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異世界ツーリング  作者: おにぎり
第八章~ケセラセラ
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二年と288日目

二年と288日目


 フィラーはすっかりお腹が大きくなってしまった。もうそろそろ、生まれるはずなのだ。

 もうあまり労働をする訳にはいかないので、適当な運動とあわせて、文字や算数の勉強をしている。ただし、習得速度はあまり速くない。集中力が今一つなのである。奴隷の時の習い性か、体を動かして働かずにはいられないようだ。


「相棒、赤ちゃんに必要なものって…何なんでしょう?哺乳瓶なんて無いですし」

「俺にはわからんよ明智君。マルヤムなら詳しいんじゃないか?」

 伊勢の記憶を持つアールが知らないのであれば、伊勢も知るわけがない。

 彼には子育て経験も無ければ、赤ん坊を抱いた経験もほとんどないのである。だって落とすのが怖いではないか。


「マルヤムさん、何を用意したらいいんでしょう?」

「あたしが知るわかないじゃないか。子供は出来なかったんだから」

 何という事であろう。マルヤムにもわからない事があったのである。このババアは万能では無かったのだ。今明かされる驚愕の真実である。


 結局、近所のおばさんに聞く事になった。

 そして、おしめ以外は大したものが要らない事が分かった。赤ちゃん用品などという、甘ったれた商品はこの世にないのである。

 赤ちゃん用の服は自作だし、おむつは単なる布。三歳までは前掛けにフリチンが正装である。

 ある意味、究極のシンプルライフといってよかろう。


 粉ミルクなどはもちろんない。基本的にこの世界の乳児は母乳だけである。

 母親の乳の出が悪ければ、近所の誰かに頼むか、山羊を使うか、乳母を雇う。

 乳母…

「相棒、乳母です!」

「アール、乳母だ!」

 久々に声がぴったりとあってしまった。

 フィラーの胸はアレである。臨月だというのに、かなりアレなのである。アレを決して口に出して言う事は出来ぬ。伊勢はそれを言ったがために、元妻から二週間もの間、無言の行を強いられた経験があるのだ。


 そんなことはどうでもよいのである。


「マルヤム!乳母を!」

「旦那。そんなもんいらないよ。斜向かいのサルファと裏のリルラーに話を付けてあるからねキシシ」

 このババアは…万能ではないかもしれないが、どこまでも優秀である。この汎用性で日給4ディル。素晴らしいコストパフォーマンスなのであった。


^^^

 考える事も無くなってしまったので、伊勢は庭に出てベンチに座り、漫然とタバコをふかす事にした。

 アールはツンの散歩である。あの駄犬が心より畏れ敬っているのは彼女だけなのだ。

 ファリドとビジャンは魔境に狩りに行っている。彼らの棘猪捕獲率は上昇の一途である。

 ロスタムはフィラーに居間で勉強を教えながら、自分の数学を勉強をしている。

 セシリーはその横で新作の脚本をかいている。次の一作で、たぶん彼女は奴隷身分から解放されるだろう。

 マルヤムは洗濯をしている。ババアは死ぬまでババアだ。


 平和だ。

 こういうのが、良いのだ。

 伊勢は、胸にタバコの煙を深く吸い込んだ。


 タバコを吸い終わると、作業場に行った

 回転式の整流器を眺める。試作品第2.5号だ。

 電気の用法など、この世界では限られたものだが、将来的に可能性が大きい事はすでに地球で実証されている。

 まずは、電気化学的な用法から。まあ、めっきからだろう。

 じっくりとやろう。

 硫酸の安定的な製法も確立しなければいけない。

 やる事は沢山あるのだ。


 伊勢は自室に戻った。

 スケッチブックに書いてあるメモを見ながら、色々と着想を練る。

 親父とファルサングに頼まれた、板ガラスの製法に関してはなかなか上手くいっていない。キャスティングからアプローチしてみたが、どうにもエレガントでは無いのだ。予備実験から、出来ない事は無いと思うのだが…

 成型後の研磨工程と、残留応力除去に長時間のアニーリングが必要になる。その為の設備と研磨剤と炉も用意する必要がある。ランニングコストもかかる。

「うーん…」

 開発費にもかなりの金をかけてしまったが、ここはもうひと押し…そうすれば銀鏡反応で…あーアンモニアがねぇな…アマルガムで…いやー水銀がなぁ…ニッケルの無電解めっきとかできないかな…できなくはねぇけどパラジウムがな…プラチナはもったいねぇし…そもそもニッケルがねぇわな…んー…


