第83話 猿と調査と金の卵
ヤタガラスとマジェスティックの共同捜査。その日本国内における実働部隊責任者という、あまりに重い肩書を背負った夜。佐藤健司は自室のベッドで眠ることもできず、ただ静かに、これから始まる戦いのことを考えていた。
姿なき敵。その目的も正体も、全てが謎に包まれている。だが、やるべきことは一つ。まずは敵の「仕掛け」を、そしてその「結果」を、この眼で徹底的に洗い出すこと。
その日の深夜。健司は再び、あの公園にいた。西東京の郊外にある、何の変哲もない寂れた公園。その一番奥、古びた公衆トイレの脇に、例の自動販売機は、まるで墓標のように静かに佇んでいた。街灯の頼りない光が、その色褪せた赤い筐体を不気味に照らし出している。周囲には人の気配はない。ただ秋の夜風が枯葉を揺らす音と、遠くで響く救急車のサイレンだけが、世界の現実を伝えていた。
「……さてと。やるか」
健司は、誰に言うでもなく呟くと、自販機の冷たい金属の筐体に、そっと両の手のひらを触れさせた。そして彼は目を閉じた。【過去視】起動。今回は、ただ漠然と過去を視るのではない。明確な目的を持って、因果の奔流へと、その意識をダイブさせる。この自販機で「ミラクル☆パンチ」を当て、そして能力に覚醒した全ての人間をリストアップする。それは、彼の脳に凄まじい負荷をかける、危険な賭けだった。
『猿。加減を間違えるなよ』――脳内に直接響く、魔導書の冷静な声。『貴様のその猿の脳みそが、情報の奔流に飲み込まれオーバーヒートしても、俺様は知らんからな。対象の時間を絞れ。ここ数ヶ月、長くても一年だ。それ以上遡るな。貴様の脳が、無駄な情報の海で溺死するぞ』
(分かってるよ。……集中する)
健司は、意識の全てを掌に集中させた。
―――ザアアアアアアアアッ!!!!
彼の脳内に、奔流がなだれ込んできた。数十年分の膨大な記憶の断片。この自販機がここに設置された暑い夏の日。初めて小銭を投入した幼い子供の、はしゃいだ声。雨宿りをしながら温かい缶コーヒーを握りしめたサラリーマンの、安堵のため息。失恋の痛みを抱え、一人冷たいジュースを呷った女子高生の、涙の味。
無数の名もなき人々の、ささやかな日常の記憶。その情報の洪水の中から、健司は金色の光を放つ「当たり」の瞬間だけを、釣り針で魚を釣り上げるように一つ、また一つと拾い上げていく。それはもはや予知というよりも、執念の捜査だった。
――見えた。高校生のカップル。当たりを引いた彼女、鈴木恵美が、はしゃいでジュースを飲む。その数日後、彼女は自宅の観葉植物に触れた際、その枯れかけた葉が、わずかに瑞々しさを取り戻したことに気づいた。「え、なんで?」――その小さな奇跡。彼女の能力が産声を上げた瞬間。
――見えた。リストラされたばかりの中年男性、田中誠。ヤケクソで買ったジュースが当たり。それを飲んだ彼は翌日、自室のカーテンの隙間から差し込む朝日に、自らの影が、ほんの少しだけいつもより濃く、そして長く伸びていることに気づいた。「……気のせいか……?」――その些細な違和感。彼の中に眠っていた闇の力が目覚めた兆候。
――見えた。幼い子供を連れた若い母親、佐藤優子。子供が面白半分で押したボタンが当たり。ジュースを分け合って飲んだ後、彼女は夜泣きする息子の背中をさすりながら、その小さな胸の内で渦巻く、言葉にならない不安や寂しさを、まるで自分のことのように鮮明に感じ取っていた。「……どうしたの、タッくん……。怖い夢でも見たの……?」――その母性の奥底から湧き上がった、新たな共感力。
一人、また一人。健司は、その顔を、服装を、そして彼らが交わす会話の断片を、自らの記憶に刻み付けていく。名前は? 職業は? 断片的な情報から、パズルを組み立てるように個人を特定していく。それは彼の脳を限界まで酷使する、あまりに過酷な作業だった。
どれほどの時間が経っただろうか。夜が白み始め、公園に朝の光が差し込み始めた頃、健司はふらつきながら自販機から手を離した。彼の顔は蒼白で、鼻からは一筋の血が流れていた。
「ふー……。流石に疲れた……」
彼の脳内には膨大な量の個人情報が、整理されないまま渦を巻いていた。彼は近くの24時間営業のファミリーレストランに飛び込むと、モーニングセットと特大サイズのコーヒーを注文し、ノートPCを開いた。そして、夜通し脳内に焼き付けたその情報を、一つ一つテキストファイルに打ち込んでいく。
【能力者覚醒者リスト(武蔵野公園自販機)】
鈴木 恵美
年齢:17歳(推定)
職業:高校生(制服の校章から武蔵野市立第一高等学校と判明)
能力系統:生命操作系(微弱)——植物の成長をわずかに促進、あるいは延命させる。
接触時状況:交際相手と思われる男子生徒と共に下校途中に購入。
田中 誠
年齢:45歳(推定)
