移動する際に生じる空気の流れを制御して安定化している。かつ、重心位置を下にしているのだ。極めて簡単な仕組みである。よく出来ている。徐々に速度を落として落下するのは、静止している空気にイセ君の手から受けた運動エネルギーを奪われるからだ。だが、落下しながら位置エネルギーを前方への推進力に転換している。端が細くなっているのはそのためだ。重心を前に持ってきて、頭を下げているのである。
素晴らしい形だ!実に理にかなっている!
そこからレイラーは、ある結論を得た。演繹的に得られる結論。つまりロゴスである。
「人は、空を飛べる」
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帝都から帰ってきて、しばらくレイラーは考えたが、あの時の着想は間違いないように思えた。どれだけ考えても無謬である。
人は空を飛べる。
飛べるはずである。
イセ君曰く、あれは『紙飛行機』と呼ぶそうである。飛行機…飛行する機械…飛行機械!
わざわざ『紙』飛行機、と名付けるからには、紙でない飛行機もある、という事だ。
「イセ君、人が乗れるほどの、もっと大きな飛行機もあるのだね?」
「んぁ?!何を言ってるんだレイラー。紙飛行機は紙じゃないか。うははは…」
などと、レイラーの問いにイセ君はぼやかして答えるが…実に怪しい。もっと大きな飛行機械があるのは、まず間違いないだろう。もしかしたら、イセ君の国、ニホンの秘密の技術なのかもしれない。
人が空を飛ぶ…秘密にするのが当たり前だ。軍事的にこれほど素晴らしい技術は無いだろう。空から見れば、相手の陣が丸見えなのだ。
ニホンの秘密の技術、となれば、彼に聞く事は出来ない。彼は皇帝陛下にすら国の事を秘密にしたのだから。
レイラーは彼に迷惑をかけたくは無い。故国に対する彼の誓いを破らせるわけにはいかないのだ。…ゆえに、独力で確認しなければならない。レイラーが独力で飛行機械を成し遂げたのなら、それは彼が誓いを破った事にはならぬ。
よし!成し遂げて見せる!
レイラーは、誰にも悟られぬように、拳を握りしめた。
さて、家が無くなってしまったイセ君達はしばらくの間はモラディヤーン家に滞在する事になったが、彼らに相談する事は出来ぬ。秘するしかない。
レイラーは耐えた。
ひと月の間、自分が飛行機械に並々ならぬ興味を持っていると悟られぬように、耐えた。
より大きな目的のためならば、彼女はいくらでも耐える事が出来るのである。
幸いにも他に興味のある事は沢山あるし、イセ君にも聞かなければいけない事は沢山ある。飛行機械についてわからない事は、他の事と混ぜ込んで聞けばいいのだ。
なにしろ、学問は全て繋がっているのである。特に神の言語たる数学は、森羅万象の全てに通じるのだ!
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「じゃあベフナーム先生、長い間お世話になりました。レイラー、ありがとうな」
「いいんだよイセ君、むしろ歓迎だよ」
「今度は私がそちらの家に遊びに行こうかね」
イセ君達は新しく出来た家に引っ越していった。
「さて…」
相談する相手は一人だけである。レイラーの26年間、全人生にわたる共同研究者だ。
「お父様、これを見て下さい」
レイラーは父ベフナーム・モラディヤーンに、イセ君の折った紙飛行機を見せた。
「レイラー、これはなにかね?」
「イセ君の折った紙なんですがね…驚くべき形なんですよ」
「ふむ?」
レイラーは紙飛行機を手にとって形を整え、「ほいっ」
「……と、とんだ…とんだあああぁぁぁぁぁ!」
「見たかね!お父様!飛ぶのだよ!見たかね!!」
「…待ってくれないかね、レイラー…今考えているのだよ…」
「お父様、存分に考えてくれたまえ!」
ベフナームはしばらく考えた。レイラーは待った。
執事のキルスがお茶を持ってきたので、それを飲みながら数学の命題を考えつつ、飛行機械の構造を考えつつ、人間の心臓と肺の関係を脳内で整理しつつ、待った。
1時間ほど経って、ベフナームはハッとしてレイラーを見た。彼は思索の海を広く航海し、戻ってきたのである。
彼は慄然とした顔をしている。気がついたのだ。
「レイラー、これはそう言う事だね?!」
「そうとも、お父様」
「「人は空を飛べる」」
そうなのである。
人は空を飛べるのだ。
それが、この紙飛行機から得られる当然の論理。神の理である。
鳥だけが、空を飛べる訳ではないのだ。人間も、神の理の中で空を飛ぶすべを持っていたのだ。神はそれを人間の可能性として授けて下さっていた。
我々は、愚かにも今までその事に気が付かなかったのだ。
何百年も何千年も、我々は気がつかないままに生きてきた。神はその理の中に、人を空に導く可能性を示してくれていたのだ!
