【数珠】
翌日、学校へ向かう途中で隻弥は依月の前に現れた。
送り迎えをすると昨夜言われていたのである。いつもよりぼんやりとした目付きをしている事に気が付き、依月は隻弥の顔を覗き込む。
「おはよう、隻弥。朝からありがとう」
「……ああ」
「なんか眠たそう。寝不足?」
「そうだな」
「ずっと本読んでたんじゃないの?ちゃんと寝なきゃ身体に悪いよ?」
「まずその減らず口を閉じろ」
「まさかの朝から不機嫌パターン……」
「ああ?」
「何でもない」
速水が言うに、隻弥の姿は基本的には周りに見えないようになっているらしい。
隻弥が纏う呪いで、隻弥を見た人間の眼界を妨害――つまり、視界には入っているけれど隻弥を見ようとすると瞳にフィルターが掛かった状態になるらしい。
本人も気付かないうちに隻弥だけにフィルターが掛かり、隻弥を認識出来ないようになるのだと速水はこれよりもずっと小難しく長々と依月に仕組みを教えた。
隻弥や開錠師の術と言うのは、本来ならば誰でも使えるもの何だとか。修行を積んで、潜在能力を引き出せるようになれば、誰でも術や呪いは使えるらしい。
ただ、その修行の遣り方も術の使い方も一族での機密事項で、一般的に知られる事は今もこれからも永遠に無いと言う。
隻弥は開錠師の中でも少し違うと速水は依月に教えたが……詳しい事は隻弥が聞かせてはくれなかった。ただ、“禍根”と言うのは潜在能力にかなり影響を及ぼす物だと、それだけは聞かせてくれた。
「……無くすなよ」
「うわっ……あ、数珠っ!」
ぽいっと隻弥が投げた物をぎりぎりの所で受け止めて、依月は手のひらにあたった珠の感覚に気付く。
まじまじと数珠を見つめ、前の物より赤みの強い珠だと分かり、隣を歩く隻弥を見上げた。
「前のより赤々しい」
「おま……、依月、文句言うなら返せ。食われても良いならな」
「良くないです。ありがたく頂きます!もしかして寝不足の原因ってこれ?」
「他に何があんだよ。朝から煩ぇ」
「それで“減らず口”だったんだ。……ごめん、何にも知らないで」
「……依月は」
「え?」
「素直だな」
隻弥の身の回りには、捻くれた人間が多過ぎた。
素直さに耐性のない隻弥から見ると依月は奇妙な人間に見える。打てば響くのに、そこに嫌味や裏が含まれていない。それはなぜか、隻弥にとって辛かった。
「……普通だと思うけど」
依月にしても、その言葉は痛かった。
母親が依月に言った「依月ちゃんはありがとうとごめんなさいが上手に言えるから偉いわね、きっといいお姉ちゃんになるわね」と言う、妹のお手本として誉められた言葉を思い出してしまったからだ。妹が母に宿る前は依月だけに向けられた言葉だったが、妹が出来てからは母はよく「いいお姉ちゃん」と言うようになった。
しんみりした空気を振り切るように、依月は笑って見せる。
「隻弥。これ、本当にありがとう。もう壊したりしないから」
絶対に、と宣言する依月に隻弥は呆れた目を向ける。壊したのは依月ではないからだ。
「……どうだかな。学校じゃ居場所がねぇんだろ?また同じ事やられるんじゃねぇのか」
依月はぐうと変な声を漏らしたが、首を振っていま思いついた回避策を口にする。
「やられそうになったら逃げる。経験をいかして次はないように!」
依月は意気込んでいるが、隻弥は呆れた表情のままだ。
逃げている最中に怪我さもされたらかなわない。余計なことはしてくれるなと言いたかったが、一度言葉を飲み込んで依月が受け入れやすい言葉を探す。
ああ、めんどくせぇ。なんで俺がここまで考えてやらなきゃいけねぇんだ。そうは思うが、なにせ依月が馬鹿なので面倒な事態を回避させるには頭を捻って言葉を選ぶしかないのだ。
「……壊したら、また作ってやる。それよりも無くすな」
隻弥の言葉に依月がきょとんと目を丸くする。
「壊すより無くす方が悪いの?」
「そりゃそうだろ。馬鹿かおま……依月」
「……」
「……」
「もう“お前”でも良いよ」
諦めた表情でそう言った依月に隻弥は頬を掻いて顔を背けた。
流石に何度も「お前」と呼んだ事に関しては悪いと思っているらしい。
「いや、約束は守る。破って泣かれるのはめんどくせぇ」
「……破って泣かれた事が、あるんだ?」
依月の聞き返した言葉に、隻弥は一瞬ハッとした。
まるで、言うつもりは無かったと言わんばかりに目を見開いて。
「――前の話だ」
軽く舌打ちをして隻弥は自身の失言に苛立った。