職業:元・会社員(会話内容から、IT関連企業の営業職をリストラされた可能性大)
能力系統:影操作系(超微弱)——自らの影の濃淡・長さを、ごくわずかに変化させることができる。
接触時状況:平日の昼間、スーツ姿で公園のベンチに座り込んでいる際に購入。
佐藤 優子
年齢:32歳(推定)
職業:主婦
能力系統:精神感応系(微弱)——特定の対象(息子・タツヤ、推定3歳)との感情的な共感能力が向上。
接触時状況:息子をベビーカーに乗せ、公園を散歩中に購入。
……。……。
リストは延々と続いた。健司がその作業を終えたのは、日が完全に昇りきった昼過ぎのことだった。完成したリストには、実に27名もの名前が並んでいた。名前、推定年齢、職業、そして彼が観測した能力の断片。完璧なリスト。
「……はは。……俺、探偵にでもなれるんじゃないか……」
健司は乾いた笑いを漏らしながら、そのファイルを暗号化し、ヤタガラスのサーバーに送信した。だが、その達成感も、すぐに凄まじい疲労感に飲み込まれていく。彼はPCを閉じるとテーブルに突っ伏した。脳がショート寸前だった。
『……ご苦労だったな、猿。貴様のその猿の脳みそが、オーバーヒートせずに済んだのは奇跡だな』
脳内に響く魔導書のいつもの声。その声には、珍しく労いの響きがあった。
健司は顔も上げずに答えた。
「……幸い、全員都内に住んでるみたいだ。……あとは、会いに行くだけだな……」
その日から、健司の地道な追跡調査が始まった。彼は、リストの人物一人一人に接触していった。ヤタガラスの情報網を使い、彼らの正確な住所と連絡先を割り出す。そして、アポイントを取り付け、あるいは「偶然」を装って彼らに会う。
最初の接触相手は、リストの1番、鈴木恵美だった。健司は、彼女が通う高校の校門前で下校時間を待った。そして、友人たちと楽しそうに笑いながら出てきた彼女に声をかけた。
「どうも。テレビ見てますか? 預言者Kです」
その魔法の言葉。効果は絶大だった。鈴木恵美は目を丸くして固まり、彼女の友人たちは甲高い悲鳴を上げた。健司は、周囲にパニックが広がる前に、彼女を近くのカフェへと誘った。最初は緊張でガチガチだった彼女も、健司の穏やかな語り口と、何よりも彼女の誰にも言えなかった秘密……植物の成長を少しだけ早めることができるという、ささやかな奇跡を、いとも容易く言い当てたことで、完全に心を開いた。健司はヤタガラスの存在を明かし、彼女の力を正しく導くための場所があることを告げた。彼女は涙ぐみながら、その申し出を受け入れた。
二人目の田中誠との接触は、よりデリケートなものだった。彼はリストラされたショックから立ち直れず、自宅に引きこもっていた。健司は彼の自宅を直接訪ねた。インターホン越しに名乗ると、最初は頑なに拒否されたが、健司が粘り強く、そして彼の心の傷に寄り添うように語りかけると、やがて重いドアが開かれた。部屋の中は荒れ果てていた。健司は、かつての自分を見るような思いで彼の話を聞いた。社会から見捨てられた絶望。自らの無力さへの怒り。そして、そんな中で芽生えた「影を操る」という理解不能な力への恐怖。健司はただ頷いた。
「分かりますよ。俺も同じでしたから」
その一言が、田中の固く閉ざされた心をこじ開けた。
三人目の佐藤優子。彼女は健司が近所のスーパーで買い物をしている際に、「偶然」を装って接触した。
「もしかして、預言者Kさんですか?」
彼女の方から声をかけてきた。健司は彼女の息子のタツヤ君に、優しく微笑みかけた。
「この子、すごく感受性が豊かですね。お母さんの気持ち、全部分かってるみたいだ」
その言葉に、彼女ははっとした顔をした。最近、息子との間に感じる不思議な一体感。その正体を、彼女は薄々感じ取っていたのだ。
一週間。健司は都内を駆けずり回った。カフェで、大学のキャンパスで、主婦が集う公園で、彼は27人全員との接触を果たした。その誰もが、健司の言葉に安堵し、ヤタガラスという組織の存在に希望を見出した。彼らは健司の紹介を経て、正式な手続きのためにヤタガラスの門を叩くことになった。
だが。健司の本来の目的は達成されなかった。27人その全員が口を揃えて、こう言ったのだ。
「自販機で当たりを引いてから不思議なことが起きるようになったけど……それ以外は何も」
「誰かから連絡が来たこともない」
謎の国際的能力者集団。その尻尾は、どこにも見当たらなかった。
一週間の調査を終えた金曜日の夜。健司は、自室のマンションのソファに、深く沈み込んでいた。
「ふー……疲れた……。一週間、当たりっぱなしだったけど、成果なしかぁ……」
彼は誰に言うでもなく呟いた。膨大な数の新たな能力者を発見し、ヤタガラスに保護した。それは組織にとっては大きな成果だろう。だが、彼個人の任務としては……これは失敗なのではないか。
