【記憶の底】
どれくらいの時間が経過しているのか、閉ざされた空間の中では全く分からなかった。天候も空気も変わらない。時間を確認できるものも持ち合わせていない。ただ静かに二人の呼吸が微かに聞こえるだけの世界だった。
そんな中でしばらく頭を捻って唸っていた依月だが、ついには優花の方が痺れを切らして「だいじょうぶだから」と説得を始めてしてしまった。
考えても考えても、優花の魂を残しておく方法が分からない。そして、本当ならば現世に残さないで還した方が良いのだろうという事も頭では分かっていた。けれど、優花本人がそれ(転生の可能性)をあまり望んでないと依月は頭のどこかで感じる。そしてそれは正解であったようで、優花も何も言わず、依月も何も問わずとも不思議と通じ合っていた。
「壊さずに入ってこれたなら壊さずに出ることが絶対に出来るって思ってたんだけど、きっと紅弥の意思が必要なんだよね……」
相変わらず応答はなく、何も返事をしてくれない。優花の中にも、依月の中にもいるはずの紅弥だが、一切なんの動きも見られなかった。
紅弥は依月に何をさせたいのだろう。考えても答えは出ない。
隣の優花が泣き出しそうな顔をした。
「いつきちゃん、もう、ほんとうにいいの。こうやって、かんがえてくれたことがうれしい。せきやのこと、おねがいね」
「いやそんな去り際みたいなこと言わないで!まだ壊す方法も分かってないからね!?」
壊せば出られるのは確実だろう。ただ、肝心の壊す方法が分からない。力任せにどこかに圧をかけてみれば良いのか、灰月に任せて何とかして貰うのか。まだ何も分かっていないのだ。
慌てて優花に突っ込みを入れた依月だが、数秒遅れてハッと顔を上げた。
依月には味方がいる。
紅弥だけでなく、依月の中には禍根がもう一人いるのだ。
何故そのことを忘れていたのか――
「そうだよ、灰月!灰月がいたんだった!」
きぃん、とかん高い音がする。忘れ去っていたことに拗ねているような様子だった。
説明しなくても優花は灰月のことを知っているようで、疑問は抱かない。それどころか、不思議と優しい眼差しで依月の中の灰月を見つめた。禍根というものに嫌悪感を抱いていないのか、今まで出会った人間はみんな禍根について良く思っていないものばかりだった依月からしたら新鮮で、こそばゆかった。
「はいづき……すてきな、なまえ。いいなまえをもらったのね」
優花がやんわり目を細めたと同時に身体の中がじんわり冷える。
灰月が動き出した。
「ねえ、ここから出ることって出来る?」
肯定。
「優花ちゃんを留めたままで、わたしは出られる?」
肯定。
「……優花ちゃんは、ここから出たら、昇天してしまう?」
肯定だった。
思っていた通り、うまくはいかない。隻弥に会わせてあげられたらと思ったが、そうはいかないらしい。けれど、優花を留めたままで依月が出られるなら隻弥と会える機会はきっと巡ってくるはずだ。
それがいつになるのか、分からないが。――それじゃ、また一人でこの世界で過ごすことになるのか。
そう思ったらいてもたってもいられなくなった。優花がどれくらいここにいるのか、いたのか、依月は正確には知らないが、短くないことだけは分かる。そして、このチャンスを逃してしまえば優花にもう会えなくなるような気がしていた。もう少し、もう少し頭を捻ったら何かが出てくるかもしれない。依月の眉間に皺が寄る。優花は心配そうに瞳を揺らす。
想像以上に儚くて、想像以上に強くは無さそうな少女。
隻弥が守りたかった少女。
守れなかったとずっと後悔している少女――
「待って、灰月。もしかして……」
ふと、依月の脳裏に思い浮かんだ案に灰月は不服そうだったが、答えは肯定。
依月は灰月の不満を黙らせて、優花に向かってにっこりと笑った。
「優花ちゃん、隻弥に会おう」
「いつきちゃん……?」
驚きに目を見開いて、優花が立ち上がる。
「難しく考えすぎてたかもしれない。閉じ込められてる優花ちゃんは魂だけの状態で肉体が既にない。だから、ここから出たら昇天してしまうし、隻弥にも会えない。それなら私がここを壊さずに出て、隻弥と優花ちゃんが会える手段をこれから探そうって思ったんだけど……それじゃ、道のりが遠すぎるよ」
