【回答】
隻弥が普段通りの姿に戻った頃、凛也は目を覚ました。
凛々はあれほど大きな衝撃音がしていたにも関わらず、ぐっすり眠っていた。
朝が来て、ようやく凛々が目覚めた。守護膜が凛々を分厚く綺麗な光で覆っている。禍根持ちが二人もいるのだ。守護膜が過剰に反応しても仕方がない。神々しいほどの膜に守れている凛々は、一生懸命に依月に近づこうと腕を目一杯伸ばしていた。
「ち、ちかづけない、いつきちゃん……」
「か、かわいい!かわいいいいい!いじらしい、抱きしめてあげたい!」
「諦めろ。禍根を従えた今のお前は妖力垂れ流しだから膜に危険人物だって判断されてんだろ」
「なんて無情な……どうしたらいいの?」
「制御出来るように修行しろ」
すげなくそう言う隻弥にムッとする依月だが、言われた事は正論なので素直に一つ頷く。凛々は近付けない事に落ち込みながら、お茶を淹れてくると居間を後にした。
「修行は一応したよ。凛也さんが色々教えてくれた。大変だったんだよ。いっぱい、痛い思いもして」
「そりゃ良かったなァ。十中八九、その修行は意味が無ぇだろうがな」
何を言われたのか理解出来なかった。一瞬だけ、依月の中の時間が止まる。
――意味が、ない?
「えっ!?なにそれ!?」
驚愕しながら隻弥の制服の襟首を掴む依月はゆっさゆっさと隻弥を揺さぶり、言葉の意味を詰問する。依月の乱暴な手をべちりと叩いて引き離すと、隻弥はいつものように着流しの袂に手を――入れようとして、着ているのが着流しではないことに舌打ちをした。
「……チッ。堅っ苦しいんだよ、これ。――お前なぁ、禍根を自在に使う為の修行と潜在能力を制御する修行を一緒にすんな。根本的に使う能力が違ぇんだよ、馬ァ鹿」
防衛省特殊部門の特殊部隊。WMいわゆる付喪(九十九)を強制的に浄化させている国の部隊。その隊員らが着ている制服は、旧東ドイツ軍服をアレンジにして作られた紺色の制服である。堅苦しい色合いと細部の造りはいかにも日本らしいものだが、生憎隻弥は服装に大きな拘りなど持たない。その制服がどれだけ機能性に優れ、耐久性に優れているか。そんな事には目を向けぬまま、上着を脱ぎ捨て隻弥はシャツ姿になる。
制服は元々相模に無理やり着せられたもので、日常を着流しで過ごしている隻弥にとっては重過ぎる一枚だった。シャツ姿になった隻弥は手首のボタンを外す事無く強引に引きちぎり、腕まくりをして胸元のボタンも引きちぎる。
依月は隻弥が洋服を着ているという珍しい光景をぼんやりと見つめていた。しかし、気になる事は山ほどある。このまま隻弥の脱衣に気を取られている場合ではない。
「本当に今までの修行って意味ないの?」
「無ぇ」
「一個も?あんなに頑張ったのに!?」
食い下がる依月に対して相も変わらず面倒臭がりな隻弥は、気遣いなどさっぱり無く無情にも言い切った。
「どれだけ頑張ったか知らねぇが、意味は無ぇよ。だから、成果も無ぇだろ」
しょんぼりと肩を下ろし、依月はいじけたように俯く。
あの修行は一体なんだったのか。下手なスポ根漫画顔負けの修行でもあったのに、こんな酷いオチはないだろう。
「……隻弥の為に、頑張ったのに」
なんて、言ってみて様子を窺うと隻弥は依月の想像通りにとても不愉快そうな顔をした。思わず依月が笑ってしまう程、嫌そうに眉を顰めている。
「押し付けがましい言い方をするんじゃねえ。俺は頼んでねぇぞ」
冷たい視線を向けられて、依月は大きく縦に頷く。知ってる知ってる。分かってる。
「うん、ちゃんと分かってる。ちょっと隻弥に頑張ったなって言われたかっただけだから」
「……」
これほど素直な女もなかなか居ない。あまりにもあっさり白状されると、何だか隻弥の心が狭いような気がしてくる。少なくとも、隻弥は己でそう感じた。
