ささやかな日常
この世界の主権者は、人類ではない。
いや、正確に言えば、人類ではなくなった。
俺たち人間は、少年Fの怨讐が具現化した存在である『Fコード』、その器である世界最高峰の量子コンピュータ『クラージェ』によって支配されている。
『モールド』という受信機を得てしまった今、世界中の人間が『Fコード』から力を授かる代償として、感情を削られている。
こうして息を吸って、普通の暮らしを送っている今この瞬間も、絶え間なくFコードは俺たちから感情を奪い去っているのだ。
47年。
それが、俺たち人類に残された、消滅までのタイムリミット。
そんな中、Fコードから人類を救うべく、残された時間を駆使して戦うべく、国家の枠を超えて結束し、水面下にて決起した組織がある。
それが、International Code Direction&Delete Association、通称ICDA。
祈るのではなく、戦う。
奇跡を渇望するのではなく、奇跡を導くことを信条とする組織だ。
ICDA設立から8年。
ICDAとFコードの戦況は、完全な膠着状態にある。
そんな中。
世界の真実に触れすらしなかった俺は、ひょんなことから一人の少女によって、この戦いに身を浸すことになった。
そして、知った。この世界の真実を。世界の裏側を。
ある日唐突に世界観が反転してしまった時、果たして人はどういった反応をとるのだろうか。
困惑。戸惑い。狼狽。
いや、それ以上に明確な反応かもしれない。
激高。悲観。憤激。歓喜。
性は皆が異なる故に、とる反応も人それぞれだろう。それは決して単一なものにはならない。
そして俺は、こういったあからさまな反応をとることは無かった。
納得しないまでも、反転してしまった世界を理解することはできたからだ。
だからこそ、反転してしまった『世界』を意識しつつ、こうしてこれまで通りの『世界』に身を置いているフリをすることができる。
天気は快晴、気温は上々――――と春を満喫できるお昼過ぎ。
俺、支倉恭司は今、学校にて午後の授業を受けている。
「きりーつ、れい」
やる気の感じられない号令。その後、生徒はバラバラと席に座る。
教師は授業のスライドをエアスクリーンに投影し始め、生徒は端末にてノートアプリケーションを展開する。エアかディスプレイかは好みによってマチマチだ。
ふっと、外を見てみる。校庭を前に、学校を取り巻くようにして張られた『関係者以外立ち入り禁止』のエアラベルの外側では、フロートエンジンによる飛行船が飛び交っている。昼下がりだろうか、各ルートの交通量はそこまで多くはない。
視線を落とす。この時間は体育は無かったのか、生徒の代わりに自動整備ロボットが走り回っていた。複数体制で作業に臨み、グラウンドを整えたり、花壇に水撒きしたり、ゴミを回収したりしている。
視線を廊下に移せば、同じようにお掃除ロボットが窓拭きをしている。
視線を手前に戻す。そして項垂れる。
この様子を見て、自覚なしにため息を漏らした俺は、ボソリと呟くのだった。
「……やっぱ、違う」
別に教師や生徒がおかしな行動しているワケではない。景色が異様なワケでもない。いつもの授業開始の光景、当たり前のように続いてきた日常だ。
しかし、変わりなくとも、変わり映えはする。
お馴染みとなったこの授業開始の様子も、世界の裏側、真実を知ってしまった今となっては、何処か異国の習慣のように感じてしまう。
こうして授業を受けている彼らは、この世界の真実を知らない。
そう、彼らは異国の人なのだ。
彼らの行動も異国のもの。彼らの思考も異国のもの。
これまで俺が過ごしていた世界は、一瞬にして何処か知らない、遠い場所に変わってしまったのだ。
