【速水那央】
速水那央は染まりやすい人間だった。
幼少期から長い物には巻かれるタイプで、社交性も申し分ない。
中学時代に至っては、同年代の男子よりも大人びていて空気が読めると言うこともあり、女子からの人気を一人勝ち取るほど。
人の顔色を窺うことに長け、人と人とのクッションになれるほど精神的に強かった。
そんな速水は高校時代、それが災いし付喪に出会うことになる。
クラスメイト数人で肝試しをしていた高一の夏。
霊が出ると噂のあった神社へ向かい神社の裏から登れる裏山へ向かった時のこと。
速水はいつものように女子を気遣いながら、怖じ気づく男子のリーダーを勇気づけつつ、裏山をゆっくりとしたペースで登っていた。
速水は自他共に認めるほど、クラスでも頼りにされている立場だった。頼れる兄貴分のような立ち位置で、そこはかとなく感じられるミステリアスな雰囲気を持ち、女子の三分の一程度は速水の行動を気にしている。
ある種、そんな立ち位置に苦労しながらも誇らしく思っていた速水は、付喪の出現により――ものの見事にクラスメイトから見捨てられる事になった。
今、速水が手にしている知識を振り返れば“あれ”は時を経た物に野うさぎの霊魂が混じり、付喪神として生まれ堕ちたものだと簡単に想像がつく。
それでも速水は当時、耳が垂れ下がって真っ黒になった得体の知れない塊に恐怖して腰が抜けてしまった。
開いた口から垂れる唾液は周囲のものを簡単に溶かし、赤く光る瞳は速水を今にも喰らってしまいそうな危ないものだった。
速水一人を置き去りに、クラスメイトは逃げ出した。
取り残された速水の全身から嫌な汗が噴き出す。
着々と近付くそれに、速水は必死に立ち向かおうと足に力を込めたけれど、ぴくりとさえ動かない。
そんな絶体絶命の状況で、現れたのが隻弥だった。
速水が高校一年生、つまりは十六歳の時。
隻弥との出会いはここから始まる。
「――よぉ、クソガキ。ダチに見捨てられた気分はどんなもんだ?」
当時の隻弥は現在よりも快活で、どちらかと言えばお喋りな男でもあった。
人をからかう事が好きで馬鹿にしたような笑みを浮かべ、言葉一つで絶望の淵へ叩き落とすことも出来る鬼畜な性格だったのである。それもそのはず、隻弥は“禍根”を古き付喪神から授かっておよそ二年で、まだまだ自我が強く環境もがらりと変わったばかりだった。
震える速水を見下し、隻弥は八つ当たりをするような勢いで次々に捲し立てて速水をこき下ろした。
「馬鹿だよなァ?取り残された挙げ句、自分じゃ動けねぇってか」
「た、助け」
「誰が助けるかよ馬ァ鹿!テメェのケツはテメェで拭け。俺にとばっちり喰らわすんじゃねぇよ」
「頼む……!助けて、くれ……!」
「言葉遣いがなっちゃいねぇな。だからガキは嫌なんだ。助けて下さいだろうが」
「助けて、くださ、」
「――ああ、手遅れになりやがった。残念だったなァ、クソガキ」
「うあああああっ……!」
じゅくり、じゅくりと速水の肩を溶かしていく付喪。
どうやら生前は人懐こいうさぎだったらしい。かつてうさぎだったものは速水の腕と肩に擦り寄って、肉が融けるような匂いと細々とした煙を醸し出す。
「……ンな顔で見んな。二度とこんな場所に来ないって約束できるか」
こくりと頷いた速水へ、隻弥はフッと笑みを溢した。
「……だったら何とかしてやるよ。約束は守れよクソガキ」
隻弥はそう念押しして、速水もまた涙と鼻水を垂れ流しながら数度続けて頷いた。
「――開錠」
怠そうに翳した隻弥の手が、付喪の魂を粒子に変える。砂のように、また、灰のように。
さらさらと欠片達は空に消える。
そのまま出した手を速水の頭部へ落とし、隻弥は治癒を促進する。徐々に塞がり始めた肩と腕の傷に、速水は目を奪われた。気味の悪い光景にも関わらず、見逃したくないとばかりに食い入るように見つめた。
「治っ……た?」
「じゃあな」
あっさりと背中を向けた隻弥に速水は慌てて顔を上げる。
「あのっ!」
「あ?」
「名前は……、貴方の名前は?」
「馬鹿か、お前。ンなこと簡単に教えるかよ」
そう答えた拍子に、隻弥の身体は傾く。
ばさり、と落ち葉の上に横たわった隻弥は悔しげに唇を噛み、苛々を発散するように大きな怒声を轟かせた。
「あンのクソジジイっ!これぐらいの治癒ならどうって事ねぇって……ああクソっ!絶対ぇ地獄に送ってやらぁ!」
当時、隻弥十八歳。速水十六歳のことだった。
その後、力を使い過ぎて動けなくなった隻弥を迎えに来た八衣が速水に隻弥を担がせて、屋敷へ戻ったことにより――速水と隻弥に縁が出来た。
