【付喪神】
十月十一日、午前八時。
夜はとっくに明けていて、依月が不可解な物体に殺された夜の翌日の朝。
全てを嘔吐した後に待っていたのは、軽い脱水症状のような身体の渇きと目眩だった。速水は依月を横抱きにして、立派な檜風呂へと連れていった。
身体の力が抜けきっていた依月はそれに抵抗する事もなく、だらりと首を凭れさせてされるがままになっている。
あろうことか速水は、昨晩いつの間にやら着替えさせたらしい浴衣姿の依月を、躊躇いもせずにそのままぽちゃりと浴槽に降ろして湯に浸した。
浴衣が一気にお湯を吸ってずっしりと依月の身体にへばりつく。
その不快感と言ったら堪らない。普段の依月なら顔を思い切り歪めただろう。
「ちなみに夜中、着替えさせたのは俺ね。じっくり見たけど……うん、健康的で良い身体だった。最近の女子高生は発育も良さそうだ。あ、これ、ただの塩水。一応置いとくからちょっとずつ飲んで」
速水は愛想良く笑いながらペットボトルの水を浴槽の縁に置き、その場から消える。
どうして塩水なんだろう。ああ、脱水症状みたいな感じだからか。と、依月は速水のセクハラ発言にも頓着せず与えられたものに納得し、温かいお湯に浸っていた。
嘔吐が激しく続いたせいで思考回路に乱れが生じているらしい。
普段ならふざけんなと腹が立ったであろう言葉の数々を見逃して、いま置かれている状況をぼんやり把握した。
浴衣、脱がなくちゃいけない、喉も渇いた。
それが分かっているのに、動くことが酷く億劫に感じられる。
数分間、そのまま浴室の壁を見つめ続けて漸く依月は言葉を発した。
「……キツ、い」
身体は重く、かなりの疲労を感じていることが分かる。
のろのろと置いていかれたペットボトルを手にして、覚束ない手つきで蓋を開けた。
ひとくちだけ口に含み、浴槽の縁に置く。
「これも、脱がないと……」
張り付いた浴衣を鈍い動きで脱ぎ、浴槽の外にべちゃりと落とした。
着ているのはたった一枚なのに、約十分もかけて裸になった依月は、今更ながらやっと現状に疑問を抱くことができた。
死んでいるのに生きている。
隻弥と速水という男。
何故か自分は吐き気が止まらず、弱りに弱って風呂に連れて来られたのだ。
――なんだ、それ。
全く意味が分からない。むしろ生きている意味が分からない。
こんな言い方をすると変な誤解を招きそうだが、依月は心の底から思った。
なんで私、生きてるんだろ。
ちゃぽん、と水音を立ててお湯に顔を浸ける。
あの現場――昨夜のスライムらしき存在を思い返してみるも、吐き気は襲って来なかった。
何故?どうして?
疑問しか浮かばず焦燥感に襲われるも、答えなんてあの二人から聞くしかないと分かっている。
ハッと気付き足を見ると、あの瞬間に溶けてしまっていた皮膚は全て元通りになっていた。あたかも何も無かったように、足は普段と変わない。
これはいよいよ怪しいだろう。どう考えても普通じゃない。
正常な思考が戻ってきた依月は今の状況に冷や汗をかいた。
ゆっくりお風呂に入ってる場合じゃない。
遅すぎるくらいだったが、やっとそこに気が付いて、依月は塩水をもうひとくち飲んだ。
そうしてふらつく身体なりに、さっさと浴室を後にした。
ご立派な脱衣場の赤いカゴに新しい浴衣らしきものが見える。
脱ぎ捨てた浴衣は袋なり何なり貰ってから後で回収するとして、この浴衣は私に用意されたものなんだろうか。
数秒だけ考えて、依月は結局その浴衣に袖を通した。
「あー……頭痛い」
こめかみをぐっと押さえながら、ご立派な脱衣場を抜けていくと廊下に速水が立っていた。
此方に気が付きにっこりと笑った速水へ、依月はおずおずと近付いた。
「これ、着て良かったんですかね」
「もちろん。依月ちゃんに用意したやつだから」
あっさり懸念を飛ばされて、歩き始めた速水の後に続く。
歩く度に揺れる速水の不思議な髪色を何だかなぁと複雑な気持ちで依月は見つめた。
そんな事はお構い無しに、速水はどんどん先へと進む。
割りと長い廊下を歩き、一つの襖の前で漸く速水は立ち止まった。
迷いなく引かれた襖の向こうは、この家での居間らしき場所だろうか。
座椅子に座って盛大な欠伸をしている隻弥が見えた。
「隻弥さん、依月ちゃん大丈夫みたいですよ。すっかり馴染んでます。もしかして、相性も良かったんじゃないですか?」
速水とは対照的な覇気のない顔つきで、隻弥はぼんやり依月を見る。
やたら爽やかで胡散臭さのある速水とは違い、だらしなく面倒臭そうな隻弥。
依月は少し戸惑いながらも、持ち前の勝ち気な性格ゆえかしっかりと相手を見据え対面する。
「お風呂、ありがとうございました」
「沸かしたの俺じゃねぇし。そういうのは速水に言え」
つっけんどんに返された返事にグッと堪えて依月は再び話し掛ける。
