オニ
今回は、グロ耐性の無い方は読まれない方がいいと思います。
ハナズンと別れてから暫くして、ラジオおばさんの家に到着した。目前に建つ木造の小屋は、夜に見た時と比べて大分印象が違く、日光を浴びて細部のボロさが目立っていた。もう建てられてから随分と経つのか、所々に木の板で補強が施されており、あまり家としては頼もしい部類に入るとは思えなかった。
「改めて見てみると……俺達の小屋と大差ないなぁ。こんな所で、ラジオおばさんは暮らしてるんだなぁ……」
などと失礼な事を呟いてから、さっさと報告を済ませるという本来の目的を思い出した俺は、今にも外れそうな木製のドアをゆっくりと開き、中に顔を覗かせる。
「こんにちはー、ラジオおばさーん」
「あらあら、ぼーやじゃないけぇ……。おかえりねぇ……」
中ではラジオおばさんが揺り椅子に座り、ボンヤリと視線を泳がせていた。しかし俺の声に気づくと、こちらに振り向き、優しい笑顔を見せてくる。
「お仕事はどうだったかぇ……? 重かったろう、ちゃーんと運べたかい?」
「うん、大丈夫だった! 色々あったけど、ちゃんと取引先まで運べたよ!」
「そうかぇ、そうかぇ……!」
カッカッカッ、とラジオおばさんは陽気に笑うと、重たそうな腰をゆっくり上げて、揺り椅子から立ち上がる。そして猫背のまま引きずるようにテーブルまで歩き、その引き出しを開けると、中からサイフを取り出した。
「じゃあ、ご褒美をあげようかねぇ……」
「あ、それなんだけど……」
サイフの中から小銭を取り出しているラジオおばさんを制して、俺は小屋から出た。当然、表に置いてある例の物を見せるためだ。
外に置いてあった戦利品を抱えた俺は、再び小屋に入ると、ラジオおばさんに自信満々に示した。
「これは……?」
「ラジオだよ!」
ラジオおばさんは驚きの表情で、俺の顔とラジオを交互に見る。
「そ、それはどうしたんだい……?」
「取引先のドリー・マッドのオーナーが、ラジオを買えるだけの報酬をくれたんだ。それからパンもくれて……」
そこで、俺は言葉に詰まった。果たしてラジオおばさんには、出鼻オーナーが「戻るな」と言っていた事を伝えるべきなのだろうか。それとも黙っているべきなのだろうか。
ラジオおばさんにしてみれば、出鼻オーナーはかつての夫で、両者の間に何かがあったからこそ二人は別れてしまったハズだ。既に名前を挙げてしまった以上手遅れかもしれないが、それでも出鼻オーナーの言葉を伝えるような、二人の関係に立ち入る行為には、子供の俺でも抵抗を覚えた。
俺が口籠もっていると、僅かに淋しそうな表情を作ったラジオおばさんが、ゆっくりと喋り出す。
「そうかぇ、あの人が……」
「あ、あの、ごめん……ラジオおばさん」
「何でぼーやが謝るんだい?」
「い、いや、だって……」
ラジオおばさんを悲しませちゃったから、と俺が言う前に、ラジオおばさんは机の引き出しからある物を取り出し、俺に示してきた。
「それは……写真?」
「そうだよ……」
ラジオおばさんが手にとっているのは、一枚のモノクロ写真だった。端々が破れ、全体的に黄ばんでいることから、随分昔の写真と推測できる。
ラジオおばさんが手招きをしているので、俺は素直に従って、近くへと駆け寄った。覗き込むようにして、写真を見る。
「あ! これ、ひょっとしてラジオおばさんと……出鼻オーナー?」
「あの人と、私が出会って間もない頃の写真だねぇ……」
