【目覚め】
「あっつ……」
とりあえず隻弥はさておき、八衣と速水の二人の足首を掴んで引き摺って布団の上に転がした。普段滅多にしない肉体労働により依月の呼吸が荒くなる。
寝かせた場所は最初に依月が寝かされていたあの広い座敷で、その部屋の押し入れから布団を拝借して敷いた。
座敷の場所を探すのにも約一時間が掛かったが、全員息が止まっていると言うこともなくただ疲れ果てて眠っているような状態に見えた。ならば緊急事態ではないと依月は判断した。
貧弱な女子高生にしては頑張ったと自身を褒めてやりたい。
八衣と速水を和室に転がし、隻弥の元へと戻る途中で薬箱も取ってきた。隻弥の身体に出来ている真新しい火傷と皮膚が裂けたような傷痕を治療する為である。
「……うっわ、うわ、痛い」
自分の身体に起きた傷ではないのに、見ているだけでも痛くなる。
消毒液を贅沢にじゃぶじゃぶと掛けながら依月は治療を施した。もしも速水が起きていたら、恐らく勿体ないと嘆いただろう。ガーゼをあるだけ使い、包帯もあるだけ使用した。着流しをぺらりと捲った下半身はなるべく見ないようにしつつ、膝上から足首まで包帯を巻く。
――褌ではなかったと、ホッとしたのは依月だけの秘密である。
上半身も出来る限り脱がして、肩から手首に掛けて両腕に包帯を巻き付けた。顔の傷には絆創膏を貼るしかなく、異様なまでに絆創膏だらけの隻弥の顔が仕上がった。
力いっぱいに、でも気を付けながらうつ伏せにして背中に軟膏を塗り付ける。塗り終わると依月は一仕事終えたとばかりに深く長く息を吐き出した。
「やっと終わった……。いま何時?」
携帯を見に行くべく立ち上がると、足首に隻弥の手が巻き付いた。
「隻弥起きてっ、ないし」
目が覚めたのかと一瞬思ったが、そうではなかったらしい。
仕方なくその場に留まり、ゆっくりと腰を下ろした後、隻弥の顔を眺め始める。
「隻弥、さっき笑ってたね」
馬鹿にした笑みではなく、ホッとしたように笑った顔を思い出し、むず痒い気持ちになった。
「なんで死ななかったのかな……」
足首を握る隻弥の手を外そうとして、依月の手が握られた。
「……ちょっと、隻弥さん。なんか恥ずいんだけど」
そうは言っても、隻弥の行動は無意識だ。
握られた手を一瞥して、照れ隠しに空いた手で隻弥の額をぺちんと叩く。
「……しょうがないなぁ」
今回は依月がそう言う番だった。ごろんと隻弥の隣に寝転び、繋いだ手を握り返す。
――始まりは、今この刻
依月の中にある禍根が歪みの中に依月を落として、暗い場所へと引き摺り込もうとしていた。
依月が目覚める数時間前に、隻弥は意識を取り戻した。
開いた瞳はゆっくりと動き依月の姿を視界に捉える。
「生きてっ……るな」
規則正しい呼吸を聞いて、危惧した事態は免れたと胸を撫で下ろしはしたものの――
「殺すべきでしょ、隻弥さん」
「……」
先に目を覚ましていた速水は依月を監視するかのような厳しい目で此方を見ていた。
「何の力もない俺でも分かりますよ。依月ちゃんはもうただの人間じゃない」
「誰の過失だ」
「……隻弥さん」
「誰がこれを引き起こしたのか、俺の目ぇ見て言えよ。なァ?」
今にも速水の息の根を止めるぞ、と言い出しかねないほどに隻弥の眼光は鋭かった。
その迫力に飲まれないよう速水は隻弥から目を反らす。依月の身体から発っする禍々しい程の禍根の気配は隻弥と長く付き合って来たおかげなのか速水にも伝わってくる。
触れたもの全てを災厄に落とす。禍根のどす黒いオーラが依月の身体に付き纏う。
「八衣を止めるのはお前の役割じゃ無かったか?」
「……すみません」
「失敗したのはお前で、依月は何もしちゃいねぇ。都合が悪くなったら殺すか?お前がそれを本気で言ってんなら――」
ゆらりと上がった隻弥の右手が、速水に向かって翳される。
「俺はお前を躊躇なく消す。……八衣が依月にしたようになァ」
身体が凍る感覚を速水は味わっていた。依月のように禍根の欠片も何も持っていない速水には生き残る術がひとつもない。そして、篝隻弥は躊躇いなく本気で速水を消すだろう。