「……どんな修行をしたのか知らねぇが、手ぇ抜こうとしても出来なくて仕方なしに頑張ったんだろ。……お前の事だからな」
「なんて図星。はっきり言われると痛いなぁ。……あのね、サボろうとしても凛也さんが案外厳しかったの。――だから、世の中の女子高生の誰より、身体張って頑張った女子高生だと思うよ」
これで依月が誇らしげな表情でもしていれば、隻弥は何の躊躇もなく依月を小突く事が出来たかも知れない。笑い話にしてやる事くらいは出来たかも知れない。けれども、そうするにしては依月の顔がひどく悲しげで――寂しげで、隻弥は依月の言葉を捨て置く事が出来なかった。
「これからもっと、酷い仕打ちを受けることになる」
「うん」
「お前の周りの誰かが死ぬ。お前は死を招き、不幸を招き、否応無しに誰かを引きずり込む。俺がそうだったように」
「……うん」
「安息なんて求めるな。お前はずっと、敵意に晒され狙われ続け、幸福からは誰より遠くなる」
「隻弥が、そうだったように?」
「ああ。でも俺とお前は違う」
本当に言いたかった事、依月に隻弥が伝えたかった事。
回りくどい言い方をしたのは、恥ずかしかったからだろう。
隻弥はふいっと視線を逸らし、依月を見ないままに言った。
「お前には俺がいる。お前の言葉で言えば――先輩って奴がな」
禍根について自分自身が何も知らなかったあの頃と、今の依月の境遇は違う。依月の前には隻弥が在り、隻弥の前には誰もいなかった。違いは、それだけだ。
「辛くなったら俺が貰ってやる。――ずっとじゃねぇぞ、少しの間だけだ」
「……少しって、どれくらい?」
「さぁな。お前が、笑えなくなったとしたら、また笑えるようになるまで」
――充分だ。
物差しでは測れない依月の中の時間を尊重してくれるなら、それだけで充分だった。
例え、何年と掛かったとしても隻弥は「少し」だと言うのだろう。依月にはそれが分かる。隻弥はそういう男なのだ。不器用で優しくて、言葉では甘やかそうとしない癖に態度は誰より依月を甘やかす。
「いつきちゃん、お茶をいれてきたよ。お兄ちゃんの分も、リンさまの分も」
「凛々ちゃん!」
「いつきちゃん!」
「だから無駄だっつってんだろうが。触れねーよ。学習しねぇガキだな、お前ら」
呆れたように依月と凛々を一瞥して、凛々の持っていたお盆から隻弥は勝手に湯呑を取る。思った以上に茶が美味かったので、思わず隻弥は凛々を二度見してしまったが誰にも気付かれていない。
「リンさま、大丈夫?」
「……凛々」
目を閉じて休んでいた凛也は静かに目蓋を上げる。隻弥と依月のやり取りをぼんやりと聞きながら、身体を動かす事が億劫だったので横になっていたという訳だ。
蘇生された後、治癒も行われた。しかし、全快したところに隻弥の暴力だ。治療された直後に暴力を受けたという全く意味不明な事態だが、凛也はそうされる事に納得が行くので隻弥を責める気はなかった。
あの瞬間――依月が凛也に攻撃を加えた瞬間、凛也の頭にあったのは依月への恋慕だった。禍根からすれば、横恋慕。意に沿わぬのは当然だ。隻弥と依月の繋がりを強固にしたがる禍根は凛也の思いを邪魔とみなした。あれは依月の意思ではない。禍根の意思であったと、凛也は想像している。
本当の所は分からないが、禍根についての詳細を知る篝家当主――篝隻弥が、そのように判断しているので、凛也の考察はほぼ間違いないだろう。凛也の気分が憂鬱なのは、恐らく精神的なものだろう。身体に不調は殆どない。強いて言えば隻弥からの攻撃による負傷だが、然程酷いものではなかった。
身体を起こし、湯呑を凛々から受け取ると凛也は隻弥へ視線を向けてもう一度頭を下げた。
「……申し訳ない。禍根について何も知らぬ身で依月に手を加えた事は、時と場合を間違えていれば――恐ろしい事になっていたかも知れない」
