②‐第二十六話
しばらくここでお待ちくださいと言い、ユリウスをその場に残すと、リリィはシルビアを連れて二階へあがった。部屋に入り、二人きりになった途端、「全てはあなた様次第ですわ」と言われたシルビアは、申し訳ない気持ちでうなだれる。
「こんなことになってしまったのも私の責任ね。あとのことは自分で何とかするから、あなたは城へ戻って、少しでも体を休めてちょうだい」
「どうなさるおつもりですか」
「彼と話をするわ。でも、正体を明かすつもりはないの」
不思議そうに首を傾げるリリィに、「だからと言って、あなたやお父様にこれ以上迷惑をかけるつもりはないから」と慌てて付け加えると、リリィはおかしそうに微笑んだ。
「では、お言葉に甘えて」
「お父様に、またのご来店をお待ちしていますと伝えて」
「ええ、承知いたしました」
リリィが鏡の向こう側に去るのを見届けてから、シルビアは意を決して一階に降りた。「お待たせしました」と声をかけると、ユリウスは今初めてシルビアの存在に気づいたような顔をし、その背後に視線を向ける。
「ジェイトン卿はどちらに?」
「ご主人様はお出かけになられました。行き先は存じません」
小間使いのふりをして答えるが、ユリウスはそんなシルビアの態度を訝る様子もなく、落ち着きを失ったように室内を行ったり来たりしている。
「まさか、彼女のところに行ったのか……?」
「恐れながら、お嬢様はお会いになれません」
ぶつぶつと独り言を言い始めたユリウスの前に立つと、シルビアは思い切って告げた。驚いた表情を浮かべる彼が何か言う前に、「わたくしは全て存知あげております」としたり顔でうなずいてみせる。
「遠い地で、ご主人様が匿っておられる女性が何者か」
「……君はシルビィに会ったことがあるのか?」
「数えるほどしか。ですがとても親しみやすい方で、わたくしに様々なことをお話くださいました。あなた様のこともうかがっております」
「彼女は何て?」
「優しそうな見た目に騙されてはいけない。常に何かを企んでいるような人だから、自分を訪ねて来たら即座に追い返すようにと」
「ひどいな……」
苦笑しながらも、ユリウスの目は優しかった。
「でも、彼女の言いそうなことだ。他には?」
ユリウスは食い入るようにシルビアを見つめ、様々な質問を浴びせた。第一王女が今どこで何をしているのか、さらに詳細な情報を求められ、シルビアは首を横に振った。
「ご本人の許可なくお話することではきません。ただ、お健やかにお過ごしになられているとしか……」
「……だったら」
シルビアは再び首を横に振ってユリウスの言葉を遮ると、
「無礼を承知で申し上げます。どうか、あの方をそっとしておいてあげてください。あの方は平穏な暮らしをお望みです……どうか」
「君は何か誤解しているようだけど、私は彼女に危害をくわえるつもりはない――そんなこと、できないんだ」
「大変申し上げにくいことですが、あなた様に会うことをあの方は望んでおりません」
「なぜそう言いきれる?」
「あの方がそうおっしゃったからです」
「信じられないな。あくまでそう言っているのは君で、彼女の口から直接聞いたわけではないしね」
その彼女が私なのよと言い返したい気持ちをぐっとこらえ、深呼吸する。
「ですが、あなた様があの方に会うのを、快く思わない方がいらっしゃいますので」
「陛下のことを言っているのであれば……」
「いいえ」
ユリウスの言葉を否定したのはシルビアではなかった。いつの間にか店の扉が開いており、ガジェ・ノーマンがゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。
彼の姿を目にした瞬間、シルビアはほっとすると同時に、こみ上げてくる衝動を抑えるので必死だった。この場にユリウスさえいなければ、今頃は彼の腕の中で猫のように甘えられるのに。
「あなたが来たら追い払えと、彼女に言ったのは俺ですよ」
「……君が?」
ユリウスの目が、油断ならないものを見るように細められる。
「陛下のご命令か?」
「いいえ、ただの醜い嫉妬です。よその男に、恋人の周りをうろつかれるのは不愉快なもので」
シルビアを背にかばうような形で、ガジェは足を止めた。
ユリウスの沈黙は長く、ガジェを見る目にいっそう鋭さが増す。
「そうか……そういうことか」
深刻な面もちで顔を伏せたかと思えば、やがて弾けるような笑い声をあげる。
「だから君は、自らの命を顧みず、主人を裏切った……」
「ご理解いただけたようで」
