【昏睡】
太陽の光のない、常に薄暗い屋敷の客間。
座敷に敷かれた布団の上で高校生くらいのあどけなさを持った少女が目を閉じ横たわっていた。
その隣には着流しを着た恐らくまだ若いであろう男の姿。
本を片手に男は座り、時折少女の顔を一瞥する。
「……馬鹿が」
悪態を吐いても少女は返事を返さない。
けれども、男はそれに舌打ちをしただけで、無理に起こそうとはしなかった。――と、言うよりも。
何をしても無駄になる事が既に分かりきっていた。
揺さぶっても、水を掛けても、少女は未だ目を覚まさず、眠りについたままである。
「――依月」
依月、と呼ばれた少女は男を視界に映すことなくひたすら眠りの底に沈み、一向に目覚める気配を見せなかった。
赤黒くなっていた男の髪色は以前に増して赤みが強くなっている。
それは目の前の少女――安西依月のせいで有りながら、男はそれを責めることが出来なかった。
あの時――正直に言えば瀬戸際だった。
男――篝隻弥が依月から抽出して受け入れようとした禍根――という名の強大な力の源――は、隻弥の身体で受け止めるには大きくなりすぎていたのである。
こればかりは実際にやってみなければ、隻弥の中に取り込める最大量が分からなかったのである。今のところ測定のしようがないものだからだ。
限界を感じたら“受け渡し”はその時点で中断し、日を分けて行う予定だった。
だが、隻弥は結果として取り込める量を読み間違えた。
受け入れられると思っていた禍根はそんな隻弥を嘲笑うように、予想を遥かに超えて隻弥の体内に飛び込んできた。中断させることを許さないとばかりに言うことを聞かなくなった禍根に隻弥自身もまだ頭の中で整理がついていない。
何故制御出来なかったのか。
考えても答えに行きつかない。
あのまま禍根にやりたい放題蝕まれていたら、隻弥の身体はもう使い物にならなくなっていただろう。
依月が眠りについてもう一週間が経つ。今でも隻弥の脳裏にはあの瞬間が鮮明に蘇る。
ぐしゃぐしゃの顔で、引きつった顔で、無理やりにでも作った笑み。自身を強く抱き締めた、震える腕と今にも崩れ落ちそうなほど力の入っていない体躯。
涙と吐瀉物で服も何もかもを汚したまま、依月は血だらけの隻弥を抱え込むようにして強く抱き締めた。
大丈夫、と言いながら。
何度も繰り返し「怖くない」と口にして、依月は隻弥の身体を離さなかった。
怯える瞳には決意の光が浮かんでいて、隻弥はあの日からというもの、毎日のように依月のその瞳を思い出す。
拙く唱えられた開錠の言葉が、隻弥の痛みを半分以上も引き受けた。
そして、依月は正しい術の使い方も知らないままに、癒しを隻弥に施した。が、術は当然未完成のもの。とてもじゃないが、褒められるようなレベルではない。
依月は、隻弥の痛みを引き受けてあまつさえ傷も癒そうとした。
傷は中途半端に癒され、引き受けた急激な痛みに耐えられなかった依月は、ショックの余り気絶して今現在深い眠りに陥っている。
ショック死しなかったと言うことが、まるで奇跡のような状態だった。
依月によって痛みと傷を半分程度もなくした隻弥は、意識をはっきりと取り戻すなり即座に依月へ術を掛けた。
長年禍根と付き合ってきたことにより、隻弥の禍根のコントロールは依月とは比べ物にならない。受け渡しの際には制御出来なかったこともあって隻弥は多少の警戒をしたが、問題なく術は行使できた。そのおかげで依月はなんとか一命を取り止めた――が、中々意識は戻らない。
「何が“大丈夫”だ。大丈夫じゃねぇ癖しやがって」
隻弥は呟く。
聞こえないと知っていながらも、今の隻弥に出来ることは依月へ毎日悪態を吐く事くらいだった。
目覚めさせようと書庫中の古い文献を漁っても、目ぼしい物は見つからない。
それが苛立ちをさらに強くした。
あの日から、速水は八衣を隻弥に近付けようとはしない。八衣の顔を見てしまえば、隻弥が怒りを募らせると分かっているからそうするのだろう。
読み掛けの本に書かれた知識は既に頭の中に入っている。再読する必要はない。しかし、依月が目覚めた際に目覚めを待っていたと思われたくないので隻弥は読む必要のない本をぼんやりと開いたまま眺めている。
何故だか隣に居ることが依月のためになるような気がして、柄でもないと思いながら傍を離れられないでいた。
禍根が一つになろうとして、依月と隻弥を惹き付ける。
そのせいだろうと思いながらもそれだけではなく、隻弥は――依月を見捨てられない理由がもう出来てしまっていた。だから、依月が目を開けるのを今か今かと待っている。
「早く起きろ。……やる事が詰まってんだよ」
教えなければならない事が沢山ある。
依月が禍根と付き合い生きていく為に、隻弥は依月を鍛えなければならない。
深く息を吐き出して、隻弥は眠る依月の頬にひんやりとした自分の手を当てた。
「依月……」
掠れ気味に呼んだ名前に本人の返事は返って来ない。
曇りがちな隻弥の瞳は、更に霞を強くしていた。
泣きそうにぐっと歪んだ後、近付いた気配に気付いて静かに目を瞑る。
――弱音を吐くのはらしくねぇ。
次に開いた時、双眸は気怠げないつもの色に戻っていた。
「隻弥さん」
開いた襖の向こうから、速水が顔を覗かせる。
呼び掛けられた隻弥は緩慢な動作で顔を上げた。
「何だ」
速水の困惑の表情が隻弥の視界に入る。
「……来客です」
一般人の入れない屋敷に来客とは可笑しな話だ。
けれども、隻弥の瞳は怠そうに濁ったままで、取り乱す事はない。寧ろ、知っていたとでも言いたげな面倒そうな表情で速水の言葉に頷いた。
「すぐに行く」
赤錆の髪をがしがしと掻き回し、隻弥はふっと依月に目線を落とす。
いつ目が覚めるのか――隻弥にもそれは分からなかった。