写真に写っているのは一人の青年と、まだ少女の面影を残した一人の女性。
青年の方はすぐに出鼻オーナーと分かる。あのトマトみたいなデッカイ鼻をぶら下げた人間は、世界中探してもそうそういないだろう。
そして隣りに座る女性は、今俺の傍にいるラジオおばさんの昔の姿。その笑顔は、笑った時のラジオおばさんにそっくりだから、こちらもすぐに分かった。
しかし、俺が気になったのはそこではない。肩を並べる二人の格好と、その背後に建つ建物だ。
まず、出鼻オーナーは白衣を着ている。そしてその隣りに立つラジオおばさんはナース服。
そんな二人の背後にそびえ立つ建物を、俺は知っていた。いや、つい先ほど見たばっかりなのだ。
「この後ろの建物って……今は廃墟になった病院? 俺が今日、リアカーを運んでいった?」
「そうだよ……」
写真に視線を落としたまま、ラジオおばさんはゆっくりと続ける。
「私とあの人は昔、あの廃墟になった病院で働いていたんだ……。彼と私は、それぞれ研修医と看護婦。病院が潰れて、二人ともすぐに辞めちゃったんだけどねぇ……」
「でも、結婚はしたんだよね?」
俺の言葉に、ラジオおばさんは頷く。
「それでも、すぐに別れちゃったけどねぇ……。彼はパン屋を開いて、私は輸送仲介人。お互いの価値観がズレてれば、そりゃいつかは別々の道を進みたくなる」
「カチカ……ン?」
「ぼーやには、ちょっと難しい話だったかもねぇ……」
カッカッカッ、とラジオおばさんはおなじみの笑い声を上げる。
「まぁ、要するに、お互いの気持ちがすれ違っていたってことさ……」
「気持ちが、すれ違う? ラジオおばさんと、出鼻オーナーの気持ちが?」
「そうだよ。ぼーやだって、あるだろう。あのマサキって子とは、どうなんだい?」
「な、何を言ってるんだよ、ラジオおばさん! マサキと俺は、いつだって同じ気持ちだよ! どんな時だって、お互いの気持ちを履き違えるワケないじゃないか!」
マサキと俺の考えがズレているはずがない。もしズレが生じているなら、コンビを組んですぐに別れる事態になっているはずだ。
しかし、今回のラジオの件では、マサキの様子が少々おかしかった。いつもだったら、俺の言うことを大人しく聞いて、じっとしているのに。今回に限っては、何故だか必死に俺の手伝いをしようとしてきた。
ダメなのだ。マサキは守られる存在でなければ。か弱い女の子でなくては。
リーダーの俺が、彼女を守ってやらなければ。
俺がマサキを守り、マサキが俺に守られる。
きっとそれは、マサキ自身だって理解し、納得しているはず。いや、むしろ積極的に望んでいるはず。
望んでいる……はずなのだが。
どうしてだろう。やっぱり今回のマサキを見ていると、どうしようもなく違和感を感じる。ラジオ購入の手伝いを率先して申し出てきた彼女は、果たして本当にその『守られる』立場を望んでいるのだろうか。いや、今回の事例だけで考慮すると、むしろ『対等』の立場を望んでいるようにすら思える。
では、もし。
もしも、だ。
マサキが『守られる』立場を望んでいるというのが、俺の身勝手な考えだったとして。
彼女が、必死に背伸びをして、俺と対等に並ぼうとしているとしたら。
その理由は、『対等』の立場を望む原動力は、何処から来ている?
俺に愛想を尽かして、さっさと独立したいから?
いや、それとも。
もしかして、本当にもしかして。
俺に……?