「ていうか、あんな状態で学校なんかに来てよかったのかよ……」
静かな教室、教師の説明だけが響く中、ふたたび俺はボソリとつぶやく。
俺がICDAに入って早々、あれほど大きな事件が起こったというのだ、普通は学校に来られるだけの理由はないだろうに。
ICDA設立以来、初めての侵入者。それによって被った、あまりに甚大な被害。
2週間学校を休学し、ICDAの一員(下っ端だが)として復興作業を色々と手伝って実感したが、ICDA日本の復興は当分のあいだ成就をみそうにない。それほどまでの惨状だったのだ。
機材や設備の損傷くらいなら可愛いものだ。
ICDA日本は実に1000名以上の死傷者をだし、その上で本部ビルは完全に壊滅した。
全人員2000名中の過半数が死傷し、その上で本部が滅茶苦茶にされたのだ。
それはつまり、実質としてICDA日本の半壊を意味する。
そんな惨状を、たった2週間で改善しろと言う方が無理がある。
当然ながら、別段手傷を負っておらず、未だ下っ端クラスの俺は復興作業に駆り出された。
別に嫌ではなかった。むしろ組織の一員としての責務を薄々と感じ始めていた俺は、惨状を目の当たりにして動かないワケにはいかなった。
機材の搬送、撤収。傷を負った者の処置手伝い。すべきことはたくさんあって、俺は休みなく動き回った。
そして猫の手も借りたい日々が続く中、復興作業に身を粉にし、精神を大分すり減らした状態の俺に。
俺をこの世界の裏側へと連れて行った張本人、黒髪ポニーテールが特徴の少女は、やたら綺麗に着こなした制服を纏って、無駄な上目遣いで、満面の笑顔で、こう言ってきたのだ。
「学校に行きましょう。久々だから私も楽しみ」
最初この言葉を聞いた瞬間、頭の上にでっっっっっかい『?』を浮かべた俺だったが、その次について出てきた言葉によって『?』が『??』に増えた。
「いい、支倉恭司? 今日はアナタにとっての久々の学校だけれど、これまでの日常のありがたみ、幸せを噛み締めてきてね」
その言葉に対して何も返答できず、何となく頷き返してしまった俺だったが、こうして懐かしの日常に半日以上身を置いた今なら、声高らかに叫ぶことができる。
無理だろ! と。
心身ともに疲弊を極め、壊滅状態の本部の復興作業が気にかかり、世界の真実を知ってしまったおかげで学校が異国に見える始末。
そんな精神状態で、どうやって授業を受ける喜びを噛み締めろというのだ。
「いやいや無理無理……絶対これ学校に来るの間違ってたよな……」
これなら本部に戻って作業を手伝っていた方が、絶対に世のため人のためになる。冗談抜きで。
しかし、来てしまったものは仕方がない。放課後の復興作業に精を出すためにも、今すべきことは決まっている。
寝よう!
そう心の中で高らかに宣言した俺は、机に全力で突っ伏した。
というか、この宣言は今日一日で初めてではない。そりゃ宮谷の言葉が脳裏にこびりついていたおかげで、一限目は眠たい目を擦って授業への集中を試みたが、2限目からは起きている必要性を感じなくなったため浅い微睡に落ちた。
「ああ……」
春の日差しが心地よい。窓から入り込んでくる風は季節特有の優しさを纏い、通り過ぎる度にふんわりとした花の香りが鼻を擽る。
そんな午後の陽だまりの中で、徐々に教師の声が遠ざかっていく。
結構気持ちいいものだ。こうして午後のひと時を、ゆっくり教室の角で過ごすのは。
微睡に入りかけの俺は、宮谷の言葉をゆっくり思い浮かべるのだった。
『これまでの日常のありがたみ、幸せを噛み締めてきてね』
「……」
これが、今この状態が、宮谷の言いたいことだったのだろうか。