シルビアのいる方からガジェの表情を見ることはできなかったが、恋人の口調はあきらかに相手を牽制する響きがあった。そんな彼を、ユリウスは忌々しげに見返している。
「誰かを殺したいほど憎く思ったのは、生まれて初めてだよ」
「いつでも受けて立ちますよ」
しばらく両者のにらみ合いが続いたものの、
「よそう。獣人相手に、何の準備もなく決闘を挑むほど愚かではないよ」
剣の柄に手をやる代わりに、ユリウスは懐からある物を取り出した。
「彼女の忘れ物だ。君から返しておいてくれ」
仮面舞踏会の日に紛失した黒いレース地の扇子だった。よりにもよって、なぜそれをガジェに渡すのかとシルビアは頭を抱えた。あの日のことは、彼に内緒にするつもりでいたのに。
「それでは、邪魔者は退散するとしよう。馬に蹴られるのはごめんだ」
はらはらしながら二人のやりとりを見ていたシルビアは、ようやくこの緊張感から解放されると思い、ほっとした。しかしユリウスは去り際に、ぼそりと何事かつぶやくと、風のように外に飛び出していった。
「……最後、ユリウスは何て言ったの?」
振り返ったガジェが苦笑交じりに教えてくれる。
「いつか寝首をかいてやると……」
嘘だとシルビアは笑った。
「彼、そんなこと言う人じゃないわ」
「だったら聞き間違えかもしれない。だが、口調は本気だった」
シルビアはあらためてガジェの顔を――疲れ切った端正な顔を見つめると、力一杯彼に抱きついた。
「今日はもう来ないかと思ったわ」
即座に抱き返されて、たくましい胸元に頬を寄せると、ほっと息をついた。安心すると同時に、久しぶりに彼の匂いを嗅いだせいか、胸がどきどきして、少しうろたえてしまう。
「遅くなってすまない。それより……」
「お腹すいてるでしょ? すぐにお茶を淹れるわ。シチューとパンがまだ残っているから……」
メロエ、と優しくも強い口調で呼びかけられ、言葉を遮られてしまう。
「その前に、ウィザー伯の件でいくつか質問がある。あと、これについても説明してもらいたいんだが……」
これ見よがしにかかげられた黒い扇子をすばやく取り戻そうとしたが、ガジェのほうが動きが早く、さっと後ろに隠されてしまった。
「意地悪しないで」
「どっちが」
「あなたが私を放っておくからいけないんじゃないの」
「……俺のせいか?」
年甲斐もなくだだをこね、相手が怯んだ隙に扇子を奪い返すと、シルビアはいそいそとそれをエプロンのポケットにしまう。
「メロー・エート」
低い声で呼ばれ、まさか怒ったのかしらと内心怯えつつも、そっと恋人の首に腕を回した。
「怒らないで。ちゃんと説明するから」
「……怒ってはいない」
どこかふてくされたような声に、シルビアは笑い声をあげると、ごく自然に顔を近づけた。けれど彼の唇に触れ合う寸前、テーブルのほうでカチャッと音がし、弾かれたように顔を向ける。
「あ、ぼくのことはお気になさらず」
いつの間に入ってきたのか、レモンパイを盗み食いしようとしていたトーマスが、気まずそうに手を引っ込めるところだった。シルビアがあきれていると、すぐ近くから腹の鳴る音がした。見ると、ガジェが決まり悪そうに視線をそらしている。シルビアは再び笑い声をあげると、「ちょっと待ってて」と言い、台所へ向かった。残ったシチューを温め直し、お湯を沸かす。二人とも疲れているようだから、疲労回復効果のあるカモミールティーを出そう。
窓の外からぽつぽつと雨音が聞こえて、シルビアは顔をあげた。冷たい風とほんのり色づき始めた樹木の葉が、秋の訪れを教えてくれる。換気用に開けていた窓の戸を閉めた途端、激しい雨が降り出し、風が音を立てて吹き始めた。近くで雷が鳴っても、シルビアは少しも恐ろしいとは思わなかった。ここには雨をしのぐための頑丈な屋根があり、しっかりとした壁もある。時たま、冷たいすきま風が吹き込んでくることもあるけれど、少しも気にならなかった。
――パチパチ燃える暖炉の火、温かい食べ物、甘いお菓子に熱々のハーブティー、座り心地の良い椅子に、愛する人たち……。
大好きなものに囲まれて、自分はなんて幸せ者だろうと、シルビアはあらためて思った。王女だった頃は、今よりも遙かに恵まれた暮らしを送っていたのに、生きているという実感がもてなかった。
――自分の人生を生きるって、こういうことなんだわ。
熱々のシチューをお皿によそっていると、トーマスが何か手伝うことはないかと台所に入ってきた。彼に指示を出しつつ、丁寧にお茶を淹れる。たちまち甘い香りが立ちこめ、幸福感に酔いしれながら、シルビアはゆっくりと恋人のところへ戻った。




