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禍根の封印  作者: 尋道あさな
第二幕
39/71

【ふたり】


研究室での会話は盗聴の恐れがある。

速水は八衣にそう言って、防衛省管理下にある特殊研究所を後にした。


白衣を脱ぎ捨てワイシャツ姿になった速水が八衣に指定したのは近場の喫茶店。

落ち着きなく古い書物を捲る八衣の姿を見つけ、焦っているのが自分だけではないことにホッと安堵の息を漏らした。


「那央……!」

「分かってる。だけど、今は動けない。どうしたって相模が邪魔に入るんだ」


声を潜めながらそう言い、速水は八衣の向かいに座る。

元々吊り目がちではあるが、今の八衣は普段よりもずっと目尻がつり上がっていた。


怒り、悔しさ、焦り。

自分自身への怒りを抱き、誘拐を阻止できなかった事に悔しさを感じ、何よりも焦っている。


もし、二人の尽力によって隻弥だけが戻ったとしても、隻弥は恐らく八衣と速水を罵倒するだろう。半ば確信に近いその予想から、断固として依月を取り戻さなければならないと八衣は焦る。速水もまた、交換条件として提示できる唯一の存在であった依月が居なくなるという予想外の状況に、追い詰められて憔悴していた。


「紫だった。残った色は紫、だけど、そんな力……あたし知らない。書庫をひっくり返しても紫の一族についての記録なんて出てこなかった……!」

「八衣、落ち着け。よく思い出して。本当に何もなかった?」

「お祖父ちゃんだって、すべての開錠師を把握してる訳じゃない。知らない一族があっても可笑しくないのよ。でも、そう考えたら――」


依月をすぐに取り戻す事は、完全に不可能ということになる。


どの一族かも分からない、どんな開錠師かも分からない。そんな中で探すとなれば、たかが数年では見つからない。それほどに開錠師は数が少く、隠れていて見つけにくい。探している間に一族自体が潰える事もありえる。

更に、認識阻害や速度変化などの細かい術が使える術師となれば依月をさらった後の移動にもさして時間は掛からず、目的地(本拠地)まで誰にも見つからないまま余裕で到着出来るということになる。


「無理よ……。すぐに見つけるのなんて、絶対無理。きっと隻弥は私をもう許さない」


青ざめる八衣を見て、速水は複雑そうに顔を歪めた。


いつでも隻弥が一番で、八衣の心には常に隻弥の存在がある。

嫉妬するにしては相手の存在が大き過ぎた。命の恩人、速水にとってこの上なく恩のある人。そんな人が相手では勝ち目などないに等しい。


――今は追い詰められて考えが悪い方向にいっている。余計なことは考えるな。


速水は自分に言い聞かせ、振り切るように首を振った。


「まずは、隻弥さんを助ける。依月ちゃんが居なくなったのは正直痛いけど、俺と八衣で考えたら少しは策を思い付くだろうし、依月ちゃんの事は後回しに――」

「駄目っ!そんなことしたら、隻弥はあたしを絶対に殺す。だって、あの子は…!」


ハッと顔付きを変えて、八衣は拳を握りしめる。


思い浮かぶのは似通った雰囲気、依月の前に隻弥の隣に陣取った少女。


「あの子は隻弥にとって、二番目の優花じゃない……!」



――わたしね、身代わりになってほしいなんて思ってないの。せきやはせきやのままで、わたしの代わりになんてならないでほしい。



睨み付ける八衣に向かって、怯えの色を見せながら、それでも少女ははっきりとそう言った。



優花、ユウカ、ゆうか。

隻弥が何度も呼ぶ名前に、どれだけ嫉妬しただろう。


思い出した顔に八衣は無性に泣きたくなった。



――だからね、やえちゃん。わたしとせきやのじゃまをしないで。せきやはやえちゃんの“もの”じゃない。……せきやは、せきやだよ。



言われなくても分かっている。そう言い返した八衣を見て、優花はにっこりと微笑んだ。


かつて、隻弥を駄目にした少女、隻弥の心を拐った少女。

優花は依月とよく似ている、諦めの悪い強い瞳と生意気な表情が特に。


「もう、嫌われたくない……。あたし、隻弥に嫌われたくないっ…!」


みっともなく涙をぼろぼろ溢れさせる子供のような八衣を見て、速水は初めて気が付いた。


お遊びではなく、執着でもなく、八衣は隻弥を好きだった。それが恋情かどうかはさておき、好きな気持ちに一切の偽りはなかったのだろう。


「……そうだね。俺も嫌われたくない」


速水は、依月を代わりに差し出す事で隻弥を助けようとしている。けれども、隻弥がそれをどう思うかはとっくに気が付いていた。


最初は、本当に以前のように――意地悪で明るくてそれでいて優しい隻弥に戻ってほしいと思っていただけだった。八衣が依月によって悲しむ姿を見て、嫉妬に狂う姿を見て、速水はいつの間にか目的を無意識に挿げ替えていた。依月を疎ましく思う暇があるなら、早く八衣の心を楽にしてやるべきだった。


「探そうか、依月ちゃんを。勿論、隻弥さんの無事もなるべく早く確認しよう。同時にやるよ、八衣」


八衣が未だに優花の事を恨んでいるのは分かっている。隻弥を不幸にした少女を、速水も快くは思わない。だが、速水は八衣と違って優花と直接話した事が一度もなかった。隻弥から聞いたいくつかの話と飾られていた優花の写真、八衣から知らされた優花の背景などしか知らず、当人は速水が出会う前に亡くなっている。それ故に速水は口を出せない。


八衣の中にある過去の恨みは罪悪感へと変化していた。優花と隻弥の仲を自分が止められなかったから、隻弥は不幸になったのだと思い込んでいる。


問題は山積みで、沢山の気持ちを秘めた八衣を受け止めるにしては、速水は未熟でまだまだ心許なかった。


しかし、ゆっくりとした速さで。

少しずつ、自分自身だけの力で二人は変わろうとしている。


隻弥への依存が徐々に薄れ、依月への嫌悪も緩やかに和らいで、纏う雰囲気が仄かに変わっていく。悪循環から脱け出せたのは、果たして誰のおかげだったのか。何がきっかけだったのか。


無意識に二人の脳内に浮かんでいるのは、意図せず禍根を持ち隻弥を命懸けで救った一人の少女の顔だった。



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