【禍根】
安西家、依月の自宅前に辿り着いた隻弥は無言で依月を地面に下ろし、気落ちしたように俯いて家の中へ入っていく依月の後ろ姿を静かに見つめた。
玄関のドアが閉まり、依月の姿が完全に見えなくなってから、隻弥は安西家の向かいの家を囲むブロック塀に背中を預ける。
依月の無邪気な姿を見ると、どうにも隻弥は弱い。
溜め息混じりにくしゃりとかき上げた前髪が視界の端にうっすら写る。
「……変わって来やがった」
以前よりもずっと赤みが増してきた己の髪に気付き、忌々しげに顔を歪めた。以前はもっと焦茶に近かったはずなのに、日に日に赤くなって行く。
ふと、不穏な気配を感じて、隻弥は安西家の方へ視線を向けた。
一軒家の屋根部分に、黒い塊が近付いている。
「――相変わらず、嗅ぎ付けんのが早ぇこって」
呆れたような言い種で隻弥はブロック塀の上へ飛び乗った。
「狙った相手が悪かったな。守るって約束しちまってんだ」
そう紡ぎ、宙へ飛ぶ。
とんでもない瞬発力でその場から離れた隻弥は安西家の屋根へ飛び降り、付喪と向かい合って対峙した。ぱちん、と指を一度鳴らして、音の遮断を施し、一時的な密閉空間を作り上げる。
「ぎょ、ぎょっ、ヴ、ヴヴ」
くぐもった音を発するそれはうねうねと身体をくねらせながら、隻弥から少し離れて距離を取った。
「お前らが与えたもんだろうが。何を嫌がる?」
隻弥の内に秘められた力、禍根は触れるだけで禍をもたらす。依月に与えたものとは次元が違う。
存在の小さい付喪にとっては禍々(まがまが)しく、恐れを抱かせるものだった。
付喪の中でも最上位とされる、今は亡き古い神から植え付けられたそれに大抵の付喪は近付けない。害のない部分だけを依月へ流し込んだせいで、隻弥の中に残る禍根は制御するのが難しいものばかりになった。
「情けを掛けてやる程、俺はお前らを許しちゃ居ねぇ」
隻弥の身体にふつふつと浮かび上がる赤い梵字から鮮血が流れ、地に滴る。
使う方へ多大な負担を掛ける力。それでも隻弥は自我を失わず、意のままに操る事が出来た。例え、その操作が常人にとってはショック死する程の衝撃と痛みを伴っていたとしても。
「――ああ、そうだな。人間じゃねぇよ、どう考えても」
痛みに慣れ過ぎて感覚が麻痺している。全身から流れる鮮血は不気味に隻弥を彩っていた。
背を向けた付喪に隻弥は嘲笑の声を洩らす。
「もう遅ぇ。――開錠」
隻弥の瞳が赤く光る。
手のひらを翳したその瞬間付喪の身体が砂になった。
「生まれ変わったらもう恨むなよ」
空間を壊し、それが出られるようにする。
風に浚われるかの如く天へと消えていく粒子のような欠片を、隻弥はどうでも良さそうに欠伸をしながら見送った。
元よりあった能力を使う為に“禍根の塊”を経由しなければならないせいで、隻弥は毎度浄化の為に傷を増やす。
身体が使い物にならなくなった時が、隻弥の命の終わりだった。
――そして、依月を助けた事により、確実に傷は増えている。
寿命を縮めるような真似を何故してしまったのかと自身に呆れる事はあっても、既に助けてしまったものはしょうがない。
依月が眠りに入るまで、隻弥は屋根の上でひたすら空を眺めていた。
屋敷に戻った隻弥は、玄関の柱に背中を預け凭れている速水のへばりつくような嫌な笑みに晒された。
「隻弥さん。やっぱり気になってるんでしょ、依月ちゃんのこと」
「八衣は」
「居間でムスッとしてますよ。お転婆過ぎて手に負えません」
言葉の割りには楽しそうな表情をしている速水へ隻弥は一瞥を送る。
「依月ちゃんが、彼女と被りますか」
「……言うほど似てねぇよ」
「見た目は、ね」
「速水、お前何考えてやがる」
「隻弥さんの罪の意識が無くなれば良いと思ってますよ」
飄々(ひょうひょう)と抜かす速水を隻弥は咎めない。痛いほどその気持ちは理解していた。余計な事をするなと言えば言うほどに速水は隻弥を救おうと意固地になる。助けたあの瞬間から、速水の世界は良くも悪くも変わっていた。それは隻弥のせいであり、また、隻弥のおかげでもあった。
「八衣が依月ちゃんを気に入らないのは仕方ない事だと思いますよ。でも、俺は依月ちゃんなら――」
「速水」
「はい?」
「依月は、俺を受け入れたりしねぇよ。 ……あれは良い意味でも悪い意味でも“純粋”だ」
得体の知れないものに恐怖して、それを理解しようと努力する。その結果、自分自身の考えが混乱し、最終的には曖昧な着地点に落ちてしまう。知ろうとすればするほどに未知に恐怖し怯え、それを克服しようとして無理をし苦しむ人種。
依月の内面を的確に悟り、隻弥は距離を取る事にした。
真っ直ぐ向けられた瞳には怯えと同情がありありと浮かび、隻弥の胸を痛め付けている。
「例え似てたとしても、依月と優花じゃ根本的に違うだろうよ」
そう言い残して隻弥は自室へと向かう。一瞬で気配を消した隻弥に速水は小さく呟いた。
「……書庫に入れた癖に」
速水や八衣が入る事さえ嫌う隻弥が何も言わずに依月を入れた。それだけでも分かるほど、隻弥の気持ちは動いている。
この機会、逃してなるものか――と水面下で速水は拳を握った。文句の付け所のない人好きのする笑みを浮かべ、どこか抜け目ない怪しげな雰囲気を纏いながら。