「……!?」
そこまで考えて、俺は自分を恥じた。
なんて都合のいい解釈だろうか。マサキはきっと、単純に俺をリーダーとして見ている。そんな気持ちが介在しているはずがないだろうに。
それなのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのか。
きっと、俺は期待しているのだろう。無力な孤児が、ラジオを買うという本来あり得ない事態を引き起こしたのだ。
不可能にも思えていた妄想が、現実へと変わってしまったら。
一度あることは、二度ある。そう言われているように、こうした奇跡がもう一度起きないかと期待してしまうのは、仕方のないことだろう。
「そういうことだよ。私は獣で、彼は獣医だった」
「え……? どういうこと?」
ラジオおばさんの言動が理解できない。ラジオおばさんが獣? 写真に浮かび上がる彼女のナース姿が、その例えとあまりにかけ離れていて、俺はうまく理解することができなかった。
しかし、ラジオおばさんは当初から俺に理解して貰う気は無かったようで、早々に話題を切り替える。
「まぁ、何にしてもお疲れねぇ……。今日はこの後、どうするんだい? あの、マサキって子に、ラジオをプレゼントしに行くのかい?」
「あっ、それなんだけど……」
ラジオおばさんには言うべきだ。俺たちがこれから、ニホンという国に向かうということを。これまでよくしてもらってきたラジオおばさんに何も伝えずに去るという考えは、俺の頭の中にはこれっぽっちだって無かった。
「ラジオおばさん。俺、ニホン行くんだ」
「ニホ……ン?」
ラジオおばさんが目を大きく見開く。
「ニホンって……あの日本かい?」
「うん。その国から保護施設の人が来てて、俺たち孤児を引き取ってくれるんだ」
「そ、そうかぇ……」
ラジオおばさんの様子がおかしくなる。いや、おかしいというよりも、明らかに動揺してした。視線を宙に泳がせて、苦笑いを浮かべている。
「そ、それで、ぼーやはその施設に行くのかい?」
「うん。俺だけじゃないよ。たくさんの子が、そのプログラムに参加する。ほとんどこのスラムの全員じゃないかな?」
「な、なんだい? ぼーやは、日本に行きたいのかい?」
「え? う、うん。まぁ……」
「あんな国行ったって、いいことないよ? こっちの生活の方が楽しいよ?」
「ラ、ラジオおばさん……?」
「ほ、ほら。私だって、毎週ラジオを持って会いに行ってるだろう……? そ、そうだよ、皆このスラムに残った方が、絶対幸せになるけぇ……!」
完全に言動がおかしくなっていた。俺を食い入るように見て、慌ただしく言葉をまくし立てる。
俺は、突然豹変したラジオおばさんに、そこはかとない恐怖を感じ始めていた。
「ラ、ラジオおばさん……! 落ち着いて……!」
「お、落ち着くのは、ぼーやだよ……? そんなに早まった考えをしちゃいけないよ……?」
「……ヒッ!」
ガシッ、と。
ラジオおばさんの病的なまでに細い腕がヌゥッと伸びてくる。荒々しく、俺の両肩を掴んできた。
「……いっつ!」
物凄い力だ。いったいこの細い腕の何処から、これほどまでの力が出てくるのか。
魔女のようなギョロリとした目で俺を睨みながら、ラジオおばさんは俺を揺すってくる。掴んだ両手は、まるで俺を逃がさんとするかのように、俺の肩に食い込んでいた。
「ラ、ラジオおばさん! 痛いよ! 離してよ!」
「そ、そうじゃけぇ! 君たちは、私がいなくちゃダメなんだよ……!? 私がいなくちゃダメなんだよ……!? 私がいなくちゃダメなんだよ……!?」
気が狂ったかのように、ブツブツと同じ言葉を漏らすラジオおばさん。もはや視線は一点に固定されず、不規則にぶれている。
いつもの優しい彼女の面影は、これっぽっちも残っていなかった。目の前にいる彼女が、俺には錯綜した精神異常者に思えてしまう。
その相手をしている俺が、彼女にとって縋る相手である『獲物』か何かに思われているように感じて。
恐怖に駆られた俺は、とっさに彼女の腕を全力で振り払ってしまった。
その勢いで、俺のポンチョに入っていた懐中時計が転がり落ちてしまう。
