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禍根の封印  作者: 尋道あさな
第三幕
67/71

【優花】

 


 とても良い夢を見た気がした。



 依月はまだ深夜にも関わらず、不思議な心地よさと共に静かに目を開けた。



 どんな夢だったのか、覚えていなかった。それでも、その夢が確かに幸せを感じるものであったことは覚えている。


 小さく息を吐く。

 溜息ではなく、しあわせの余韻に浸るような、小さな息だった。



 布団から抜けて襖を開けると冷たい冷気が入ってくる。もう、十一月も終わり頃だ。隻弥に蘇生されたあの日のことを、依月は何故かずっと昔に起こったことのように感じてしまっていた。



 まだ二ヶ月しか経っていない。

 生き返ったあの日から、まだ二ヶ月。


 両親と離れ、眠りにつき、誘拐され、帰ってきた。

 修行を始め、隻弥と共に歩み始めて、随分と長く時を過ごしたようにも思えていたけれど、実際には全てのことがたった二ヶ月の間に起きたのだ。



 縁側にゆっくりと腰掛け、ほんのり肌寒いだけの空気を肌で感じ取る。



 結界というのは非常に便利で、外敵に侵入を許さない他に一般人からは見えなくしたり、中の気温差や明るさなどを調整したり出来るらしい。結界の中――つまり、篝家の屋敷は外とは違い、凍えるような寒さもない。


 今はテレビが唯一の情報源で、依月は俗世に関わらない開錠師らしい生活をしていた。


 基本的に開錠師達は世間のことに疎い。皆、最低限度の情報しか持とうとしなかった。ただ、国の動きには敏感で、内部に開錠師の間諜が入り込んでいるのでは、と速水は言っていた。開錠師達が俗世間のことに疎いのは、自分達が高尚な人間であり、俗世間の一般人とは違うと思っているからだろう、とも。


 その中に含まれないのは隻弥みたいに他人に興味がない性格の開錠師や、八衣のように自分が興味のあることだけ熱心になる性格の開錠師だ。依月はそもそも一般人から開錠師になった異例の存在で、開錠師としてのプライドは持ち合わせていない。どちらかと言えば俗世間寄りの考えを持っている。


 依月の思考回路が異常な速度で発達し始め、成長と共にそれが馴染み始めた頃を狙って、速水は色々な話しをするようになった。


 今まで知り得なかったこと、開錠師達と一般人との付き合い方、国との詳しい関係。


 依月が疑問に思い尋ねることをしなくとも、速水は次第に自ら教えるようになり、二人が真面目な顔をして言葉を交わす光景はもはや見慣れたものになっていた。


 依月の修行はなんとか依月が様になったことを理由に強制的に終了させられたが、本当の理由は別にある。





 隣室から響くうめき声はここ一週間、絶えることがほぼ無かった。



 涙は、もう、出ない。



「今日は満月なんだって。結界があって見えないけど、たぶん綺麗だよ」



 小さくも、大きくもない声で、依月は呟いた。



 紅弥は子供が癇癪を起こすかのように、急に暴れだした。


 その理由は言わずもがな、灰月の存在にあった。

 灰月は隻弥と紅弥を嫌い、依月に執着した。


 初めは楽観視していた依月も次第に笑えなくなり、二つの禍根の間に生まれた溝はもはや埋まることを互いが互いに許そうとしなかった。紅弥の禍根は隻弥の中に本体があるにしても、蘇生された依月の中にもあり、灰月はそれを抑える為に依月の中で働いている。


 しかし、隻弥に対して力を使おうとする依月を灰月は許さなかった。


 故に、沈黙。


 黙り込んだ灰月は依月の応答にも答えず、紅弥は暴れ出したまま隻弥を苦しめ続けている。



 いつもなら、制御が出来たはずだった。

 隻弥はいつもと同じように強引に抑え込み、紅弥を黙らせようとして――失敗、した。




 縁側から離れ、隣室へと足を向ける。


 くぐもったような押し殺したうめき声が依月の胸をひどく痛ませた。襖を開けると部屋の中で、自分の身体を抱きしめるようにして小さくなっている隻弥が見える。



「隻弥」



 まるで、言葉を知らない獣のようだ。

 痛みを堪えるのが精一杯で、返答が出来る状態ではない。



 明日にはまた隻弥は部屋を移されるだろう。異臭を放つこの部屋を掃除しなくてはならないから。


「紅弥、どうして怒ってるの。おねがいだから、教えてよ……」


 もう何十回目になる問いかけだ。今回も、返事はない。

 紅弥が暴れ出した理由はただ灰月が気に入らないというだけではないと依月は気付いていた。



 あまりにも唐突に、劇的に紅弥は暴れ出した。それも――我を忘れたという訳ではなく、まるで当てつけるかのように、隻弥を痛めつける。周囲に影響を及ぼさず、隻弥だけに苦痛を与えるその理由が依月にはどうしても分からなかった。