「冗談、ですよ。わかってます、隻弥さんはそんなに簡単に依月ちゃんを放り出したりしないって。言ってみただけですよ」
「覚えて置け。お前が口にしたその言葉はな、八衣が泣き喚いて暴れて怪我してまで抗議して、篝に撤回させたもんだ」
かつて、隻弥の身に降り注いだ“強大な禍根”は篝一族の人間から恐れられていたものだ。
殺すべきだと言った一族の人間を八衣は凄まじく批判した。
欲しいと思って手に入れたものではないのに、与えられた不幸を慰めこそすれ殺すなどと非道な事は許されない。
開錠師の後継者である東雲八衣に対し、開錠師の素質を持たずなんの役にも立たない篝一族の一部は慌ててそれを撤回した。
一族の中でも“開錠師”になれるのは、ほんの一握りの人間だけだ。その他は当主と後継者にへりくだるのが当たり前だった。東雲家と篝家はこの辺りの地域では大きな力を持つ家系で、その東雲家の後継者に逆らうことは篝家としても分が悪かった。
「俺が依月から抽出すりゃ、少しは収まりがつくだろうよ」
「そんな事したらまた隻弥さんが!」
「速水」
「……はい」
「お前は依月に優しくねぇな。……コイツが俺に何かしたか?してねぇよなァ」
「それは、そう、ですけどね……」
「俺の気紛れで生き延びて、八衣の暴走に巻き込まれて。――他に言いたい事はあるか?」
聞いておきながら反論は許さないとばかりに速水の顔を睨み付けた。
依月は被害者と言えるだろう。隻弥に出会わずあのまま死んでいればこんな事にはならなかった。隻弥が起こした気の迷いで生き延びて、八衣にただ妬まれただけだ。たとえ、依月本人が生きたいと願ったとしても隻弥が捨て置いていたならば、速水からこんな風に言われる筋合いは無かったのである。
「抽出してそれでも足りねぇってんなら、もう育てる他に道はねぇ。……俺がして貰ったように、依月にそうしてやるしかな」
隻弥に制御を教えて育てたのは、篝一族ではなく東雲一族の前当主。つまりは八衣の祖父だった。既に亡くしてはいるものの、幸い隻弥の頭の中に知識と遣り方は残っている。
「もし俺がどうにかなっても依月には何もさせるな。あいつの禍根を使って俺を助けようなどとお前が吹き込んだりしたら八衣を殺す。二度の過失は許さねぇ」
一度目の過失は八衣の事を指しているのだと気が付いた。そしてその罪が止められなかった速水にも責任があると言うことだ。
「依月に何かあったらお前ら二人を殺す。死にたくなきゃやるべきことは分かるな?」
それは余りにも冷酷で無慈悲な命令だった。命を掛けて依月を守れと速水に言っているのである。
「……はい」
命の恩人から告げられた言葉は重たい。
隻弥の与えた禍根は依月の中でとっくに身体に馴染んでいた。そして、それはすなわち依月の禍根とも呼べるようになってきていた。
無理やり流し込んでしまった八衣の能力に反応して依月の体内の禍根の色が変わった。隻弥の禍根から依月の禍根となった力は、依月を死なせない為に隻弥が自身の禍根を注入し続けたことによって更に力を増し混ざり合った。
隻弥の禍根に後押しされた依月の禍根はあっという間に大きくなり、眠っていた依月の潜在能力を目覚めさせるまでに至った。
故に、今この時から依月は禍根持ちとなる。
隻弥と同じかそれ以上かそれ以下か、明確な力の大きさは分からない。だが、隻弥と八衣の力を自らのものとして取り込み覚醒したことを考慮すると――この場にいる誰よりも強い力を持っていることになるだろう。
研究員として働く速水の見解はほぼ正解と言ってもよかった。ただし、それを裏付ける研究は出来そうにもない。禍根の力があまりにも不安定で未知で強大だからだ。
隻弥のように安易に使いこなせるまでに、何年もの月日が掛かり何人をも死に追いやる。
そんなものを喜べる人間は一部の異常者を除けば滅多にいない。
そんな力を手にしたと依月本人は露知らず禍々しいオーラを放ちながら寝息を立てている。
殺されるかも知れなかった危機を逃れ、隻弥の覚悟も知らぬまま、依月は夢の中でナタデココゼリーを食べていた。