ならば、それも悪くないと思った。こうしてゆっくりとした空間に身を置いているだけで、激動の2週間で溜りに溜まった疲れも癒されるというものだ。
沈む。沈む。
心地よさを全身に受け止めた状態で、意識が真っ暗に染まる。
さあ、安らかな眠りに……
「すいませーーーんッッ!」
……つけなかった。
耳に触る甲高い声と共に、シャイーン! と教室のオートスライドドアが開け放たれる。
「ッ!? なんだなんだ!?」
俺は飛び起きた。ついでに教師や他の生徒もビックリ仰天。
オートドアの隙間から顔をひょっこり出したのは。
「宮谷っ!?」
ガタッ、と俺はその場に立ち上がってしまった。
突然のことに硬直状態の俺を視界に入れるや否や、宮谷はビシッと俺を指さしてきた。
「あっ、いました支倉センパイ!」
「えっ、……支倉くん知り合い?」
周囲の興味の視線が痛い。
「あっ、いやこれは……」
一気に教室がざわめきだす。皆が不思議そうな顔をして、俺と宮谷を交互に見てくる。
何故宮谷がここに。彼女は俺の1つ年下だから、この上の階で授業を受けているハズなのに。
ゲホ、ゲホ、と宮谷が咽る。その場で何度か深呼吸をしてから、ヨタヨタと教室に入り込んできた。
「な、なんなんですか君は!?」
教師がフラフラの宮谷に対してビックリオロオロ。
「すいません……ちょっと支倉センパイに用があってですね、授業邪魔しちゃってごめんなさい……」
「いや、そうじゃなくて君……」
やけにフラフラな宮谷。
「あっ」
そうだった。宮谷は学校では適合率21%の落ちこぼれ、病弱で華奢な体つきのお嬢様キャラだったのだ。「だってその方が『具合が悪い』の一言で学校休めるじゃない」と悪魔の笑顔で話してきた宮谷を思い出す。
「というワケで、支倉センパイお借りしてきますね」
天使の笑顔を浮かべた宮谷(猫被りモード)は教師に会釈し、他生徒の奇異の視線をヒラリとかわして歩いてくる。
俺の方に、まっすぐ。
「えっ、えっ……?」
動揺する俺の傍に近寄り、宮谷は手を引っ張ってきた。
「さっ、行きますよ支倉センパイ」
「えっ、何言ってるんだよ。ちょっと待て宮谷……」
ゴキッ。
握られた手から、普通は聞こえないような音が。
表情こそは眩しい笑顔、傍から見れば確実に優しそうな後輩に見えることだろう。
だがしかし、俺だけが知っている。この宮谷というヤツは、そんなタマじゃないと。
だって、俺の右手が壊死しかけてるんだから。
嫌でもわかる。俺に拒否権は無いということの明示だ。
冷や汗ダラダラの状態で、俺は黙って頷くしかなかった。
そして俺は、未だに状況を把握しきれていない生徒と教師をしり目に、教室を出る羽目になった。
「逢引き」だの「彼女」だの不穏なセリフが聞こえてくる教室を、複雑な心持ちで名残惜しむ俺。
そんな未練がましい俺とは対照的に、すっとキャラを変える宮谷。
「うん、誰も見てないわね」
フラフラ状態から一変、忍者のような素早い動きで周囲を確認し、教室から誰も来ないのを確認した宮谷は、壊死しかけの俺の右手を手放した。
「えっ」
ほっとするのも束の間、ガシッと頼もしい効果音と共に右腕が掴まれる。
「え、いやあのっ、宮谷さん? 宮谷さぁん!?」
「いいからこっち来て」
ズカズカッ、と実に機械的な動きで、俺は廊下の窓辺に連れて行かれた。
そして次の瞬間、宮谷に制服の襟を掴まれた俺は、宙に浮く。
嫌な予感がした。
「いや、宮谷さん、ちょっと待って下さいよ? 何でいきなり授業中に現れたのかも謎だし、どうしてこんな所に連れてこられたのかも何処に連れて行かれるのかも謎だしだからってこんないきなりギャアアアアアアアアアアアアアアアッッ―――――!!??」
