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禍根の封印  作者: 尋道あさな
第一幕
2/71

【死者蘇生】

 

 時は少し(さかのぼ)り、数十分前へと巻き戻る。


 ごく普通の一般家庭に生まれ、金銭面でも何不自由なく暮らしていた高校二年の安西依月は「ナタデココゼリーが食べたい」と突然思い立ちコンビニへと向かった。

 そして、薄暗いながらも街灯に照らされ見通しも良い慣れたいつもの帰り道を一人でのんびり歩いていた。


 住宅街の細道を早足に通って、自宅への最短距離で帰路を辿る。


 そんな依月の前にドスン、と鈍い音を立てながら突如落ちてきた鈍い物体があった。

 何が落ちてきたのかと、依月は暗がりに目をこらす。



 最初はそれが何なのか、まったく分からなかった。


 けれども、その物体が僅かばかり動いた事に、依月は好奇心を高ぶらせて脳裏で影当てクイズをする。

 怖がらないで、少し見るだけだよ、と近付いたその刹那――黒い物体はぴょんっと一跳ねした。


 てっきり猫の類いかと思ったのだ。塀の上を優雅に歩く、愛らしい動物ではないかと期待していた。けれども、身体をずらして影の向きを変え、それが見えるようになった時、初めて違和感を抱く。


 月明かりに照らされたそれは想像していたような可愛いものではなかった。


 “これ”は、何だ。


 闇夜にうごめく黒い物体はじゅわりと音を立て、唾液のようなものでコンクリートを溶かしていた。軽快な動作で地面と宙を行き来する。不気味なほどにつるつるした軟体の身体を揺らして時々小さく跳ねている。


 スライムのようなその姿はどこからどう見ても動物ではなく、かといって、今まで依月が目にした事がある生き物には全く似ていなかった。


 好奇心とは厄介なものだ。

 依月はそれが何なのか、もっとよく知りたくて一歩踏み出した。


 知識の中にあるものと照らし合わせるなら、スライムに限りなく近い。ゲームやアニメなどで見たことのあるものよりずっと不気味だが、物体としては一番近い。大きさは一メートルもないだろうか。けれども五十センチ以上は確実にある。


 目の前に現れた大型の黒スライムには、口だけがついていた。

 そこからよだれが垂れ流しになり、ちょっとやそっとじゃ溶けないはずのコンクリートは簡単に溶かされている。


 気持ちの悪い物体は、依月にじわじわと近付いて来る。


 得体の知れないそれに、依月はようやく恐怖した。

 恐怖を実感した途端、身体が強張る。逃げようにも、ぴくりとすら動かなくなってしまった。


 不思議と頭だけが冴えているような状態で、金縛りにでもあったのかと思うほど身体が言うことを聞いてくれない。


「――ぎゅわ、きゅ、ぎゅあ、」


 物体は変な声で啼きながら、依月に迫っていた。


 声が出ない。動けない。


 胸をぐっと押され圧迫されているかのような息苦しさを感じながら、依月は強張った身体を叱咤(しった)する。


 動け、動け、動けっ!


 必死にそう願ってみても、依月の足は頑なに動かなかった。


 誰か。だれか、きて。たすけて。


 表情は今までにないほど引き攣っていた。胸中だけで必死に叫ぶ。


 お願い、たすけて。


 声がうまく発せない。一体これは何なんだ。


 一際大きく跳ねたそれとの距離がぐっと縮まって、スニーカーに物体が乗った。


 そして、


「あ、あ、いやっ、や、来なっ」



 ――依月の足が、溶けた。



「い、いやあああぁぁぁっ!」


 じゅわりと足首から下にそれの口から唾液が垂れて、塩酸が掛かったような勢いで皮膚が溶け始めた。がくんと腰を抜かしてしまい、その時点でもう逃げることが叶わなくなってしまった。