「……あっ!」
懐中時計は数回だけ地面を跳ねる。そして、ゆっくりと――――例の部屋へと転がっていった。
そう、例の部屋。昨夜俺が入ろうとしたら、ラジオおばさんの様子が豹変した、謎の部屋。昼間でも暗闇を保つその部屋に、懐中時計が転がっていった。
カンッ、カンッ、カンッ、と規則的な音が発せられる。どうやらこの真っ暗な部屋は階段になっているようで、そこを懐中時計が転がり落ちたのだろう。
「ご、ごめん! ラジオおばさん……!」
俺は逃げるようにして、ラジオおばさんを振り切った。そして、その真っ暗の部屋に飛び込む。
その際に後ろを振り向くと、ラジオおばさんは――――全くの無表情だった。ただ、茫然とした様子で、ギョロリとした大きな目で、俺を凝視していた。
背中を駆け巡った悪寒を必死に意識下から押しどけ、俺は真っ暗な中、階段を駆け下りた。そしてたった数歩で、俺は小さな部屋に到達する。
「こ、ここは……?」
おそらくは地下であろうこの部屋には、太陽の日差しは届かない。昼間だというのに、完全な暗闇を維持した部屋には、独特の世界が広がっていた。
まず第一に、寒い。外では太陽が真上にあるというのに、これまでに経験したことがないくらいに寒い部屋だった。
そして何より。
この何とも言えない――――におい。
この真っ暗な部屋は、形容し難いニオイに満ちていた。鉄の錆びたようなツンとしたニオイの中に、何か、何か生臭い――。
俺がその正体を掴めないでいると、ふと背後から足音が聞こえる。
コツ、コツ、とゆっくりとした音が響く。階段を降りてくる人物は、当然ながら一人しかおらず、しかし俺はどうしようもない恐れを感じていた。
まるで、この部屋へと迫ってくる人物が、俺の知らない誰かのように。
果たして現れたのは、当然ながらラジオおばさんだ。
「ラ、ラジオおばさん……」
彼女の右手に持たれたランタン、その微かな明かりが、闇をかき消した。
ぼんやりと浮かび上がるラジオおばさんの顔――――全くの無表情の顔から視線を逸らし、俺は正面を見据える。
果たして視界に飛び込んできたのは、壁一面に吊るされた無数の物。
「な、何? これ……」
筒のような細長い物体。肌色をしたそれらは、所々黒ずんでいる。
その物体を確認するために、俺は壁に歩み寄った。
そして、ちょうど1メートル前後まで近づいたところで、暗闇に浮かび上がる『それら』の正体を知った。
「――ッッ!! ッッ……!!?」
壁に吊るされていたのは。
――――人間の、四肢。
気が遠くなる数の腕と脚が、薄暗い部屋に所狭しと飾ってあった。
俺は今、何を見ているのだろう。
人間の……腕だ。脚だ。そう、一人の人間に、1組ずつ繋がっている。
そんな代物が、どうして壁に吊るされている?
いや、それ以前に、これは果たして人の手足なのだろうか? 形だけがそうであって、本当は違う物体なのではないだろうか。
先ほど見た黒色の斑点は、こべりつた血だ。
生臭いにおい――――人間の体の内側のにおいが、俺を取り巻いた。
「――――――うっ……」
喉の奥から、何かが競りあがってくる。目前の光景に触発されたかのようにして、突如めまいが襲う。
まるで考えることを拒絶するかのように、俺の体はいとも容易く崩れ落ちた。
「お……、おえ、おぇ……おええええぇえぇえぇッッ……!! おえええぇぇぇええええッッ……!!」
吐いた。体中の臓器をまるごとぶちまけるかのように、無我夢中で吐いた。
まるで夢を見ているようだった。
金槌で殴られたかのように、頭がズキズキとする。
思考があやふやだ。
何もかもが分からなくなった。ただ、目前の現実を体が否定することに精一杯で、現状を考察するだけの余裕なんて有るはずが無かった。
極度の酸欠に陥る。心臓が荒れ狂ったかのように鼓動を刻み、その度に脳が鈍くなっていく。
マトモに動けず、ただ必死に酸素を取り込もうと咽かえる中、ラジオおばさんの声が耳を打った。
「綺麗だろう……? ぼーや」
床に跪く俺の脇を、ラジオおばさんがゆっくりと通り過ぎていく。
その際に、ランタンの明かりによって浮かび上がった彼女の表情は、幸悦としたものだった。
