二年と262日目 幕間
二年と262日目 幕間
「えと…7×7が…49…49?」
「あってるよ」
ロスタムはフィラーに字と算数を教えている。師匠の指示ではあるが、師匠が言わなくても教えていただろう。文字も計算も出来ないというのは、非常に辛いものがある。二年半前まで文盲の少年だったロスタムには骨身にしみてわかっている。
この家には学問の無い人間は一人もいないのだ。ファリドさんですら、マルヤム婆さんに少し劣るくらいだ。
だから師匠は学問の無い人間の遣い方が全く分かっていない。もちろん、ロスタムにもわからない。この家で仕事をしていくためには、読み書きそろばんが必須なのである。
「7×8が…56。7×9が…63」
「フィラー、頭の中で、足し算してるだろ?九九は覚えるんだよ」
「えへへ、ばれました。すいませんロスタムさん」
「もう」
フィラーはあまり良い生徒では無い。集中力が無いからだ。頭は悪くないとは思うが、ロスタムとの決定的な違いはそこにある。
元々、二桁までの足し算と引き算が出来たので、算数を教えるのにはそれほど苦労はしていない。だが、彼女は集中力が無いからか、暗記が苦手なのだ。ゆえに九九と文字の習得には時間がかかっている。ちなみにロスタムは20×20までを覚えている。これだけは師匠より上だ。
「まあ、九九が出来たら、算数はとりあへず良い事にしよう」
「はい、えへへ。もう少しです」
これだ。この控え目なはにかみ笑いを見ると、急き立てる気も無くしてしまう。本当にずるい。
違うのはわかっているけど、どうしても、思い出してしまう。
「あっ!」
「どうしたっ?!」
「いま…蹴りました」
ロスタムは脱力した。お腹になにか異常が起きたのだと思ったら、これである。
「…ロスタムさん…触りますか?」
「えっ?」
「ロスタムさん…お願い…」
触ってしまった。
プーリー村で遊んでいた幼馴染や、妹のミナー以外の女のお腹を触るのは初めてだった。
温かかった。
フィラーの心臓の鼓動が、手の平に感じられる。
…あっ。
「動いた」
「動きました」
フィラーは下腹に手を当てて…神妙な顔をしている。
ロスタムは何とも言えない気分になった。
師匠から哺乳類の子供が出来る仕組みについては習ったが…これはもっと…なんというか…そう、生々しく剥き出しだ。
これには力がある。
これは生きている。
ロスタムの頭に、師匠の言葉が浮かんできた。
『お前はフィラーを救ったよ。お腹の子供も一緒にな。お前の、弟弟子だな』
このお腹に、集まっているんだ。
フィラーや、ロスタムや、師匠や、アールさんや、その他いろんな人の何かが、このお腹に集まっている。
ロスタムを通じて、プーリー村の丘に埋まっているミナーも、この中に集まっている。
これがこの世界の一番先端の部分だ。
誰が何と言おうと、認めざるを得ない。これは、絶対に良いモノだ。そうじゃ無きゃダメなんだ。
根拠なんて無いが、そうロスタムは思う。
この中に入っているモノは、神様じゃ無い。だけど、その一部だ。
レイラー先生が言っていた、この世界の全てが神様、というのはそういう意味だったんだ。
ここに集まっていて…いや、どこにでも集まっている。
師匠の言う、エネルギーと物質が等価というのも、そういう事だ。
エネルギーが相互に可変で、保存されているというのもそういう事だ。
顕在化しているかいないかの違いだけだ。
このお腹の中のモノは、いま顕在化しようとしている。
なんて凄いんだ!全部繋がっている!アールさんが言っていた真の意味はこれだ!
ロスタムは、二年半前から神様に祈った事は無い。そんな事は無駄だと知っていたから。
だけど、それは間違っていた。
祈りの意味を間違っていた。
祈るというのは、何かを願うのではなくて、もっと違うものだ。
祈りというのは、受け入れて、そこに自分の何かを載せていく事だ。
そして前に進む。
深く深く、そんな事を考えて、ロスタムは思索の世界から帰って来た。
目の前には、心配そうな顔をしてロスタムを見るフィラーがいる。
「フィラー、良かったなぁ」
「はい」
その言葉に、フィラーは心から安心したような、ため息を漏らした。
彼女の中にあった重いものが、消えて無くなったのだろうとロスタムは思う。
こんな言葉だけで、受け入れられたんだ。
たぶん、神の祝福というのは、こういう事を言うんだろう。
「じゃあ、フィラー。次は文字を書く練習な?」
「はい!」
ロスタムとフィラーはまた、二人で勉強を始めた。




