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禍根の封印  作者: 尋道あさな
第二幕
34/71

【目覚め】

 

 昏睡する依月の身体に触れ、一人の男が柔らかく微笑んでいた。


 男が依月に触れられるのは手のひらに膜を張っているからだ。繊細さが求められるその術を苦労なく行使できるほどの人間はこの世に男一人しかいない。


 手は髪から額へ、そして頬へ。


 依月へ触れていた男はカタン、と鳴った小さな音に反応を示し振り返る。


 今だ修行中の身で気配を消したり現したりと忙しない愛し子を、気遣うように穏やかな声を出した。


「凛々(りり)、どうした?」


 しっとりとした艶のある低音で男は障子の影から覗く少女に問い掛ける。


 凛々、と呼ばれた(すみれ)色の髪をした幼い少女は心配そうに瞳を揺らす。

 眼差しの中には僅かな好奇心と大きな心配が浮かんでいる。


 凛々は小さな唇を開く。


「お姉ちゃん、まだ……起きない?」


 か細い声で言葉を紡いで、凛々はそろりそろりと座敷へ足を踏み入れた。


 それを横目で見た男は依月へと視線を戻して物憂げな息を吐く。


「まだ、起きないね。寂しいだろうに、眠りの中は」


 男の艶やかな漆黒の長髪が、はらりと肩から一房落ちる。


 凛々は依月に手を伸ばし、手のひらを握ろうとした。

 その刹那――ばちんっと凛々の手から光が放たれる。


「リンさま!はんのうが!」


 手を弾かれたにも関わらず、凛々の瞳は明るく輝く。


 依月の身体が仄かに発光し、禍根が僅かばかり蠢いた。


「凛々……お茶を用意しておいで。直に目が覚める」

「はいっ!」


 身動ぎした依月を見て、凛々は男の言葉に従う。


 リン、と凛々から呼ばれた男は膜を介して依月の額にそっと口付けた。

 すると、懐に入っていた鏡に亀裂が入る。


 ――禍根が目覚めたのだ。


 一枚目の鏡が駄目になった。けれども男は動じない。


「これから、大変だろう。可哀想に」


 そう呟いた男の下で、ゆっくりと依月の目蓋が開く。


「おはよう」


 優しい眼差しを向けながら、男が紡ぐ。




 ぱちりと両目を開けた依月は次の瞬間、男の衣服を引っ張りながら起き上がった。


「せ、――隻弥はッ!?」


 依月が無遠慮に掴んだ衣服にも頓着せず、男はひとつ頷いた。ぱりん、とまた鏡が割れる。


「残念だが……亡くなったよ」


 長髪の男――城戸崎凛也(きどさきりんや)は、真摯な口調で依月に告げた。





「亡く、なった?」


 大きく目を見開いて、依月は凛也の言葉を繰り返した。



 数秒間、沈黙が空間を支配する。



 静寂に包まれた依月と凛也を取り巻く空気は、徐々に色濃く密度を増した。


「隻弥が……死んだ?」


 ――依月の身体から、滲む鈍色(にびいろ)


