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禍根の封印  作者: 尋道あさな
第一幕
3/71

【座敷】


 夢の底で依月は一人溺れていた。

 息苦しいその場所は依月にとっては地獄のようなものであった。


 いつものことだ。

 そう言い聞かせ、そんな苦痛を今日も今日とて我慢して歯を食い縛りながら俯いた――つもりだった。


 ハッと目が覚めて、反射的に依月は身体を起こした。

 その際、背中にピリリとした小さな痛みが走ったが、それに構うよりも早く意識が途切れる寸前のことを思い出す。


 さっきのは、さっきの“あれ”は夢だったのかと酷く混乱しながら回りを見渡した。

自分は何かに襲われた――と言うよりも、何かに身体を溶かされた。それが夢であったのならば、随分とリアリティーに溢れた夢だ。


「え……?」


 いつもと景色が違っていた。

 目覚めの時に目にしている、自室の壁紙が見当たらない。


 見たことのない広々とした和室の中心で依月は目を覚ました。横になっていたのは和柄入った布団であってベッドではない。その見慣れない寝具が依月の不安を更に煽る。


 ここは、いったい。


「――目ぇ覚めたか」


 ビクッと分かりやすく揺れて依月は振り向く。

 だだっ広い和室の端で、古びた本を片手に自分を見つめる男がいた。


「まだ朝にはなっちゃいねぇ。早いうちに家に帰れ」


 和服の男――セキヤは、本を閉じて立ち上がった。

 用件は言ったとばかりに出て行こうとする後ろ姿に依月は慌てて口を開く。


「私、死んだんじゃないの……?」


 その言葉に対してセキヤはぴたりと立ち止まる。

 口に出しはっきりと事態を思い出してから、依月は状況に愕然とした。


 私は多分、死んだはずだ。


 それなのに今、生きている。


 幻や思い違いの類いではなく、私は確かに死んだはず。意識を失ったと表現するのが憚られるくらいに、ずっとずっと深くて儚く、尊い消失を感じていた。


「ああ、死んだな。お前は昨晩、俺の目の前で息絶えた」


 興味無さげに淡々と告げられた事実は、到底聞き流せないものだった。


 セキヤは無表情で庭の風景を見ながら、依月には振り向かずそう告げる。態度が物語っていた、セキヤは依月に興味がないと。


 死ぬ直前の瞬間を思い出し、依月はふいに吐き気を覚えた。


 溶けていく身体、声にならない叫び、いっそ一思いにと思わずにはいられなかった。けれど、どうしても死にたくはなかった。


 ぶわりと込み上がって来た冷や汗と激しい吐き気に(あらが)えず、依月は布団の上に思い切り嘔吐した。それは、死んだ事への恐怖からか生きている不思議への抵抗からか。


 音から察するに嘔吐したであろう依月の反応はもちろんセキヤにとっては想定内だった。

 流し込んだ“セキヤの力の片鱗(へんりん)”は決して軽いものではない。

 セキヤはゆっくりと振り返り、依月をただ一瞥して。


 パチン、と小さく指を鳴らした。


「う、え――――」


 それにより、再び依月は無音に囚われていた。

 聞くに耐えない汚い音を出しながら嘔吐しているにも関わらず、その動作に伴う音が出ていない。


 ――あの男が、そうしてるんだ。


 確信があった。さっきも同じ事をされたから。


 どういう原理かは分からないが、発せられる声や音が全て遮断されていた。

 焼けつくようなひりひりとした喉の傷みとおさまらない吐き気に息苦しさを感じ、涙を浮かべる。


 和室の障子がスッと開いてその向こうから青年が顔を出した。


「おはよう……あ、まだ馴染んでないのか。辛いよね、少しの我慢だよ」


 ぜぇぜぇと息を荒くしている依月に向かって、新しく現れた男は悠長に微笑んだ。


「俺、ハヤミね。速い水で速水。ごめん、勝手に財布見たけど……安西依月ちゃんね、高校生かな?」


 青みがかった灰の髪、所々に白髪のようなものが混じっている男は煙草を銜えたまま保険証を掲げて見せた。


 ノンフレームの眼鏡と気軽な話し方はかなり胡散臭いものだ。切れ長の双眼はゆらりと鈍く光って男を怪しげに見せた。胡散臭い。そんな印象を依月は抱いた。けれども、印象以外にじっくりと他を観察している余裕はなく、依月は再び俯いた。


「依月ちゃん、学校って何時から?」


 このタイミングで質問になんて答えられる訳がないでしょうが!と、速水に苛立ちを抱きつつ、荒れ狂う胃を(なだ)めようと依月は何とか呼吸する。


 息を吸えば胃液がせり上がってくる。中々止まらない。

 身体が冷たくなっていくような感覚に震えながらもぎゅっと目を瞑り吐き気を我慢した。


「――偉いね。受け入れようと頑張ってる。拒絶反応も薄そうだ。セキヤさん“当たり”だね、彼女。置いていかなくて良かった」


 速水はホッと息を吐き出した。

 話し掛けられたセキヤは台詞の割には感情の籠らない言葉を吐く。


「……そりゃ、可哀想なこって」


 依月にもう一度だけ視線を向けて、女が一番見られたくない現場であろう嘔吐姿をセキヤはじっと見つめていた。


「あ、この人はセキヤさん。隻眼(せきがん)の隻に弥生の弥ね。」


 ――そんなこと今はどうでもいい!


 必死の形相になっている依月はそんな叫びを胸の内で上げながら、我慢していたせいで更に量を増してしまった胃液を全て吐き出した。



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