モールド(1)
「Fコード、クラージュからの第一にして絶対の要求。それは、特殊情報処理補助液状薬品、通称『モールド』を、5年以内に全人類が摂取すること。要求に従わないのならば、今すぐにでもクラージェと地球のリンクを開始して、地球上全ての環境を激変。世界規模の災害を引き起こすという脅しもかかったのよ」
「……」
言葉を失った。というか、宮谷の言っていることが良く分からなかった。
そんな様子の俺を置いて、宮谷は解説を続ける。
「アナタも、モールドは良く知っているでしょう?」
「……」
「……ちょっと?話聞いてる?」
ぼーっとしている俺に、宮谷が話しかけてくる。顔の前で手を振ったり、頬を叩いたり、頭を殴ったり。
「ってイテェよ!!」
我に返った俺は、前にのめりだし頭部に攻撃を加えていた宮谷の手を振り払った。
モールド。俺にとっては悪魔のような薬品の名称。それが、この現実から大幅に離れたような話に関わっている。
俺が再び深い思考に没頭していると、突如この部屋の巨大な扉が開く音がした。すぐに我に返る。頼んでいた飲み物が来たのだろうか。
俺が視線を扉の方に向けると、スーツ姿の長身男性が、料理を運ぶ銀製カートと共に入ってきた。
見た目は30代前半といったところだろうか。ピシッとした黒のスーツに、まっすぐに伸びた背筋。顔も大分ハンサムで、ヒゲなどは綺麗に剃られている。全身から清潔感が溢れていた。
普通こういった給仕をするのは、メイド服姿のおばさんなんだけどな、と心の中で俺は疑問に感じる。
スーツ姿の長身男性は俺と宮谷の前に立つと、カートから注文した飲み物の準備をし始めた。
「それで?」
金属質な音が鳴る中、ふと正面を見ると、宮谷がジト目でその男性を睨んでいた。
「どうして研究部でナンバー6の浦田さんが、私の前でコーヒーと紅茶の準備に勤しんでいるのかしら」
「ナンバー6?研究部のか?」
俺は宮谷に聞く。確かに、何故そんな高ポストの人が給仕などしているのだろう。
宮谷の言葉を受けたその浦田と呼ばれる男性が、ゆっくりと口を開く。
「いやね、僕はこれでもコーヒーをよく自分で淹れていてね。君の部屋に今度の任務の件で話しに来ていた所、偶然給仕の方と会ったんだ。それでついでにと、僕に任せてもらったんだよ」
「任務?ああそう言えば、5日後からだったかしら」
浦田と呼ばれる男性の優しげな口調に対して、宮谷が何かを思い出したように呟く。
「仕事と薬しか興味が無いから、浦田さんは結婚できないのよ。職場でも結構モテるのに」
「ハハハ、僕は結婚には興味ないよ。一人の方が気が楽だからね。それにまだ三十代前半だから大丈夫」
ふと、その男性の視線が、一瞬だけ俺の方へと向けられた。すぐに視線を戻したが、コーヒーの準備をしたままの彼は口を開く。
「君。見かけない顔だけど、新入りかな?」
「あ、いえ・・・・・・」
俺が返事に困っていると、横から助け船が登場する。
「私が入学した高校の生徒よ。今日『青』使用者との戦闘があってね、その場を目撃していた生徒の記憶は全て改竄したんだけど、この人の記憶だけどうしても消せなかったのよ。それで、仕方なくココに連れてきて、世の中の真実を教えているワケ」
ふ~ん、と宮谷の言葉に唸った浦田と呼ばれる男性は、カップにコーヒーを注ぎながら、笑顔で俺に声を掛けてくる。
「君、名前は?」
「あ、支倉恭司です。えっと、宮谷の通っている高校の2年生で、彼女に拉致されてきました」
俺の前で少女が短く騒ぐ。浦田さんと呼ばれる男性は、俺の前に淹れたてのコーヒーを置きつつ苦笑する。
「そうか、支倉恭司君か。恭司君と呼ぶよ。僕の名前は、浦田勝也。呼ぶときは、浦田さんでいい。年齢は32歳で、普段は証券マンだ。さっき志穂君も言っていた通り、ICDA研究部のナンバー6。適合率は78%だ。よろしく」
それだけ一気に言った浦田さんが、右手を差し伸べてくる。俺は慌てて自分の右手を出して互いに握手。思ったよりも手はゴツゴツとしていた。
「せっかくの淹れたてだ。冷めない内に飲むといい」
「あ、はい」
冷静で笑顔の浦田さんに対し、俺は慌ててコーヒーカップを掴む。
破格の値段からだろうか、普段飲むコーヒーとはひと風味違った香りが俺を包みこむ。
「ところで、彼にはどこまで説明をしたのかな」
コーヒーを飲む俺の目の前に座っている無表情の宮谷に、浦田さんは彼女の紅茶を用意しながら聞いた。
「Fコードの説明までしたわ。これからモールドと、ICDAについて話すところだった」
無表情の宮谷の前に、薄紅茶色の紅茶が置かれる。湯気と共に漂う香りを味わった後、上品に飲む宮谷。どうすればいいのか分からず、とりあえずコーヒーを啜る俺。
一方で、俺達の隣りにいる浦田さんはその場で腕を組むと、フム、と考える素振りを見せる。
「それじゃ、次期かわいい後輩に、僕が直々に教えようかな。モールドについて」
先ほどと違って、明らかに浦田さんの目が輝く。どうやらモールドは、彼にとって興味の対象ではあるようだ。次期後輩という言葉が少々気になったが、とりあえずそのことは置いといて。俺の前で、宮谷が、お願いのジェスチャー。