宮谷は俺を掴んだまま、窓から飛び降りた。
宙に晒された瞬間、風が吹き上げてくる。ゴッ、と空気の塊に押されてバランスが取れなくなり、次第に天地がつかめなくなる。
「何でだぁああ!? ここ3階だよぉおおおーー!?」
特有の浮遊感に包まれて、俺は空中で錐揉みしながら叫ぶ。
「ええ!? 何、よく聞こえないけど!?」
一緒に落下する宮谷に、俺の声は届かないらしい。
死。
絶対的な一文字が脳裏をかすめる。確かに適合率87%の宮谷なら頭から落ちても何ともないだろうが、適合率0%の俺なんかは即死は免れない。
「ぎゃあああああ……」
そのまま落下すること数秒、不意に浮遊感が消失する。
「……えっ」
気づけば、俺は空中で静止していた。
ようやく空間把握能力が利いてくる。俺は今地面から1メートルほど上で、地面に向き合ってプカプカ浮かんでいた。
「助かったぁ……」
訳が分からない。が、命が救われたことは理解できた。
ふと視線を横に泳がすと、宮谷が笑顔でコチラを見ていた。
「アナタが適合率0%であることを、私が忘れたと思った?」
「ああ、一瞬本気でそう思ったよ。死ぬかと思った」
ようやく理解した。どうして俺が空中に浮かんでいるのか。宮谷が『重力操作』の能力を使っているのだ。
体をひねる。地面に降りようと足を延ばすが、どうにも届かない。
「ま、まあどうして授業中にいきなり押しかけてきたのか、そんで何で窓から飛び降りたのかとか、色々聞きたいことはあるけどさ。取りあえず降ろしてくれ」
ニコニコ。
宮谷は笑顔を浮かべて、俺を見たままだ。
「いや、話聞いてんのかよ! 降ろせって! ていうかよくモールド使ったな!?」
能力使用にはそれ相応の感情を消費する。別に学校を出ることが目的だったのなら、階段を使えば何の問題も無かったはずなのに。感情を消費するハメになると分かっていて、わざわざ窓からの飛び降りを選んだ宮谷の気がしれない。
宮谷は俺に近づく。ようやく降ろして貰えるのかと安堵していたが。
「お、おい!?」
俺が空中でマトモに身動きできないのをいいことに、宮谷は俺の体に触り始めた。
制服のメインポケット、インナーポケット。肩からつま先まで隈なく。
その手つきはまるで、俺が何かを隠していないか確かめるように。
困惑すること数秒、ようやく俺から距離をとった宮谷は、笑顔で聞いてきた。
「よかった、アナタは今、『橙』のモールドを持ってないわね」
「持ってるわけねぇよ! ……ていうかアレまだ貰ったことないだろ」
うんうん、と宮谷は数回頷く。
「久々の学校は楽しめた?」
「いや、全然」
「私が朝言ったこと、憶えてる? 日常の幸せは噛みしめられた?」
「いや、もう全然」
「何で私が窓から飛び降りたか、分かる?」
「いや、分からねぇよ! ていうか質問したいのはこっちなのに! 何で俺が質問攻めされてるんだよ!」
俺の言葉を華麗にスルーし、笑顔を保った宮谷は言う。
「窓から飛び降りた理由……それは、私が能力を使うため」
そして一瞬にして真顔になり、俺に告げた。
「アナタを、確実に拘束するため」
「……は?」
今起きていている事態、宮谷の言動挙動……その全てが理解できないまま、俺は無感情な宮谷の言葉を聞かされることになった。
「確保して」
その一言を引き金に、何処からともなく黒服の男が現れた。
2、4、6……それでは収まらない。両手の指の数以上はいるであろう黒服が現れた矢先に、一斉に俺に殺到してくる。
そして空中で抵抗できない俺は、ワケも分からないまま黒服たちに確保されることになった。
その黒服たちに指示を飛ばす宮谷の、複雑そうな表情が印象に残る。