「……それだけじゃなくて、これも」
腰から下を少々ばかりはだけさせ、依月は綺麗に治っている足元を見せた。
溶けた筈の皮膚が治っている。
しかもきっちり元通りになっていて不気味なくらいだった。
「どうやって、その、治したんですか。私の足、……溶けてましたよね?」
口に出せば、非現実な事に思えて仕方がない。それでも依月は知りたかった。
「それをお前に教えてどうなる?全て忘れて帰れ」
愛想の欠片もないその言い種に、多少むっとしながらも依月は知りたいことを聞き出すためにもう一度繰り返した。
「足は何で治ってるの?あなたが治してくれた……とか?」
やっぱり非現実的だと思いながらも、依月にはそうとしか思えなかった。
「話を聞いちゃいねぇな。知らずに帰れ。聞いてどうする?」
「自分に起こった事を知りたいと思うのは当たり前でしょ」
「質問を質問で返すたぁ礼儀がなってねぇな。――速水、コイツ捨ててこい」
ぴしゃりと速水に向かって言い放った隻弥に少なからず依月は驚いた。
気力のない態度に面倒くさそうな眼差し、てっきり喋りたがらない男なんだと思っていたが案外饒舌に喋るらしい。が、言った言葉が自分にも返ってきていることに気が付いていないんだろうか。
質問を質問で返した隻弥に命令された肝心の速水は不敵に笑って首を傾げる。
「助けたのは隻弥さんでしょ。今さら何を言ってるんだか」
速水はそう言ってからかうような視線を隻弥に向けた。
隻弥は舌打ちをして、座椅子に凭れながら目元を手のひらで覆う。
「……くそ、面倒臭ぇな。早まった」
そう言って手を下ろすと、ジッと依月を見つめた。
「帰れよ、馬鹿」
はあ、とため息を吐き出して後ろ頭をかき、悪態を吐いた隻弥にもう一度だめ押しで口を開く。
「何が起こったのか、教えて欲しい」
自分には、当事者には、知る権利があるはずだと強気でものを言った依月。
それを見て速水が助け船を出す。
「隻弥さん。依月ちゃんには説明してあげなくちゃいけないんじゃないですか?今後のこともありますし、よりにもよって――」
「速水」
続きを言わせないように隻弥は速水を軽く睨んだ。
着流しの袂へ手を入れて、隻弥は低い声で紡ぐ。
「お前は死んで、生き返った。それで納得できねぇのか」
そっぽを向いてしまった隻弥を見て、一筋縄ではいかない相手だと気が付いた依月は早々に矛先を変えることに決めた。
「速水さん、私は……何で生きてるの?」
矛先を変えるという判断に至った依月に速水は少々面食らったらしく、瞬きをしつつも浅く頷く。
「死んだってちゃんと理解してるんだね。初めて出会ったよ、自分が死んだことを自覚してる人。まあ、蘇生された人に出会うも初めてなんだけど」
「そせ、い……?」
「そう。蘇生。依月ちゃんは死んだよ。昨晩、隻弥さんが依月ちゃんを……蘇らせたって事になる、かな。俺は死ぬまでの一連の流れを知らないけど、隻弥さんは怪我してる人を治療したりはしないから……依月ちゃんが全快してここにいるってことは、一度死んで蘇生したってことになる」
言い淀みながら、速水はちらりと隻弥の顔色を窺った。その顔色は、話して良いのか悪いのかと境界線を探るようなものにも見える。
隻弥は我関せずと襖の柄を意味もなく見つめていた。
――蘇生?
人生において最大級の爆弾を落とされた依月は、ただ絶句する事しか出来なかった。
考えることを脳が拒否しているのだろう。頭が真っ白で何も考えられなかった。
蘇生という言葉だけがぐわんぐわんと脳内に響いている。
速水はその様子に気が付かず、隻弥を窺いながら続きを話す。
「隻弥さんは自分のか――ええっと、自分が持ってる力の一部を依月ちゃんに分けたんだ。だから依月ちゃんは今こうして生きてる」
幼子に言い聞かせるように、速水は噛み砕いて説明する。
優しく、穏やかに、なるべく簡単な言葉を用いて。
それでも依月は自分が“死んで生き返った”という事を受け入れられていなかった。
「依月ちゃんの怪我も蘇生させたことによって治ったんだよ。この辺りは複雑になるから、原理は置いといて。それで、死んだ原因の最悪形態――ああ、隻弥さんはこの呼び方が嫌いなんだった。付喪っていう存在がね、依月ちゃんを殺したんだ」
――付喪また新しい単語が出る。
速水が話すその傍らで、ふっと隻弥は依月を見た。
呆然としたまま口を半開きにする姿を見て呆れたように息を吐く。
「……聞いちゃいねぇな」
「え?ああ、依月ちゃん。大丈夫?戻ってきて」
放心する依月の肩を叩いて、速水は依月を呼び戻した。
目の焦点が遥か遠くにいっていた依月も叩かれた拍子に速水へと視線を戻す。
「意味が、分からない」
やっと出てきた言葉も理解した旨は含まれておらず。速水は苦笑するしかなかった。