「師匠!」

「っ?!びっくりするじゃねぇか!なんだ?」

「フィラーが…なんか…洩らしました…」

 ん?…ああ…生まれるんだ…


「ロスタム、生まれるんだ。産婆とレイラー呼んでこい」

「生まれる?!!わかりましたっ!」


 ロスタムが全力疾走で走り去っていった。伊勢は居間に行く。生まれるんだ…

「フィラー、生まれるみたいだなあ。…痛いかい?」

「はい、旦那様。ちょっと前から痛かったんですけど…気のせいかと思ってて…今は時々痛いです…」

 フィラーは、痛みには慣れていたから、陣痛を我慢してしまったのだろう。

 彼女は落ちついている。大丈夫だ。動顛してはいない。

「わかった。今、ロスタムが産婆を呼びに走ったからな。セシリー、マルヤムを呼んでくれ。クッションと布、後…湯を沸かしておくんだ」

「はい、ミスターイセ」


 伊勢は、フィラーに手を貸しながら、ソファーに体を移動させた。

「ただいま。相棒、どうしたんですか?」

「ああ、アールお帰り。生まれるんだ」

 生まれるのだ…

「ああ…わかりました。フィラーさん。痛いですけど大丈夫ですからね」

「はい、アール様」


 そうこうしているうちに産婆が到着した。

「男は出て行きな!」

 産婆は本当にババアであった。マルヤムと互角かもしれぬ。

「アール、俺は作業場からエタノールと石灰水を持ってくるよ」

「はい、相棒。ちゃんと消毒はさせますヨ」

 伊勢に出来る事は、今はそれくらいである。


^^^

 やれる事も無くなってしまったので、伊勢は庭に出てベンチに座り、漫然とタバコをふかす事にした。

 ぼんやりと色々な事を考えているうちに、ロスタムがレイラーを連れて帰って来た。

「イセ君!生まれるらしいね!」

 自操車から勢いよく飛び降り、たたたっと走りよってくる。彼女のこんな姿を見るのは珍しい事だ。

「ああ、レイラー、頼むよ」

「任せておきたまえ!治癒術には自信があるのだよ!」

 レイラーはうんうんと大きく頷きながら、意気揚々と家に入って行った。実に頼もしい後姿である。

 

 ロスタムは落ちつきなく、玄関の周りをうろうろしていた。

 伊勢はベンチから立ち上がって、彼を呼んだ。

「ロスタム、来いよ。整流器をちょっと弄ろうじゃないか」

「でも師匠…」

「産婆にレイラーにアールがいるんだ。俺達は整流器を弄ろう」

「はい」

 こんな時に出来る事は、整流器をいじる事くらいである。発電機をいじるのでもいい。伊勢には、それ以外には思いつかない。


 整流器の部品は、すべてアールのチートと伊勢とロスタムが手作りで作っている。完全オリジナルだ。

 発電機と合わせて、ようやく多少はマトモな電力が得られそうな気配が出てきたところである。

「次はもっとお前も設計に参加しろよ」

「はい、師匠。やってみたかったんです」

「うん、そうだろうな」

 実際にロスタムが設計に参加しても、できる事は殆んどないだろう。伊勢の方が遥かに早く、的確だ。経験の差がある。

 だが、一番長くこの機械を触っているのもロスタムだ。コイツには物を作る工程を一から辿らせなければならない。そう伊勢は思っている。

 弟子なのだ。


^^^

 結構な時間が経ってしまった。もう夜である。こんなにも時間がかかるものなのであろうか。

「ロスタム、結線が間違ってる。こっちだよ」

「ああ、師匠、すいません…あ、それも違います。あっちですね…」

「あ?あー、そうだな。…ダメだ、もう二人ともつかれてるらしいな」

 集中力が続かなくなった。

「風呂だ」

 二人とも油まみれなので、風呂に入る事にした。


「師匠と風呂に入るのは久しぶりですね」

「そうか?ああ、半年ぶりくらいだな」

 伊勢は基本的に一人で、のんびりと長く風呂に入るのが好きなのである。

「お前、ずいぶんひょろ長くなったなぁ」

「師匠は会った時から変わりませんね。ガッチリとしていて。俺もそんな体が欲しいです」

 ロスタムは腕を曲げて力瘤らしき物を作っている。ほとんど無駄な努力である。


「無い物ねだりだな、はは」

「ははは、そうですね」

「俺も昔は細かったから、気持ちは分かるがな」

「じゃあ俺もそのうち師匠みたいになれますかね?」

「無理だな。はは」

「そうですよね。ははは」

 だが、遺伝子の限界チートボディの伊勢よりも、ロスタムの方が持久力は身につきそうだ。そういう体質なのだろう。

 ロスタムだってそんな事はわかっている。彼はこれでも自分の体を好いているのだ。

 みんな、さまざまなのである。



――コンコン


 風呂の扉が叩かれた。

「相棒、ロスタム君、生まれましたヨ。フィラーさんも赤ちゃんも無事です」

「そうか。うん、そうか。いま行くよ、ありがとうアール」

「師匠、油を落としておいてよかったですね」

「だな」

 爪の間を油で黒く汚したまま、赤ん坊にさわるわけにはいかないのだ。

 二人はゆっくりと服を身に付けると、居間に向かった。


「フィラー。大丈夫かい?」

 ロスタムが、フィラーに声をかけた。彼女は憔悴し、疲れ切っている。げっそりとやつれて、額に汗で前髪を張り付けていた。

「イセ君。もう大丈夫だね。結構出血したけど、もう止まったしね」

 手当はもう終わっている。レイラーと産婆が対処してくれたのだ。

「…ロスタムさん、赤ちゃん…赤ちゃん…」

 蚊の鳴くような声でフィラーが答えた。

 赤ん坊は布でまかれて、アールが胸に抱いている。赤ん坊はびっくりするほど小さい。伊勢の足と同じくらいの大きさに思える。

 その耳は、少し尖っていた。


 ロスタムが、赤ん坊をアールから受け取って、抱いた。おっかなびっくりで、そして真剣な表情だ。

 伊勢にはロスタムが何を思っているかは、わからない。本人にもわからないのかもしれない。だが、それで良いのだと思う。


「旦那様、名前をお願いします。…男の子です」

 この家に来て、始めてフィラーが自分から伊勢にした願いだった。

「オミード」

 伊勢は間髪いれずに答えた。


「相棒、良い名前ですね」

「なるほどね。イセ君、なかなか良い名前だね」

 アールとレイラーにはわかるのである。

「旦那、ありきたりの名前だね。でも悪くないね。クシシシシ」


 確かにありきたりだ。その辺りに沢山いる。

 しかし、悪くないのは当たり前だ。

 古語でオミードは希望を意味するのだから。



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