そして、速水の頭髪は隻弥が力加減を間違った事で、色素に異常が出たことを現している。
隻弥が今は亡き古い付喪神から授かった“禍根”は強大なもので、与えられてすぐの頃は制御出来ず禍根のせいで周囲の人間が誰彼構わず命を落としていた。隻弥が不用意に触れれば、禍根が相手に影響を及ぼす。
禍根とは、その名の通り「わざわいのもと」である。
今はもう居ない最上級の付喪神が人間への恨みを塊にしたもので、無差別に宿主を選んでは体内に寄生する。禍根を無くすにはその神を浄化しなければならかったが、遥か昔に国の人間が大人数でその神を殺した。
もう誰にも止めることは出来ない、とても古い怨念の塊だ。
禍根が宿った人間は、力が馴染めば生きていられるが周囲に不幸を招く。
力が馴染まず拒絶反応を起こせば、その場で死に至る。
禍根によって死に至らしめられた人間は、それはもうこの世のものは思えないほどに激しい苦悶の表情を受かべて死ぬらしい。
開錠師の一族は術を行使する為に修行を重ねて身体を作るため、禍根も馴染むことが多い。
だが、一族の中で禍根を宿す人間が出た場合はすぐに殺すというのは通例だった。
不幸を呼び込む人間を一族に居させるわけにもいかない。禍根というものは本当に平等に無差別で、宿主が死ねばまたどこかの誰かの身体に宿り始める。そうして生き続けている。
不幸を引き起こす種を身体に植え付けられている隻弥は、禍根を持ち始めた当初に酷く無惨な事件を引き起こしている。その後、八衣の祖父により力の制御が出来るようになったものの――八衣の祖父は悪戯好きでほとほと呆れるくらいだった。
速水と隻弥の縁が出来たのも、八衣の祖父に寄るものが大きい。窮地に陥った速水を助けに行くように、と隻弥へ指示したのも他でもない八衣の祖父だった。そして治癒のやり方を教えたのも。
隻弥には治癒の才能が無かった。
出来ないことはないが、隻弥自身をひどく消耗させる。
八衣の祖父はそれを知っていながら、本人には告げなかった。
修行の一つにもなると判断したからだ。治癒の性能が皆無な隻弥に治癒を行わせ、結果助けることは出来たにしろ隻弥自身は動けなくなった。
並みの開錠師なら肩と腕の一部などほんの少しの力で傷を塞げる。治癒に特化して才能のあるものなら痛覚を遮断することも、精神に干渉することも出来る。しかし、隻弥は適性がなく操作も未熟。そのため、隻弥に治癒された速水の髪は若くして色素が抜けてしまうことになった。
過去の隻弥を思い出しながら、速水は信号で一時停止した車の中で缶コーヒーのプルタブを開けた。
一口飲んで、溜め息を吐く。これから研究所に戻らなくてはならなかった。
「……元の隻弥さんに戻ってくれたら良いけど」
以前の隻弥に、意地悪で鬼畜だけれども優しく不器用な隻弥に。
隻弥を目にかけてくれた人は段々と衰弱していった。隻弥の持つ禍根により、殺されたようなものでもある。
今は完全に制御出来ているからこそ速水と八衣は追い払われないものの、一体いつ隻弥が暴走して禍を撒き散らすかは実際のところ分からない。
八衣の祖父も、隻弥の一族も、全て隻弥の禍根により消えていった。
現在の隻弥は身近の人間の死を続けて目の当たりにしてすっかり自我を失ってしまった。いわば脱け殻のような状態だ。何事にも無気力で、毎日を生きることが惰性になっている。
安西依月が現れ、隻弥が禍根を分け与えたということは隻弥か依月が死なぬ限り、互いに離れられないと言うことだ。
隻弥は依月を求め、依月は隻弥を求める。
お互いに離れていれば必ず恋しくなる関係。
禍根が一つになりたいと願っているから引き寄せられる。
それでも、隻弥は依月を離し、依月も隻弥と距離を置く。
「どっちが先に堪えられなくなるかな」
速水の声を聞く者は、誰一人としてこの場に存在しない。隻弥に守られなければ生きていけない弱い依月、依月を守る度に身体が悲鳴を上げる隻弥。傍に寄り添うことが禍根にとっても互いにとっても良いことなのにも関わらず、二人は距離を置きたがる。
「……それより、八衣が邪魔しないように見てないと」
八衣が依月に手を出さぬよう気にかけておかねばならない。
あの子は隻弥に拘り過ぎる。
そうしたくなる気持ちも分かるが――八衣では隻弥を癒せない。
速水は沈んだ表情になっていることに気づき、無理にでも笑みを浮かべた。それは胡散臭いと依月に思われている、張り付けた笑顔だった。