「頭は悪くねぇらしいな。その通りだ。……素人が触れて良いもんじゃねぇ」
凛也は隻弥を目の前にして、ひしひしと感じていた。
強大で凶悪な、身に纏わりつく不愉快極まりない霊的力。それを体内に保持する男。触れてしまえば命はないと思わせる何かを潜めている雰囲気は、依月の禍々しい雰囲気と似ているようで若干違う。依月のものが制御出来ていない状態の禍根ならば、隻弥のものは力で抑え付けている状態の禍根だろう。強引に従わせ、有無を許さぬ破壊の思考。そして何より恐ろしいのは、それを内に隠したまま平然としている隻弥自身の忍耐力だった。例え禍根が暴れていようとも、隻弥に抗おうとしようとも。恐らくこの男は気怠げな顔で、普段と何ら変わらない冷めた顔で、ねじ伏せる事が出来るのだろう。
「三種の術と浄化を見せた。精神に一度だけ、干渉した事もある。それから、回避させる事を念頭に置いて攻撃を仕掛け防衛本能を養わせた。影響はどうだろうか」
「それほど無ぇ。ただ、潜在能力が偏り過ぎてやがる。その状態での修行で得たもんは一つも無ぇだろうな。底上げは多少出来ても」
「……そうか。意味を成さなかったか。それでも、禍根に影響を及ぼしていないのなら良かったと言うべきか」
「例え、影響を及ぼしててめぇが死んだとしても、こいつはてめぇを助けただろうがなァ」
「……依月。辛い思いを、させてしまったね」
隻弥と凛也の会話に、依月は全く入れなかった。
何を言っているのかさっぱりで、ただ「私のことか」とは思えど内容を把握する事は殆ど出来なかった。しかし、それでも何となく察する。隻弥は凛也が行った修行を「意味がないもの」と凛也に伝えたのだ。
凛也はそのことに落ち込んだ素振りは見せなかったが、依月の身を案じているようだった。
「ううん。凛也さんがしてくれたこと、私は無駄だと思ってないよ」
「そうか……ならば、やった甲斐はあったかな」
「昇天も見れたし、綺麗だった。あれが、開錠師の仕事なんだよね」
「そうだね。本来なら、全ての付喪がああやって転生出来たはずだった」
寂しそうに苦笑すると、凛也は湯呑を机に置いて隻弥へ向き直った。
「尋ねたい事がある。聞いても良いだろうか」
「――あ?」
「そんな立場でないことも、理解はしている。それでも、尋ねたい事がある」
「知らねぇよ」
隻弥は緩慢な動作で立ち上がり、依月へ視線を寄越す。
「帰るぞ」
依月は反射的に隻弥の腕を掴んで引っ張った。
べしゃ、と嫌な音がする。
隻弥はまさか依月がそんな暴挙に出るとは思いもしなかったので、あっさりと畳に叩きつけられた。
「おい」
「ご、ごめん……」
「謝ったら何しても良いんだな?ああ?」
「ごめんって……」
流石の依月もこれはやりすぎたと申し訳なく思っている。まさか隻弥がこんなに簡単に引っ張られるとは思いもしなかったので、依月こそ驚きだ。
「凛也さんの話、聞こうよ。私、自分じゃ何も出来ないからちょっと心苦しかったんだよね」
「ああ?」
「……だってさ、隻弥を助ける為に私に修行を付けてくれてたのに、隻弥はあっさり帰ってきて……取引にもなってない」
「俺が知るか」
「しかもさ、最初は隻弥から話を聞きたくて隻弥を誘拐しようとしたのに……隻弥が誘拐されて私しか居なかったから、凛也さんは仕方なく私を誘拐したんだよ。隻弥のせいで誘拐されたんだよ、私」
物は言いようである。まるで隻弥が悪いかのように捲し立てる依月は、馬鹿の振りをして実は確信犯であった。誘拐した凛也が悪いのだが、いつの間にか隻弥のせいになっている。
凛也は依月の口八丁に素直に驚いた。屁理屈と言うべきだが、それでも場の空気を掴む事に長けている。こんな特技はあったとは、と正直驚かされていた。
「凛々ちゃんに関わることなの。隻弥の協力が必須なの。お願い、話を聞いて。答えてあげて」