「では、恭司君。君は、モールドとは何か、知っているかい?可能な限り詳しく言ってごらん」
学校で嫌というほど教わりましたよ、と心の中で俺はため息をつく。
「今から約15年前に開発された、人間に備わっている潜在能力を引き出す液状薬品のことですよね。10年前に全人類が摂取を終えたって言う、超有名な薬です。一度摂取したら、死ぬまでずっと体内に残留して、少しずつ服用者の潜在能力を引き出していく。摂取する際は、注射でも、食薬でも、とにかく体内に入れればいいはず。国の補助で一切料金はかからず、今では、産まれたらすぐに摂取しますよね」
俺の言葉に、浦田さんは軽く頷く。
「うん。一般人への説明なら十分かな。でも僕らにしてみれば、60点ってところだね」
「え?違うんですか?」
俺は思わず聞き返す。
「そうだね。モールドは君達一般人が思っているほど、素晴らしい薬じゃないんだよ」
浦田さんは、近くの壁に背を持たれる。腕を組んだまま真剣な表情で語り出した。
「恭司君。君は、Fコードが乗っ取ったクラージェからの第一要求について、聞いた?」
俺は頷く。
「5年以内に、全人類がモールドを摂取することですよね。要求に従わない場合は、地球規模の大災害を引き起こすと」
「そう。その要求と同時に、クラージェから科学者達の元に、モールドという薬品の作成方法と、その効能が伝えられた。クラージェ曰く、『人間の潜在能力を高める薬。副作用は一切無い』だそうだった。地球規模の災害を恐れて、仕方なく国の援助の元、科学者達は半信半疑のままその薬品を開発。世間に公開した」
やはり、と俺は心の中で頷く。開発の経緯が大きく違っていても、薬の効能は変わらなかったようだ。
そんな俺の考えを砕くかのように、浦田さんは続けた。
「公開直後から存分に効果を発揮したそのモールドという薬品に、最初は科学者達も多少の安心感を抱いていた。しかし、公開されてから5年後。そのモールドという薬のメカニズムが解析され、彼らは驚愕する。そして、そのモールドという薬の恐ろしさを思い知ることになるんだ」
正面で紅茶を飲んでいた宮谷が、ティーカップをテーブルに置いた後、浦田さんに代わり口を開く。
「いい?支倉恭司。モールドは、確かに人間の潜在能力を引き出すわ。でも、モールドが引き出すんじゃないの。Fコード、クラージェが、人間の潜在能力を引き出すのよ」
「それは……」
一体どういうことなのだろうか。混乱する俺に、今度は浦田さんが解説をする。
「実はね、モールド自体に、人間の潜在能力を引き出す力は無いんだ。モールドの本当の役割、それは、密かに地球と情報的リンクを行っていたクラージェからの情報を吸収、蓄積する、言わば受信機のようなものだったんだ」
浦田さんは続ける。
「クラージェは、地球と情報的リンクを果たしていた。それがどういうことを示しているかと言うと、僕達が吸う空気、見る光、聞く音、触った際の感触。それら全てに、クラージェから発信される情報が含まれているということなんだ。その情報を、僕達の体内に残留しているモールドという液体が受信して、体内にその情報を蓄積する」
つまり、と混乱状態の頭を振り絞って、俺は声を発する。
「クラージェが発信していた、『潜在能力を引き出す』という情報を、人々の体内に残留しているモールドが受信。そして体内にその情報を蓄積していった結果、眠っていた潜在能力が引き出された……?」
俺の言葉に、宮谷、浦田さん両名が頷く。宮谷が続けた。
「適合率っていうのはね、そのクラージェから発信される情報を、いかに吸収しやすいかを数値化したものなの。だから当然適合率が大きい方が、より多くの情報を体内に蓄積するから、能力が高くなる」
はぁー、と俺は感嘆のため息。と同時に俺は疑問を感じる。
「でも、それじゃあ別に、デメリットなんて無いじゃないですか。いずれにせよ、個人の能力は高くなるんですし」
違うんだよね、と苦笑いの浦田さん。
「恭司君。君は、人間に眠っている潜在能力が、どれほどの物か分かるかい?まさか、人間には無限の可能性がある、なんては言うまい」
俺はコーヒーを一口飲んでから答える。
「そりゃ、限界はあると思いますよ。でも、何でそんなことを?」
いいかい、と表情を引き締めた浦田さんは告げる。
「はっきり言おう。個人差はあるけど、人間の潜在能力なんてものはたかが知れてる。本来ならば、例え高適合者でも、能力的には普通の人間に毛が生えたようなものなんだ。ではどうして、僕や志穂君のような高適合者が、信じられないほどの異様な力を発揮できるのか。恭司君も、彼女の力を見たんだろう?」
俺は、昼間の宮谷を思い出す。生身の人間である俺にとって、あの力は異常と言っていい程のものだった。
確かに、と今度はティーカップを持った宮谷が呟く。浦田さんは定位置の壁に戻った。
「モールド、いや、クラージェが、人間の潜在能力を引き出しているのは事実。でもね、問題は、その引き出し方なのよ」
「ど、どんな?」
俺は生唾を飲む。宮谷は紅茶を一口含んで飲込んでから、俺に告げた。
「クラージェはね。人間の潜在能力を引き出す際に、人間の感情を喰らうのよ」




