【蘇生】
依月の耳にはっきりと聞こえた、否――内側に感じた声は、間違えようのない禍根そのものの意思だった。何を言っているのか理解出来ないまま、何を言ったのか記憶もしないまま、依月は横たわる凛也の身体を呆然を見つめていた。
身体から吹き出した朱は、決して少なくない。
目を開いたままその場で動かなくなった凛也は、まるで現実味がなかった。
こぽり、と口からも溢れ出す鮮血はペンキの赤と何ら変わらない。
いっそ非現実な程に鮮やかな赤だった。
「い、いや、いやだ、やだ、こんなの、こんなのやだ……」
がくがくと膝が震え、ついに耐え切れず依月は畳にへたり込んだ。
真っ青になって行く、顔色。
呼吸が乱れて行く。
背筋が凍る。
指先が、冷えて行く。
「りんやさん、おきて、ねぇ、り……りんや、さん」
静寂が現実を突きつける。――自分の呼吸音しか、しない。
じり、じり、と胸の内が灼かれていくような気がした。
「たすけて、たすけてよ」
――禍根。私の中にある、禍根。
凛也を攻撃したのが依月の中にある禍根だと依月は気が付いていた。一瞬にして凛也の命を散らしてしまったものが、自分の力だと。
――気づいている。知っている。目の前の光景を正しく理解している。理解したくなんてなかった。しかし、間違えようもなく――凛也は、死んでいた。
「あ、ああ、ああ……なんで、どうして、なんで、こんなこと――」
蠢く禍根が、気持ち悪い。
それは、余りにも呆気なく、また、余りにも無情な現実だった。
全身が痺れ始めた。じわじわと指先から、爪先から、痺れが伝わって来る。恐らく凛也が掛けていた痛覚遮断の術が切れかかっているのだろう。或いは、もう切れてしまったのかも知れない。痛みに喘ぐ事しか出来ない、そんな状況に近付いている。
――それは、駄目。絶対に、駄目だ。このまま何も出来ず、無力にも転がって痛みに震えるだけなんて。
そう依月が理解した時、思考はまっさらに切り替わった。
両足に巻き付くような痛み。
「がっ……!あぅ、う、ううっ」
襲ってくる激痛は尋常ではない程に依月の身体を熱くする。
隻弥を襲う痛みがどれほどのものか、依月は再び実感する。ずっと、我慢していた。隻弥は顔色一つ変えず、依月の為に力を使って――ずっとずっと我慢し続けていた。
そんな事に比べたら、依月の我慢なんて大した事ではない。
――大した事じゃない。
隻弥の方が、ずっと痛かったはずだ。
思考が働いている間に、まだ間に合う間に、しなくてはならないことがある。
本当は今すぐにでも、叫び声を上げてのたうち回りたかった。けれどもそれは許されない。そんな甘えは許されない。
依月は覚束ない足取りで、畳を這ってミシンへと近付いた。木製のミシン台へ腕を伸ばし、身体をなんとか引き上げる。息が上がり、視界が霞む。力を一瞬でも抜いてしまえば、動けなくなる事を悟った。ミシン台へしがみつくようにして立ち上がり、人差し指を針の下に差し込む。
ぐっと踏板を一度だけ踏み込めばミシンは正常に稼働して、勢いに合わせ――針を思い切り下ろした。
「あああああああああああッ!」
人差し指を貫いた針は存外太く、今度は踏板の手前を一度踏み抜く。抜くのにも激痛を覚えた。全身に走る痛みの種類とはまた違い、苛烈な痛みが人差し指から脳髄を襲っていた。
はぁ、はぁ、と何度か息を大きく漏らして依月は口角を上げる。
「つぎは、なかゆびに、するよ。ゆびが、おわった、ら……こんどは、べつの、もので、うでを、さす」
思っていたよりもずっと効果はあった。頭が冴えていく。
「か、かこん、きい、いて。わたし、りんやさん、を――たす、け、たいの」
――助ける為には、救う為には、一体何をすれば良い?
「おし、え、て、くれな、い、なら……しぬ、せきやに、あわないまま」
隻弥。隻弥、隻弥、隻弥、隻弥。会いたい。隻弥、――会いたい。
愛しかった。恋しかった。寂しくて、会いたくて、切なくて。助けに行きたいのに、駆けつけてあげたいのに、誰より隻弥を助けたいのに、私は凛也さんを見捨てる事が出来そうにない。
天秤には掛けられなかった。天秤にかけたとして、恐らく隻弥の方が大事なのだろうけれど――それでも、天秤に掛ける事がどうしても私には出来ない。
「おしえ、なさい。――おしえなさい!」
次は中指。
まだ、倒れてはいけない。
依月が人差し指の針を抜き、中指へ針を下ろす為に手を動かしたところで――禍根は観念した。
後悔なんてするはずもない。命を助ける為だった。後悔なんて出来る訳がない。誰かの命を助ける事が出来るなら私の気持ちなんて安いものだ。――安い、ものだ。
不思議な事に、依月に躊躇いはなかった。
むしろ、躊躇いがあった方がきっと可笑しい。人の命を繋ぎ留める為に手段に、躊躇いなど存在しない。
教えてくれたと言うよりは、方法を知っていたと言う気がした。禍根は依月に教えたのだろう。けれど、依月はその方法を――前から知っていたような気がした。




