③-第五話
ユリウスの時とは違い、とてもお忍びとは思えない格好をしているが、おそらく城下町の視察のために、城を出てきたのだろう。咄嗟にガジェの姿を探したシルビアだったが、ガジェの姿どころか護衛騎士が一人も見当たらない。
――相変わらず、お芝居が上手ね。
悪漢に追われているというわりには、まったく危機感のない顔を見返しながら、シルビアは皮肉っぽく思った。歳はガジェと同じ十九、性格は社交的で勤勉家、とても隣国の人間とは思えないほど、流暢にこの国の言葉を話している。
「あれ、君、以前どこかで……」
シルビアの顔をまじまじと見ると、キィニールははっとしたように息を飲んだ。
まるで幽霊でも見たような顔をしている。
その反応を見、シルビアはむっつりしてしまう。
――トーマスになんて言い訳しよう。
ユリウスの時といい、レオナールの時といい、もう二度と会うことはないと思っていた人たちに、こうも出くわすなんて――今はともかく、この場を乗り切ることが先決だと、頭を切り替える。
「まさか君は……」
「アマーリエさまに似ているって言うんでしょ? よく言われるわ」
あえてうんざりした調子で、相手の言葉を遮るように言う。ここは下手に顔を隠して誤魔化すよりも、似ていることを認めた上で「別人だ」と強調したほうがいいような気がした。相手がユリウスであれば、このような危険を犯したりはしないのだが、自分のことを――アマーリエ王女のことをよく知らないキィニールであれば、正体を隠し通せると踏んでいた。
「アマーリエさまのお母さまは平民出身でいらっしゃるから」
「……もしかして、君は前王妃の血縁者なのか?」
案の定、キィニールはあっさりと騙されてくれた。
さも納得した様子で、声を潜める。
「だとしても、あなたに言う必要ある?」
じろりと睨みつけると、彼は肩を落とした。
「そうか……そうだよな、死者が蘇るはずがはない」
一見、悄然とした印象を受けるが、どうせそれも演技に決まっていると、シルビアはそっけなく続けた。
「申し訳ないけど、うちで買い物をする気がないのなら、よそへ行ってくれない? こっちも暇じゃないのよ」
忙しげに振舞うと、キィニールは心底驚いたように顔を上げた。
「君、僕の顔を見た上でそう言ってる?」
サジェットの第一王子に対して、なんて無礼な振る舞いをする娘だと思ったのだろうか。
確かに彼の顔は、ルシンダの国民にも広く知られているものの、
「あなたの顔が何なのよ」
あえて気づかないふりを通す。
キィニールは心底傷ついたように顔を伏せると、
「おかしいな、女性は皆、僕の顔を見ると優しくしてくれるのに」
思わず吹き出しそうになってしまった。妹のソフィーヌが夢中になるくらいだ。いささか子どもっぽいところがあるものの、気品のある美しい顔立ちをしている。
「あら、魅惑的になるまじないでもかけているの?」
からかうように問えば、キィニールは憮然とした表情を浮かべ、
「よしてくれ。魔術に頼るほど落ちぶれちゃいないよ」
珍しく激しい口調で答える。
さすがに言い過ぎたかと、シルビアが反省していると、
「つまり、僕は君の好みから外れているわけか」
気を取り直したように、明るい声で言った。
シルビアもほっとして答える。
「それ以前の問題よ」
「……もしかして、君人妻?」
「いずれそうなるわ」
「人妻は大好きだよ」
キィニールはにっこり笑う。
「それに僕にも婚約者がいるしね」
あきれた、とシルビアはぐるりと目を回した。
「ところで、追われているわりにずいぶんとのんびりしているようだけど」
「嘘じゃないさ。猟犬みたいに鼻が利く奴でね。まくのに苦労した」
「だったらさっさと隠れたらどう?」
「そう思っていたけど、君と話していると楽しくて」
「冷やかしなら結構よ」
「君の名前を教えてくれたら、店ごと商品を買い占めてもいいんだけどな」
「あら、あなた、そんなにお金持ちなの」
――あなたは私のことを知っている。他の客に対して、あなたのほうから気さくに話しかけるのに、私のことは避けていたでしょう? それに質問もしてこなかった。
ふと、ユリウスの言葉が脳裏をよぎり、シルビアはさも興味を引かれたように彼を見た。
「僕に興味が出てきた?」
少年っぽい笑みを浮かべる彼に、「どうかしら」と肩をすくめてみせる。
「試しに付き合ってみてよ。きっと、僕のこと好きになるから」
ソフィーヌのことを思うと、さすがに黙っていられず、
「あなた、婚約者をなんだと思っているの」
「可愛い人だとは思ってるよ」
「愛しているんでしょう?」
どうかな、と彼は首を傾げる。
「愛ある結婚は平民だけの特権だよ」
「いやな言い方をするのね」
「気を悪くしたのならごめん」
髪の毛をかきあげながら、彼は困ったように続けた。
「でも、利益のない結婚に何の意味があるの」
言い返したい気持ちをぐっとこらえて、シルビアはうつむいた。
王侯貴族にとって結婚は、平民のそれと、価値観がまるで異なる。この国でも、重要なのは個人の幸福よりも一族の繁栄で、より有力な家柄の貴族と婚姻関係を結ぶか、でなければ、財産の保護を目的とした近親婚――いとこ同士の結婚や養子縁組など――が一般的だ。
「長い目でみれば、当人たちにとっても不幸さ。例えばレイシア王妃――」
シルビアははっとしたように彼を見た。
「世間では、玉の輿だの身分差を超えた純愛だのと美化されているが、彼女が幸福な結婚生活を送ったと誰に言える? なんの後ろ盾もなく王家に嫁ぐなんて、僕に言わせれば自殺行為だ。そして国王陛下もまた、周囲の反対を押し切ってまで彼女を娶ったというのに、早々に愛する人を失ったばかりか、その娘まで……」
歯に衣着せぬ言い方だが、キィニールの口調は苦々しげだった。
シルビアは黙って彼の話を聞いていた。
反論できない自分に苛立つ一方で、彼の言葉にも一理あると考え始めていた。
「陛下は選択を誤られた。結婚こそが、愛に報いる唯一の手段だとお考えになったのだろう。だがそれは間違いだ。本当に愛しておられるのあれば、誰の目にも触れさせず、愛人として何不自由ない暮らしをさせるべきだった。僕ならそうする」
珍しく熱弁を振るう彼に、シルビアは苦笑いを浮かべる。
「他の人はどうか知らないけど、あたしだったら真っ平ごめんね」
「どうして」
「自由を奪われたくないもの」
キィニールはやれやれと首を振る。
これだから平民は、と言わんばかりだ。
「豪勢な暮らしをすれば気が変わるさ」
「言ったでしょ、それ以前の問題だって。あたしにはあたしのことを愛していくれる恋人がいるの。あたしも彼のことを心から愛しているし、彼以外の男性を愛することなんてできないわ」
かわいそうに、とキィニールは言った。
「そう思い込んでいるだけだよ」
「いいえ、事実よ」
キィニールがさらに何か言おうと、口を開きかけたところで、
「見つけましたよ、でん――いえ、ニールさま」
声を聞いて、シルビアはどきりとした。
一方のキィニールは舌打ちせんばかり表情で、背後にいる彼を振り返る。
「よくここが分かったな、ガジェ・ノーマン」