「そんなこと、ないよ」
「ううん。私、短気なの。優花ちゃんが待てたとしても私が無理!だから、会いに行こう。紅弥が私に何をさせたいのか、まだ分からないし、これが正解ではないと思う。だけど、それは後回しでいい!」
そう、そんなことは――分からないことは一旦後回しにしてもいい。
何も言ってこない紅弥も悪いのだと依月は笑ってみせた。
「灰月がなんとかする。私の禍根はそういうのがきっと得意だから」
「いったい、なにをおもいついたの?」
「器を作ればいいんだよ。優花ちゃんが入る器を」
魂だけの存在ならもう自分の肉体がないのなら、器に入ってしまえばいい。新しく入れる肉体があればいい。そして、それが依月ならば灰月が調整してくれる。傷ついてもまた修復してくれる。良くは思っていなかったが、出来ないとは言わなかった。
「私の中においでよ、優花ちゃん」
正直なところ、依月は優花のことを好意的には思えなかった。隻弥がずっと気にしている少女を良いようには思えない。けれど、紅弥が宿った最初の女の子。少ないながらも惹かれ合う。何とかしてあげたいと思ってしまうのだ。
そうして、禍根同士の惹かれ合いがここに証明されたと同時、依月の隻弥を思う気持ちが禍根のせいだけではないことも証明された。依月自身は元からそうだと思っていたが、隻弥はきっとそうは思っていないだろう。
私が、好きなの。
私が私の意思で、隻弥を好きになった。
「ほんとうに、いいの?」
「うん。大丈夫」
ひんやりとした優花の手を握る。魂だけ、というわりに感触がきちんとあった。
依月は一瞬の不安を押し込めて、力強く頷いて見せる。弱気になるなと自分に言い聞かせた。強くありたい。強くなりたい。それだけをただ願う。
「おいで」
馴染みのない他人の魂は、吐き気がした。それでも、少しだけ見知った感覚もあった。きっと、紅弥のかけらだろう。込み上げてくる気持ち悪さを必死に堪えて優花を抱きしめる。
だんだんと、感触が無くなる。溶け込むように依月の身体に同化していく。灰月はほんの少し意地悪だ。この気持ち悪さを無くすことだってきっと出来ただろうに。
自分の身体の半分ほどが得体のしれない何かで圧迫された気がした。耳元で聞こえた小さな声が、徐々に大きくなってくる。
「いつき、ちゃん」
「うん」
「ありがとう……」
優花の泣きそうな声に、依月もまた涙が滲んだ。
「帰ろう、灰月」
不満をぶちまけるように、灰月は大きく動いて――依月の視界はあっという間に篝家の見慣れた障子と畳でいっぱいになった。きっともうあの空間は消し飛ばれてしまったのだろう。急に現実に戻ってきて、視界が少しくらくらした。
そして、見下ろす先に、醜い塊。
「隻弥、ただいま」
感覚を鋭くするばかりで全く麻痺させてくれない、意地悪な禍根。
そのせいで抜け殻にもなれない、獣の姿がそこにある。
何かが起こったことを察知したのか、その部屋の入口に全員が集まっていた。依月があの空間へ飛んでそれほどまだ時間が経っていなかったのか、集まっている面々は驚いて立ち尽くしているようだった。
畳に食い込む隻弥の爪は剥げていた。着流しもぐちゃぐちゃで、身体のあちこちを掻き毟って、狂ったように声を漏らし、叫ぶまいと歯を食い縛る。
依月の中の優花が静かに泣いた。
依月は何も言わずに主導権を渡す。優花はそれを受け取って、ゆっくりとしゃがみ込む。
「せきや」
確かにその声は依月だった。それなのに、即座に依月ではないと八衣は感じた。
「ひきなさい、じゃないとせきやをころす」
淡々と発されたその一言に、隻弥の身体が反応する。
「からだがあるのよ。どうにでもできるの」
優花は突き放すように言った。
「もういちどだけ、いう。ひきなさい」
言い切ったと同時、隻弥の身体から力が抜けた。意識だけはあるものの、ぱったりと動かなくなり声も発さなくなった。
「せきや」
微笑む。けれど、その顔は隻弥の傍にずっとあったものではなく――
「ゆうか」
懐かしい、記憶の底の顔だ。