「……何で俺が答える必要があんだよ。馬鹿かお前は」
そうそう騙されてはやらない隻弥だが、依月の言い分に何も感じない訳でもない。協力する義理も答えてやる義理もないが、意地になって無視する理由もない。気に食わない、という部分はあるが。
「お願い」
「願うな」
「お願い」
「だから願うなっつってんだろうが。――勝手に話せよ。気紛れで答えてやる事もあるかもな」
「凛也さん!落ちた!オッケーだよ!」
「……てめぇ」
よし!とガッツポーズをして依月が凛也を振り返ると、凛也は笑いを堪えきれないとばかりに肩を揺らして笑った。
「仲が良いね。羨ましいよ」
――絶対に、かなわないんだろうね。敵わない。叶わない。思いは成就することなく、初恋は散らされる。
篝隻弥という男は、安西依月を恐らく離さない。城戸崎凛也がどう足掻こうと、その先に未来はない。依月の心からの笑みを、気負わず甘えられる相手を、奪う事など、誰が出来ようか。
凛也は痛みをそっと隠して、凛々の身体を抱え込む。凛也に抱かれた凛々は甘えるように、胸元に頭を預けた。励ますように、慰めるように、当たり前のように寄り添って。
「禍根は他人の力を吸収する事が出来る、と言うのは事実かな」
凛々の為に、可愛い最後の一族の生き残りの為に。自分が死してしまった後、取り残される最後の城戸崎家の子供の為だけに、当主は禍根の力を頼った。
全ては、この子の為に。
凛也の言葉に隻弥は深く溜息を吐いて、首を振る。
「俺が知ってる限りじゃ、そんな事例はねぇ」
「――そうか」
賭けていた。最後の望みを、禍根に託していた。
隻弥の返答に、落胆はあれど絶望はしなかった。依月と過ごした数日が、凛也に温かみをくれた。欲した答えは貰えずとも、気持ちに決着を付けることは出来たのだ。
「凛也さん……」
「不思議だね。あまり、がっかりしていないんだ。いや、していない事はないんだけれど……思っていた程ではなかったという事だ。依月に出逢えた事で、前向きになれたような気がする」
「私にそんな力はないよ。逆に、凛々ちゃんから力をもらったことのほうが多いと思う」
辛くて、痛くて、寂しくて、ふらふらになった時、凛々の笑顔と無邪気な姿がどれほど安らぎをくれただろう。いつきちゃん、と自身を慕う小さな少女に依月は元気を貰っていた。勿論、凛也からも。兄と妹が同時に出来たような気がしていた。その中でも妹は特別、生まれて来れなかった妹と凛々を重ねてしまったせいなのか、依月は凛々をとても愛しく感じていた。
「いつきちゃん、帰っちゃうの?」
「……うん。でも、凛々ちゃんとはずっとずっと友達だよ」
離れ難く、愛しい存在ではあるけれど――期間限定の妹は、これにて終わりにしなければならない。本当の妹が、空から嫉妬してしまうかも知れないし。
依月は出来るだけ優しく微笑んで、凛々に真剣に答えてみせた。
「また、遊びにくる?」
「来るよ。今度はケーキを焼こう。まだ私も焼いたことないんだけど」
「けーき」
「そう、ケーキ。美味しいんだよ。誕生日とかに食べるの」
「たんじょうび?」
「……凛々ちゃんが生まれた日。凛也さんが――リンさまが、生まれた日。それから私が生まれた日。……誕生日はその人が生まれてきた日のことだよ」
随分と説明が上手くなった。ここ数日、凛々の知識欲は目覚しいものがあったのだ。知りたい、聞きたい、そんな好奇心いっぱいの目で眠る前に話をせがんだ。依月は時に童話を話し時に童謡を歌った。始めは決して上手とは言い難かったか、日に日に上達していった。少ないながらも積み重ねたものが、確かにあったのだ。
「またね、凛々ちゃん。凛也さん」
「またおいで、依月」
「いつきちゃん、ばいばい」
凛々はぐっと悲しみを堪えて依月になんとか手を振った。依月も思わず涙ぐんで、凛々に手を振り返した。