 更にそれは調子付いて跳ねる。

 傷みと恐怖でぐちゃぐちゃになった顔を晒しながら腰を抜かしてしまった依月が、それから見て格好の獲物になった事は言うまでもなく明らかであった。


 喉がれるくらいの大声で叫んだはずなのに、誰も助けに来ようとしない。間近に見える一軒家も近くに建っているアパートも、窓すら開けずに無視を決め込んでいた。



 “それ”が膝に乗った瞬間、依月は再び激痛に襲われる。


 声にならない叫びが漏れた。



 直後、覇気のない声が耳に届く。


「さっさと逃げりゃいいものをなんで律儀に捕まってやったんだ?馬鹿か、お前」


 (だる)そうに、馬鹿にするように。


 いきなり現れた男は言った。


 ぼりぼりと後ろ頭を掻きながら、その男は突然依月の前に姿を現した。

 男がパチンッと指を鳴らすと依月の周りの空気が揺れる。痛みによる彼女の絶叫は“音”にならず、ただ唇だけが「あ」の形を作っていた。


 声が出ない。音が出ない。


 それは恐怖によって声を失ったというようなものではなく、遮断されているというような不思議な現象だった。

 依月は間違いなく叫んでいる。叫び続けている。今までに感じたことのない、到底我慢出来ないようなひどい痛みは断末魔のような悲鳴をあげさせていた。


 それが“無”になり消されている。


「自分で自分の叫び声を聞いたって何も面白くねぇだろうが。うるせぇだけで」


 男の着ている服から布擦れの小さな音がした。どうやら声や音を発する事が出来ないのは、依月一人だけらしかった。


 足首から膝に掛けて、ふくらはぎの部分はもう骨が所々剥き出しになっている。不可解なことに血は流れず、薄ピンクの肉と骨が依月の視界に入ってきた。それを見ただけで気を失いそうになる。が、襲ってくる痛みが強く意識を失えなかった。


「夜に出歩くなって親から教えて貰わなかったか」


 ずざ、と男はコンクリートの上を草履を引き摺りながら歩く。


 うごうごと蠢いている黒い物体は、依月の太股にまで到達していた。皮膚が溶けてしまった薄ピンクの肉の上を、黒い物体が這っていく。


 依月の足は黒ずんで、所々が唾液で溶けていた。

 その間も悲痛な叫びをあげ続けているのに、それは“音”として響かない。


 鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった顔で依月は身体をなんとか捻る。意識を保っているのが不思議なくらいだった。血が流れていないことが関係していたのかも知れない。


「あー……、そりゃイテぇよなぁ。死んだ方がマシだと思うだろ」


 赤錆色の無造作に伸ばされたぼさぼさの髪に、やる気のない冷めた瞳。

 だらりと右肩からずり落ちかけている千歳茶色の着流しは所々傷んでいて、まるで男の無精を体現しているかのようだった。あまつさえ男は依月を目の前にして退屈そうに欠伸までして見せる。