依月と会話をする度に、ボロが出そうになるこの緩みは――恐らく、禍根の放つ引力だ。
他人に与えたのは初めてで、隻弥にも未知の体験であるそれらはどうも依月と隻弥を打ち解けさせて、一つに纏まろうとする。
禍根は体液で譲渡が出来る。隻弥の中の禍根と依月に分け与えた禍根が元通りになろうとして引き合う。人間の感覚で言えば”一つになりたい”という気持ちを湧き上がらせる。そこに行きつくまでの感情をじわじわ引っ張り出されているような感覚があった。
――情が湧く。
けれども、隻弥はそういった方面の感情の名前を知識の上では知っていても経験は皆無に等しい。そしてそれは依月も同じだった。禍根が誰にも知られないところで、二人にひっそり呆れた。
「隻弥、学校行きたくない」
駄々を捏ねる子供みたいに泣き出しそうな顔をして、依月は隻弥にそう言った。
「本題はそれか」
何か言いたげに視線をさ迷わせていた依月には気付いていたが、振ってくる話しの全てはその本心に直結しておらず、何が言いたいんだと思っていた矢先だった。最初、隻弥に会った時から依月はこれを言いたかったのだと漸く隻弥は気が付いた。
「……そりゃ行き辛ぇわな」
知るか、と言おうとした口を別の言葉で覆い尽くす。
速水や八衣ならば手酷くあしらっても問題は無いが、依月へ代価のある呪いを掛けた。放って置けば隻弥も命を脅かされる。
依月が関わりを持ちたくないと思って隻弥から逃げたなら、隻弥はそのうち死んだだろう。けれど、依月は隻弥が傍に居ることを既に望んでしまっている。
不安の種が自ら隻弥の手元に来たのに、わざわざ逃げさせるような事もない。――だだし、距離はそれなりに取らなければならないが。依月はかつての少女と被り、隻弥の心を乱してしまう。
「屋敷に行っても良い?」
「好きにしろ」
「学校、行かなくても良い?」
「それは俺に聞くんじゃねぇ」
「隻弥、お母さん怒ると思う?」
「さあな」
律儀に答える隻弥へ、引っ掛かりを感じた依月は首を捻り問い掛けた。
「なんか、不機嫌かと思ったけど……今日は優しいような?」
「……」
案外、隻弥は器用ではないらしい。
あからさまに態度が違う事を、依月程度に気付かれるほどに。
「どこ見たらそうなんだよ。目と耳の治療が必要か?」
「またそう言うこと言って……でも、ちょっと嬉しいかも。無視されると会話になんないし」
ふっと表情を綻ばせ、依月は隻弥の返答に嬉しそうな顔をした。
依月のわかりやすい態度を見れば、それの表情が嘘ではないと隻弥も気が付く。依月を手離した時のリスクを考えて接したことに、多少の罪悪感を覚えていた。それでも、依月の無垢で何も考えていないであろう笑顔を見ると不思議とどうでもよくなる。
「会話になるように努力しろ。俺が答えねぇのは答える必要がねぇからだ」
無口な普段とは違い、饒舌に喋るその様子をもしも速水が見ていたら「やっぱり前の隻弥さんだ」と言ったであろう。
「えー……隻弥も努力してよ。ほら、会話って一人でするものじゃないでしょ」
「……そうだな」
もっともな依月の言い種に適当な頷きを返した後、隻弥は曲がり角で足を止めた。
「――行かねぇんだろ?」
曲がり角を曲がらずに真っ直ぐ行けば、学校へ向かう道程に出る。逆に、曲がれば隻弥の屋敷の方向だった。隻弥は再確認する為に聞いただけだが、依月にはその質問がまるで依月を試しているかのように思えた。
「……うん。行きたくない」
それでも息苦しいあの場所に、行きたいとは思えなかった。
絞り出した依月の答えに隻弥は特に何も言わず、ただ道を曲がって歩き出す。隣を行く依月が恐る恐る隻弥を見ても、眠たそうに欠伸をするだけで顔色に落胆は見られない。
「がっかり、した?」
「あ?」
「何でもない」
「……したいようにすりゃ、良いだろ。その責任は取らねぇがな」
「大丈夫、自分で決めたことだから隻弥が悪いとは思わない」
随分とはっきり答えた依月だったが、一応隻弥に責任を取れと迫った前科があるせいか――
「どうだか」
隻弥の回答は芳しくない。
寧ろ疑って掛かっている。生きたいと願って蘇生して貰ったのに、隻弥を責めてしまったことがある依月はその部分に関しての信頼を失ってしまったらしい。
「……本当だってば!隻弥のせいにはしない!」
「あーそうかよ。その言葉、忘れんじゃねぇぞ」
「忘れないって!」
薄目で依月を見下ろして、隻弥は怠そうに首を鳴らした。