「これはみーんな、私のコレクションなんだよぅ……? 大切な、私のたいせーーーーーつな、宝物さーー……!」
「ラ、ラジオ、おばさん……これ、これ……どうして……」
もう訳が分からなかった。分かりたくもなかった。どうしてラジオおばさんが、人間の手足なんて物を集めているのか。いや、それ以前に目の前の女は一体誰なのか。本当に、あの優しかったラジオおばさんなのか。偽物なのではないか。
ただ、想像を絶した光景に飲み込まれて、俺は何も出来ずに震えていた。
近くにぶら下がった一本の腕を乱暴に掴んだラジオおばさんは、それこそ赤ん坊を愛でるかのように、恍惚とした表情で頬擦りする。
「あ――、いいねぇ、落ち着くよ……。私の、私の可愛い赤ちゃんたち……」
しばらく一本の腕を愛で続けたラジオおばさんの表情が。
一瞬にして、豹変した。
花すら愛しむ女性の表情から、獰猛な獣の表情へと。
「ふっ、ふううっっふふふ!! うふふふふふふふッッ!! フフフッッ!!」
奇声を上げながら、その腕を貪りだす。
――――そう、食べているのだ。
俺の目の前では、獣のように狂ったラジオおばさんが、人間の腕を貪り食っている。
俺はその様子を、茫然と眺めているしかなかった。
それからどれくらいの時間が経ったのかは分からないが、ラジオおばさんは人間の腕を食べ続けていた。
何度も肉を食いちぎり、そして最後は骨にまで到達した所で、ラジオおばさんは顔を勢いよく上げた。
「――はっ! いけないいけない……! 私としたことが、大切な宝物をまた……」
涙をポロポロと流し、口一帯を血で真っ赤に染めたラジオおばさんは、その場に崩れ落ちた。両手に支えられていた食べかけの腕が、ベチョリと床に落ちる。
「うわああああ、あたしの、あたしの可愛いあかちゃんんんんんん……ッッおえ、おえッ!!! あ、あははははははっっ!!!」
ラジオおばさんは髪を掻き毟り、悪魔に憑り付かれたかのように狂い回る。口から血塗れの肉片を吐き出しながら、野獣の如く笑散らかす。
そんなラジオおばさんの近くには、ほとんど骨だけとなった人間の腕。
「あっ、あっ……」
その喰いかけの腕を見てようやく、本当にようやく、俺に当然の思考が働いた。
――――逃げなきゃ。
――――俺も、食われる。
マズイ。マズイ。マズイ。
彼女は、ラジオおばさんは、人を食う鬼だった。人の手足を集めて、それを貪り食う獣だった。
――――逃げないと、早く逃げないと……!
荒れ狂っている鬼は、俺の存在に気が付いていない。
今が、逃げる絶好のチャンスなのだ。そのことを俺は理解していた。それしか理解できなかった。
体の向きを変える。
光が差す表の世界へ、そこへ続く階段を見据えて。
駈け出すために立ち上がろうとして、俺は気づいた。
――――体が、マトモに動いてくれない。
恐怖という縄が全身を締め付けているかのように、俺の両足は震えていて、一向に動かない。
「どうして……動いて、早く動いて……!」
頭では分かっている。今すぐ逃げなければ殺されるということを。
それでも分離してしまったかのように、体は頭の言うことを聞かなかった。
「あっ! あっ! あああああぁぁあッッ……!!」
焦りが生まれた。恐れが体を束縛し、言うことを聞かない体から焦りが生まれる。その焦りが、さらに体を束縛する。
「逃げないと……逃げないと……!」
歯がガチガチと鳴る。恐怖で涙が流れ落ち、視界がぼやける。
俺は体を引きずる。1メートルでも、1センチでも鬼から遠ざかろうと、体を引きずって出口を目指す。
今、後ろを振り返ってはいけない。今振り返ったら、本当に鬼に捕まってしまう。
なのに、それなのに、俺は。
何も分からない恐怖に負けて、後ろを振り返ってしまった。
「あっ、あっ、あっ……」
すぐ目の前に、魔女のような笑みを浮かべた女。
ギョロリとした大きな眼で俺を覗き込む、鬼がいた。
「何処に行くんだい、ぼーや」
鬼の細長い手がヌゥッと伸び、俺の右足を掴んだ。
次回、間章完結予定です。なるべく早くお届けします。
本編に早く戻らないと……。