地をかけるのみでは無い。海に漕ぎ出すだけでは無い。空も、我々に与えてくれていたのだ。
我々は、今ようやく、気がついた。
人は、空を飛べるのである。
「レイラー…」
「飛ばなくてはいけないね。お父様」
「神よ…」
気が付いてしまったのだ。
レイラー・モラディヤーンとベフナーム・モラディヤーンは、神の理が持つ可能性に気が付いてしまった。神の授けたもう、人の持つ可能性に気が付いてしまった。
このアルバールで、他の誰も気づいていないであろう事である。
数学と同じである。気が付いてしまったからには、それを探求せねばならない。
学者なのだ。
それが、使命だ。
やらねばならないのだ。
モラディヤーン親子は、その為にいるのだ。
「イセ君にはこの事は聞いたのかね?」
「この事だけは教えてくれないのだよ。たぶん、彼の国での禁忌なのだと思うのだがね」
「無理もないね…では、レイラー我々でやろうじゃないかね!」
「ああ、お父様!やりましょう!」
レイラーは秀麗な眉をきりりと引き締めた。
ベフナームは小さくて丸っこい体を震わせて、同じく丸っこい手を握り締めた。
そこから、彼らの静かな戦いが始まったのである。
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さて、モラディヤーン親子の考えるべき事は多い。数学に医学に神学に論理学に天文学にetc…飛行機械だけを考えて行くわけにはいかないのである。
忙しいのだ。
本だって書いている。
最近では医学の本を新しく発表した。このアルバール帝国に新しい医学を根付かせる、それも彼らの重要な使命である。人の命に直結する事だけに、ゆるがせには出来ぬ。それに、親子二人の恩師であるホラディー師の、終生の願いでもあるのだ。
ベフナームは知恵の館の館長であり、ファハーンにおける学会の最高権威であるために、自ずと取れる時間は少なくなってしまう。弟子の面倒だってみなくてはいけないし、最低限は会合にも出席しなければいけない。
ゆえに、飛行機械の研究はレイラーが主にやる事になった。
まず、レイラーは観察する事を始めた。常に学問の基本は、徹底した観察なのである。
「やはりこの形状が大事だね…」
左右と、下に張り出した形状。先端がとがった形状。これが根幹である。
彼女は左右に張り出した形状を『翼』、下方に張り出した形状を『安定板』と名付けた。
「少しいじってみようかね」
レイラーは伊勢の折った紙飛行機を基準として、様々な形の紙飛行機を自作してみた。
「やはりそうだね」
翼が広ければ滞空時間は増す。一方、安定板が広ければ安定性が増す。先端形状がとがっていれば、速度が出て直進性がよい。
レイラーの思ったとおりである。
「素晴らしいね…」
見れば見るほど素晴らしい。
一切の無駄が無く、それぞれの部分が、それぞれの機能を果たしているのである。そして、それらが自動的に組み合わさって宙を飛行するのだ。
研ぎ澄まされた美しさがある。端的な数式のようなものである。
「イセ君のいう所の"エレガント"、とはこういう事だね!」
これこそがエレガント、なのである。
この紙飛行機は数学で飛んでいるのだ。だから、美しいのである。
神の言語であり、この世の理を示す数学に則っている。だから、美しいのである。
この世の理とは神の理であり、神の理とはすなわち神の一部である。だから、美しいのである。
美しいから、飛ぶのだ。
レイラーはそのまましばらく陶然とした。脳内を駆け巡る圧倒的な情報を、処理しきれなくなったのだ。
10分ほどして我に帰ると、レイラーは良い事を思いついた。
「キルス!ちょっと来てくれないかね?!」
「はい、お嬢様」
執事のキルスはすぐに駆けつけてくれた。
彼はレイラーが生まれた時からモラディヤーン家にいる奴隷である。もはや奴隷なのか、使用人なのか、家族なのかもよくわからないが、本人は今のままで良いと言っている。
レイラーもベフナームも、そんな事はどうでもいいのだ。キルスが良いなら良いのである。
「キルス、小麦粉を熱湯に溶いて糊を作って来てくれないかね?それとハサミを頼むよ。あと膠も!」
「かしこまりました」
「ああ!それと軽くて、ごく薄い木の板と、曲げても折れない細い棒をたのむね!」
「ちょっと時間がかかりますが、お届けします」
「ありがとう!」
キルスは本当に有能だ。この家はキルスによって回っているのだ。ありがたい人物である。
だが、そんな事はやはりどうでもいい。
大切なのは思考と飛行機械である。
「人が乗るためには…少なくとも数十倍の大きさが必要だからね」
そう、人が乗るためには紙飛行機ではダメなのである。もっと巨大化する必要がある。巨大化するには強固な構造が必要である。
骨格が要るのだ。
頑丈にするには三角形の組み合わせが最適である。断面積を稼げば厚みの三乗で効いてくるが、重くなる。重量も規模の3乗で効いてくるが翼の面積は二乗。強度と規模と飛行性能のちょうど良い均衡を考えねばならぬ。試行錯誤と計算が必要だ。
レイラーはその他にも、人が乗るために必要な要素について考えだした。
骨格だけでは無い、飛びたいように飛べるよう、操れる必要がある。
「操る…鳥はどうやって飛んでいるんだろうね?」
庭に出てみた。
ふと見渡してみると、ショボくれたレモンの木にチチロッパがとまっていた。1フェトくらいの体長の白い鳥だ。
「あ…」
レイラーが近づくと、チチロッパは「ピュピッ」と鳴いて飛び立った。
「よく見えないじゃないかね…もう」
レイラーは口をとんがらせてぶうたれた。
仕方ないので屋敷の三階の屋根に魔法で登り、空を見渡す事にした。落ちないように足を踏みしめて仁王立ちする。
鳩がいた。小さな群れになってクルクルと大きく円を描くように回っている。
「ふむ…予想通りだね」
羽ばたいて推進力を得ると、翼を開いて滑空する。基本形はそれである。均衡は尾羽と翼の動きでとっているようだ。片方の翼を縮めると、そちらの方に滑るように旋回していく。
飛行機械の翼を上下にはためかせる…不可能ではないだろうが、エレガントでは無い。動力だってどこから得ればいいというのか…魔法をそこまで繊細に使う事は魔法師にも難しい。
「まあ、それは後の話!まずは空を滑る事からだね!」
レイラーは大きく頷いた。観察を終わり、集中を解いてふと下を見ると、沢山の人集まっていた。みな、彼女を見あげている。
「そこのあんた!早まるんじゃない!まだ若いんだ!未来はある!」
「あ…」
何やら大変な事になっていたらしい…
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どうぞよろしくです。