 凛也は咄嗟に畳を蹴り、後ろに飛んで距離を取った。

 それでも範囲を広げていく依月の色は、まるで曇天の空に浮かぶ雨雲。


 色濃い灰色である鈍色が、部屋の中で拡大していた。


「これ程に……!」


 絶句する凛也に焦点すらも合わせずに、依月は眼光を鋭くしたまま渦巻く思考を整理する。――と、言うよりも、勝手に思考が働いているような感覚だ。


 到底受け入れられない事実を、依月の脳が無理矢理受け入れようとしていた。


「ち、がう……」


 絞り出すように発した声は、依月の希望や望みをなんかを全て通り越したもの。


 脳内で、胸中で、骨の髄で、身体の全身で否定が蠢く。


「違うッ!違う違う違う!ちがうッ!ちがうの!い、いあ、いッ――――!」



 ――いたい。



 声にならない絶叫と言うものを、依月は初めて感じていた。


 隻弥が音を消した時とはまるで違い、声すらあげられない痛み。

 激痛なんてものを通り越した、この世の苦しみではないような痛み。


 布団の上で全身を抱き締め、涙と鼻水、唾液すらをも垂れ流す依月は正にあの日の隻弥と同じ、化け物のように歪だった。


 痛苦に悶える依月を見て、凛也は即座に短く唱える。

 開錠の言葉を凛也が紡いだ瞬間に、依月はぴたりと停止した。


「――落ち着きなさい。痛覚を遮断している。長くは持たないからすぐに術を掛け直す」


 次いで、凛也は先ほどよりも長く言葉を唱える。


 額に滲んだ脂汗から凛也にとっても辛い術なのだと理解出来るが、依月にはそれを見る気力すらも残されてはいなかった。


 尋常ではない汗の出方、噴き出す不愉快なねっとりとした感覚、全身を襲う衝撃。


 どれもこれも、依月にとって初めての感覚だった。


 眠っている間は一時的に凍結していた力。

 依月が覚醒したと同時に本格的に目覚めた禍根が身体に滲み、本来の効力を持ち始めた。



 隻弥が日常的に堪えている痛みは、この痛みより遥かに酷い。

 だが、依月はそれを知らない。

 隻弥本人しか、痛みを知り得ないのだ。


 だからこそ隻弥はわかっていたのだ。

 依月が禍根に耐えられるはずはないと。

 分かっているからこそ、鍛えて馴染ませるつもりだった。



 ふっ、と依月の身体が途端に軽くなる。


 緩慢な動作で鼻水と涙を拭い、唾液も袖で拭った後に依月はのそりと顔を上げた。



「……だ、れ?」

「その話は後にしよう。まずは禍根を納めて欲しい」

「お、さめ、る?」


 禍根の勢いは衰えていない。

 あと数分もすれば、部屋中に蔓延してしまうだろう。


 立ち上る鈍色に、凛也はそっと息を吐き出す。



 ――こんなにも、強大だとは。



「深く、深く、深呼吸をして。……心を、落ち着けて」


 凛也の顔が焦りに歪む。


 依月の中に潜む禍根は凛也が予想していたよりも遥かに強大で、今すぐにでも落ち着けなければ凛也の方が危うかった。


「待って、違う、違うって、言って」


 浅い呼吸を繰り返しながら、依月は徐々に身体を動かす。

 立ち上がる事は出来ないが、上体だけは起こす事が可能だった。


 汗で張り付いた前髪を乱暴に拭い、依月は真っ直ぐに凛也を射抜く。


「違うって、言って。隻弥は死んでない、死んでないって言ってるの!」

「――誰が、そんなことを」


 必死になって凛也を睨む依月へ、凛也は思わず聞き返した。


 篝隻弥が死んでいないと告げてしまえば、依月は隻弥の元へ戻ってしまう。

 凛也はそれを避ける為に篝隻弥は死んだと告げた。


 即ち、自身の思惑の為に安易に“死んでいない”と肯定は出来ない。けれども、依月の中にある“隻弥の禍根”は隻弥が生きていると主張している。


「い、言ってる。隻弥の禍根が……まだ、隻弥が生きてるって!」


 身体中で知らしめるように、禍根は依月に教え込む。


 篝隻弥は、あのヒトは、依月の大切なあの男は、今もまだ生きている、と。


「禍根は、話すのか……?」


 唖然として顔色を失った凛也に、依月は何度も首を縦に振る。


 正式には“話す”のではなく“身体に知らしめる”だが、依月はそれを説明する程に余裕を持ってはいなかった。


 凛也が肯定しなければ、体内の禍根と依月の思考回路は矛盾して反発し合うままだ。


 依月の思考は“目の前の男が篝隻弥は死んだと言っている”と告げ、禍根はそれを否定する。



 せめぎあう嘘と本当。

 その境で依月は思考を乱されていた。


「早くっ……!」


 膨れ上がる。

 禍根は依月の身体の中で、隻弥が“生きている”という事を伝えようと蠢いている。


「……ああ、生きて、いるよ。――すまなかった。篝隻弥は、生きている」


 はっ、はっ、と呼吸が明らかに可笑しくなった依月を前にして、凛也はようやく真実を吐き出した。



 己の浅はかな企みを、思わぬ所で崩される事となってしまう。



 数秒、依月が俯いた。

 吸って、吐いてと繰り返し息を整えているようだった。



 凛也は、ゆらりとさ迷って縮んで行く鈍色に心底肝を冷やしながら、安堵の息をはあっと吐き出す。


「そんな障害があるなんて、思いもよらなかったよ……禍根が、喋るなんて」



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