「……この組織は何がしたいんだろ。……覚醒させただけで放置? 何の意味があるんだ……」
思考が袋小路に迷い込む。一人で考えていても、答えは出ない。
「……行くか」
健司は重い身体を無理やり起こした。シャワーで汗と疲労を洗い流し、クローゼットから一番シワの少ないジャケットを羽織る。報告しなければならない。そして議論しなければならない。この、あまりに不気味で巨大な謎について。彼の足は自然と、もう一つの「職場」へと向かっていた。
ヤタガラスのオフィスは、深夜だというのにいくつかの部署で明かりが灯っていた。健司はIDカードでセキュリティを解除し、最上階にある橘の執務室へと向かった。幸い、橘はまだ残っていた。
「やあ、K君。報告書は読ませてもらったよ。……素晴らしい仕事ぶりだ。ご苦労だった」
橘は、疲れた顔の中にも確かな満足感を滲ませて、健司を迎えた。
「君のおかげで、27名もの新たな才能を、我々は得ることができた。組織にとっては望外の収穫だよ。……感謝する」
「ですが……」
健司は、ソファに腰を下ろすのももどかしく切り出した。
「肝心の黒幕に繋がる情報は何一つ。……完全に手詰まりです」
その、潔いまでの敗北宣言。
「分かっている」
橘は頷いた。
「君が満足していないことも。……そして、この結果が我々にとって、どれほど不気味なものであるかもな」
彼は執務室の窓辺に立った。眼下には、眠らない都市・東京の夜景が広がっている。
「君も同じ疑問を抱いているようだね。『彼らは何がしたいのか』と」
橘は腕を組んだ。そして、彼はヤタガラスが、そしてマジェスティックが、この数日間で導き出したいくつかの仮説を語り始めた。
「まず一つ目の可能性。『覚醒させるだけで充分』だと考えているパターンだ。この世に一人でも多くの能力者を生み出すこと。それ自体が彼らの目的なのかもしれない。……それが、人類の進化を促すための善意の行為なのか。……あるいは、世界の秩序を内側から破壊するための、混沌の種を蒔いているのか。……それは分からんがね」
「二つ目。『ある特定の能力者を狙っている』パターン」
橘は指を二本立てた。
「砂漠の中から、たった一粒のダイヤモンドを探すように。彼らは数千、数万という人間を覚醒させ、その中からたった一人……例えばTier 0に至る可能性を秘めた、奇跡の才能を探しているのかもしれない。……壮大な才能発掘プロジェクトというわけだ」
そして橘は三本目の指を立てた。その顔から笑みが消える。
「……そして三つ目。……これが最も厄介で、そして最も可能性が高いと、我々が見ている仮説だ。覚醒を『キー』にして……彼らを一つの巨大なネットワークに組み込むことが目的なのではないかという説だ。覚醒した能力者は無意識のうちに、術者が構築した見えざる魔術的なネットワークの『端末』となる。……そして、その無数の端末から、ごく微量の魔力を常に吸い上げられ……あるいは集団的無意識を操作され……最終的に、一つの巨大な能力を稼働させるための『生体CPU』として利用される。世界中に散らばった何千、何万という能力者の力を束ね……神すらも凌駕するほどの、奇跡を起こそうとしているとしたら……?」
健司は戦慄した。あまりに壮大で、あまりに恐ろしい仮説。それは、魔導書が以前口にしていた推測とも一致していた。
「捜査は行き詰まりだ」
橘は溜息をついた。
「目的が不明なのが、何よりも怖い。……だがな、K君。……君のおかげで我々は、27名という貴重なサンプルを手に入れた。……彼らの能力とその後の経過を、詳細に追跡調査することで……あるいは、そのネットワークの尻尾を掴むことができるかもしれん」
橘は健司の元へと歩み寄った。そして、その肩を力強く掴んだ。
「しばらくは忙しくなるぞ。……君が見つけ出してきた金の卵たちの、育成プログラムを一から組まねばならんからな。君にもまた、教官役を頼むことになるだろう。……頼んだぞ、K君」
その言葉は健司にとって、何よりも嬉しい響きを持っていた。俺はまだ戦える。この謎との戦いを。
「……はい!」
健司の力強い返事が、部屋に響いた。
橘は満足げに頷いた。その張り詰めていた表情が、わずかに和らぐ。
「……今日のところはご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」
健司は執務室を後にした。深夜の、誰もいないオフィスを歩きながら、彼はまだ興奮が冷めやらないのを感じていた。捜査は行き詰まったかもしれない。だが、物語はまだ終わっていない。むしろ、ここからが始まりなのだ。
その確かな予感を胸に、健司は夜の闇の向こう側に広がる、巨大な陰謀の気配を睨みつけていた。その眼差しは、もはや獲物を狩る狩人のそれだった。