「だいじょうぶ。だいじょうぶ。いるよ。そばに、いる」


 隻弥を抱きしめ、目を閉じる。


 腕の中から出ようともがく、子供のような大人を力強く抱きしめて、依月は無力な自分を内心でまた責めた。



 ふたつの禍根が沈黙を決め込んだとき、当然のように依月は賭けに出ようと思った。

 賭けるのは自分の命、妥当なものはそれしかない、と。


 それを止めたのは、驚くことに依月と隻弥を除きその場にいた全員だった。速水と八衣、一棋と美奈子。四人が四人とも反対した。もしもそれで禍根が応じず、依月が命を落とした場合、それはただの無駄死にであり、意味を成さない――と。


 その考えも一理もある。それでも、依月はやるしかないと強行突破しようとし、大先輩でもある開錠師の八衣に(まじな)いをかけられた。


 依月の命が尽きた時、再び依月がこの世に戻って来られる(まじな)い――八衣の命と引き換えに依月が蘇生する、という開錠師の中では禁忌ともされる古く恐ろしい(まじな)いだった。


 八衣が祖父から引き継いだ呪いは、別の意味で効果的だった。もしも実際にそんなことが起こってしまえば、速水は依月を許さないだろう。そして、依月も八衣の命が犠牲になると知っていて行動に出られるほど情のない人間では無かった。


 どうしても隻弥を助けたい。


 どうしても、どうしても。


 その思いが強くなればなるほど、灰月は沈黙を固くした。








 触れ合う部分は擽ったく、けれどこれ以上ない程に心地良く安堵を得られた。隻弥は優花の無邪気な笑顔を苦手に思いながら、ずっと見ていたいとも思っていた。


 矛盾した気持ちをいつも抱えて、優花の隣に腰を下ろす。


「せきや」

「あ?」

「さいきん、へんな声がね、きこえるの」


 ここ最近、疲れた様子を見せていた優花がやっと相談してきた。自分から弱音を吐くことはおろか、他人に頼ることを異常なまでに拒否する優花が、やっと。


 無理矢理に聞き出さなくて正解だった、と優花の表情を見て隻弥は確信する。こみ上げてくる嬉しさを巧妙に隠し、隻弥は落ち着き払った態度で優花の顔を覗き込む。


「……どんな声だ」

「わからない。だけど、わたしのことをよんでる、とおもう」


 煮え切らない曖昧な、しかし不安を充分に孕んだ声音で優花は絞り出す。


 言っても大丈夫なのだろうか。きらわれたり、しないだろうか。気味が悪い、と娘を恐れた父親の顔が優花の脳裏に浮かんだ。


 篝家に引き取られた優花は一般人ながらに開錠師としての強い素質を持ち、そのせいで身体の成長が止まってしまっていた。


 父親は娘がいつまでたっても小さな子供のままで居ることに次第に恐怖を抱き、篝家が優花の身柄を預かると申し出た際には心底ホッとしたような、父親らしくない安堵の色をあからさまに見せたほどだ。母親は優花の出産時に亡くなり、優花は八歳を過ぎた頃から父親に恐れられるようになっていった。


 見た目、言動、行動、全てが八歳のまま、時だけが過ぎて行く。

 唯一、年相応に成長していたのは――思考のみだった。


 優花の父親は知らぬだろう。知りたくもないだろう。中身はきちんと、思考は正常に成長していたことなど。


「声、か」

「たのしそうなのに、さみしそう、だった」

「……そりゃ不可解過ぎるだろ」

「うーんとね、わらってるんだけど、ないてる、みたいな」



 ――もっと真剣に聞いておけば。もっと深く考えていれば。



 優花の言葉と向き合って、真剣に考えていれば。


 走馬灯のように巡る、記憶。

 それは、灰色で、薄暗い、過去。



 やめろ。

 触れるな。

 触るな。

 紅弥。

 開けるな。

 そこは、お前だって、嫌な――


「哀れな子よ」


 だまれ。


「未だ振返る事すら叶わぬか」


 だまれよ。


「吐き出さぬならいっそ此の儘宿主を替えても良い」


 できるもんなら、やってみろ。


「其れもまた一興。然し、今暫く愛しい子の涙を愉むもまた一興」


 くそが。

 泣かすな。


 ――あいつ泣くと、面倒臭ぇんだよ。



 嘲笑う声が響いた。依月はハッと顔を上げる。


 紅弥が動いている。何かを仕出かそうとしている。小さくなって痛みを堪える隻弥が一際激しく震えた。


「や、め」


 ガラガラになった声で隻弥が何かを口にする。聞き取ろうと隻弥を抱きしめ耳を寄せた依月の脳裏に、そのタイミングを狙ったかのようにひとりの少女の顔が浮かんだ。


「ゆう、か」



 ――優花。


 依月の心臓が、嫌な音を立てた。



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