 たすけて。



 声にならない叫びの合間で依月は必死に願っていた。


 誰かは知らないけれど、いかにも怪しげではあるけれど。お願いだから助けて欲しい。

 鼻水を垂れ流しながら、それでも懇願するように涙を溢している不細工な依月に男は一瞬だけ目を見開いた。


 戸惑った風に男は鼻の頭をかく。


「……なんだ、お前。もしかして……俺に助けを求めてんのか?」


 驚いたと言わんばかりの目をしたが、すぐに顔を顰めて首を傾ける仕草は都合が悪いと言っているかのようだった。


 依月は視線をそらさない。


 痛い、痛くて、苦しくて、意識は既にぎりぎりのところだ。それでも男をじっと見つめ続けた。


「……本気か」


 誰だって構わない。この激痛から、この苦しみから、解放してくれるなら。どんな不審者だろうと構わない。


 この状況では当たり前だが、依月は目の前の変な男に助けを求める事しか出来なかった。


「……お前、見て分かんねぇのか?」


 男は依月を見下ろして。


「助けるつもりならこんなのんびりするかっての」



 絶望的な言葉を口にした。





 呆れた顔をする男は依月の側にしゃがみ込んだ。

 手を伸ばせば届く距離に、睫毛がはっきり見えるほど顔を間近に寄せて。


 それなのに様子を見るだけで一向に手を出そうとはしなかった。


「……遅ぇなぁ。やっぱ国にゃ務まんねぇんだろうな。お前も犠牲になるって訳だ。可哀想なこったな、無能な連中のせいで若いのにここで死ぬ」


 本当に馬鹿馬鹿しいなと言葉を続けて、男はコンクリートに座り込んだ。

 依月から視線を外して月を見上げ、男はゆっくり唇を開く。


「お前を見捨てる事に躊躇いもねぇ。そんなもん、とっくに無くなった」


 そう、言葉を吐き捨てた。


 眉を寄せ、その後すぐにふっと表情をゆるめ諦めたような顔をする。依月は、ぼたぼたと地面に落ちる涙と鼻水に吐き気すら催しながら必死の思いで意識を保つ。


「お前を見捨てる事なんざ簡単に出来る。助けてやる義理もねぇ。もう、時間もねぇしなあ。お前死ぬことが決まってんだよ。今から俺が何かしようと、必ず死ぬ」


 冷めた目で、冷めた顔で。


「なあ、それでも、こんな男に助けて欲しいか」


 男は気怠げに言葉を紡いだ。



 矛盾している。見捨てるつもりの人間に対して、問い掛ける行為をするなんて。けれど、ここで縋れる相手は目の前の男しかいなかった。

 目一杯の力を総動員して、依月は首を縦に振る。

 しかし、男は動かない。

 怠そうな瞳を依月に向けて、小さく溜め息を吐いていた。


 依月はそれでぼんやり悟った。助けるつもりなんて無かったのだろう。


 もう、駄目だ。


 暗転した視界が、それを物語っていた。

 最後の雄叫びは切なく口内に飲み込まれてしまう。


 やりたいことが沢山あった。まだまだ思い遺したことが山ほどあるのに。


 ――こんな所で死にたくない。


 勿論、心の中にしか響かなかったそれは、不思議な事に依月の耳に微かな余韻を残していた。



「すげぇ(ねん)だな」



 念――今のは執念だろう。


 死ぬ間際に発する念は様々な形があるが、よっぽど死にたくなかったのだろう。思わず身を引くほど強く濃い念だった。


 男は感心したように瞬きをしながら、息絶えた依月の身体を覗き込む。


「心臓、止まっちまったか?」


 依月の額にそっと触れて、男はその亡骸を見下ろす。


 まだ若くて楽しい盛りの少女だろうに、犠牲になったのは不運としか言い様がなかった。


 男が先ほど問い掛けた言葉に、少女はぎこちなくも頷いた。強い瞳と痛みに歪んだ表情、最後の最後で発した念。死にたくないと、願って死んだ。


「悪いが治すのはどうにも上手く出来ねぇ。してやれることは一つだ」


 男は依月の頬に手のひらを当てて、腹部に乗った黒いものに反対の手をスッと(かざ)した。


「――カイジョウ」


 (うごめ)いていた黒い物体は、男の一言で砂になった。



 死後硬直を始めた依月の身体を前にして、男は再び面倒そうに溜め息を吐く。


 治療は全く得意ではなかった。

 例え、彼女にそれをした所で間に合いはしなかっただろう。

 とっくに手遅れの状態だった。

 そんな中で意識があったことが奇跡のようなものだ。


 最後に依月が発した叫びの念が男の耳にしぶとく残る。生かすか否か、少し考えてから男はわしゃわしゃと自身の髪を掻き乱した。


「まぁ、こういうのも悪かねぇか」


 赤錆の髪を持つ男は気だるげにごきりと首を回して、死んだ依月に顔を寄せた。


 優しくも甘くもない乱暴なだけの口付けをかまし、依月の口内へ舌を入れる。まだほんのりと温かい依月の舌に、男は自身の舌を絡めた。

 唾液が混ざり合い、依月の身体は更にひやりと冷えていく。けれども徐々に顔色が良くなっていく依月に対し、男は小刻みに身体を震わせた。

 首回りに梵字(ぼんじ)のようなものが浮き上がる。赤黒く、切り傷と言えるであろう深さで刻まれた傷がじわりじわりと男の首筋を蝕んでいた。次第に血が滲んでいく。

 まるで、男のやっていることを全力で拒絶するかのように傷は激しい熱を孕んでいた。それでも男は顔色を変えず、冷めた瞳で口付けを続けた。


「……しょっぺえ。まぁ、でも、こんなもんでいいか」


 数分して、ようやく唇を離した男は着流しの袖で口許を拭った。

 涙だか鼻水だかに塗れた依月の唇は不愉快で無意識に眉間に皺が寄る。


 そろそろ立ち去ろうかと立ち上がった刹那――それを咎める声が背後から掛かった。


「いやいや、駄目でしょ、セキヤさん。助けたなら最後まで責任持たないと」


 そう言って姿を現した影に、セキヤと呼ばれた男は苛立ちを隠しもしない顔で振り向いた。


「来るのが遅ぇんだよ、ハヤミ。そんなんでコイツらの相手が出来る訳がねえ」

「いや、俺は研究職で担当部署違うんで、無茶言わないで下さいよ」


 ワイシャツ姿でノンフレームの眼鏡を掛けた白髪混じりの髪の男――ハヤミは煙草を燻らせながら困ったように眉根を寄せた。


「車、そこに停めてあるんで乗せていきましょう」


 ハヤミはセキヤに提案する。セキヤはどうでも良さそうに片手を挙げて「好きにすりゃあいい」と言い放った。


 胸部から顔に掛けて浮き上がっていた梵字は段々と薄くなっていく。セキヤの後ろ姿を見つめながらハヤミは少し微笑んだ。


「後で彼女に何をしたのか説明してくださいね!」


 問いかけに返事は無かった。しかし、ハヤミは気にした様子もなくコンクリートの上に横たわる少女へと視線を向ける。


 面倒くさがりのあの男が助けた。

 それだけでも充分に少女に価値があるように思える。


 連れて帰るつもりは無さそうだったが、ハヤミに「ほっとけ」とも言わなかった。気にしているということだろう。


 軽くはないが持てないこともない少女の身体を持ち上げて、ハヤミはその場を後にした。



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