②‐第二十一話
気安く名を呼ばないで欲しいといったレオナールの言葉を思い出して、シルビアはぐっと涙をこらえた。仕事をしていても、ふとした拍子に異母弟とのやりとりを思い出して、胸が詰まりそうになる。こんな時、ガジェがそばにいてくれたらと思わないでもないが、迷惑をかけたくないという思いのほうが強かった。それ以前に、話したところで、彼はこの件に、シルビアを関わらせまいとするだろう。
午後に予定が入っているため、今日はお店を臨時休業にし、庭仕事に専念することにした。夏に伸びすぎた枝の手入れや草取りと、やることはたくさんある。最近、朝夕冷え込み、風も冷たくなってきたせいか、多少日差しがきつくても、外での作業が苦にならなくなってきた。花やハーブの香りに包まれて、夢中になって土いじりを楽しむ。土や植物に触れていると、自然と穏やかな気持ちになれるから不思議だ。
庭仕事の後は軽食とお茶の準備だ。小麦粉と砂糖と少量のミルクを混ぜ合わせて簡単なクッキーを焼き、以前作り置きしておいたブルーベリーのジャムを用意する。お茶は、摘んだばかりのレモンバームとローズマリーの葉を丁寧に水洗いし、乾燥させた少量のバラの花びらをくわえ、お湯を注いで三分ほど蒸らせば完成だ。
控えめなローズマリーの香りとバラの香りが引き立つお茶を一口、二口とすすって、ふうと息を吐き出す。ようやく食欲が出てきたので、出来立てほかほかの、ちょっと柔らかめのクッキーに、たっぷりとジャムをつけて食べた。素朴な味わいの、優しい甘みがブルーベリーの酸味の相まって、「おいしい」とシルビアはつぶやいた。
昔から、辛いことや悲しいことがあると、きゅっと胃のあたりが締め付けられる感じがして、食べ物が喉を通らなかった。空腹時でも、食欲がわかないのだ。けれど外へ出て、熱々のお茶をゆっくり飲んでいると、なぜか口寂しくなるから不思議だ。たくさんは食べられなくても、ちょっとくらいなら……と、気付けばどんどん甘いものを口へ運んでしまう。
――だから私、お茶が好きなのよね。
たらふく飲んで食べて、シルビアは立ち上がった。きちんと後片付けをし、しっかり戸締まりしてから、二階へあがる。時間を確認し、透明化のマントをきつく身体にまきつけると、まじないがほどこされた鏡に足を踏み入れた。
「時間通りですわね」
出入口で待っていてくれたリリィと共に、彼女の執務室へ向かう。いったんマントを脱いで彼女に戻し、代わりに新たな衣装を受け取った。
「これより監獄へ向かい、再度フォンティーヌ様への尋問を行います。以前もお話したように――」
「わかっているわ。付き添いなしの極秘任務でしょ。リリィにはリリィの仕事があるし、私はひとりでも大丈夫よ」
「牢番には話をつけておりますので、ご安心ください」
「ええ、ありがとう」
「では、はじめましょうか」
そう言って、リリィは着替えを手伝ってくれた。彼女に手渡された衣装には前もってまじないが施されている。丈夫な生地に細かな刺繍が施されたそれは、作りはゆったりとしていて、今着ている服の上からでも着用できるようになっていた。支度が終わると、シルビアは鏡の前に立って驚きの声をあげた。鏡に映っていたのは、見慣れた自分の姿ではなく、きつい目をした厳つい男の姿だったからだ。
「鏡に映っている男は、名うての尋問官ハワード・デイン。ありとあらゆる尋問方法を熟知した男で、彼にかかればどんな凶悪犯も自白に追い込まれるという――もっとも、私が考えたその場しのぎの設定ですけれど。どうぞ立ち振る舞いにはご注意くださいましね。本来の姿をさらしてよいのは、フォンティーヌ様と二人きりの時だけですわよ」
「……わかっているわ」
今一度鏡を見て、ごくりと唾を飲み込む。
「うまくやれるかしら」
小声でつぶやき、「ううん」とかぶりを振る。できるかしら、ではない、やらなければ。もう、後戻りはできないのだから。
「何かおっしゃいまして?」
「準備は万端だから、いつでも行けると言ったのよ」
リリィは神妙な表情を浮かべてうなずくと、観音開きの、衣装箪笥の前へシルビアを連れて行く。
「かなり離れた場所にあるもので、まじないを施すのに時間がかかってしまいましたが、ここから、あの方のいる監獄へ行けますわ」
「わかったわ、じゃあ、先に行くわね」
「……ご武運を」
……
扉を開けて衣装箪笥の中に入ると、いつの間にか、暗くじめじめした場所に立っていた。石造りの壁や床、天井は低く頑丈そうで、妙に息苦しさを覚える。後ろを振り向けば嵌め殺しの分厚い窓があり、おそらく採光用に作られたものだろうが、それでも廊下の先が見えないほど、中はうす暗かった。おそらくこの窓がリリィの執務室に通じているのだろう。
外は雨が降っていて、あんなに晴れていたのにと残念に思いながら、窓を背にシルビアは歩き出した。リリィに言われた通り、まっすぐ細い廊下を過ぎて、突き当たりの階段を上ると、広い場所に出る。そこには、鍵の束を手にした一人の小太りな男が立っていて、ゆがんだ愛想笑いを浮かべて自分を迎えてくれた。
「いやはや、外の厳重な警備をすり抜けて入ってこられるとは恐れ入りました。ここの責任者、ハウス・ボーデンです」
「私は……尋問官のハワード・デイン」
握手を求められて、シルビアはぎこちなく彼の手を握り返す――さすがは宮廷まじない師、触れても女だと気付かれなかった。ハウスの話では、この広間は囚人の身体検査を行う場所らしく、机の上には切り裂かれた衣類や囚人の所持品らしき物が無造作に置かれていた。
「お会いできて光栄です。昔は拷問官なんて職もありましたが、尋問官というのは初めて聞きますな」
「最近……新たに設けられた職種でして……元王族や貴族といった、特定の囚人に対して有効的な手段を用いるのですが……」
自分でも苦し紛れの説明だと思ったが、動揺が表に出ない強面な顔が功を奏したのか、牢番は「なるほど」とあっさり納得してしまう。
「デイン殿にかかればあの厄介な女囚人もひとひねり、というわけですな」
「まあ……そう解釈していただいても間違いではありません」
「宮廷まじない師であるジェイトン卿には、このような辺鄙な土地まで何度もご足労いただき、わたくしどものような下っ端の人間にも、それはそれは丁寧に接してくださいました。人の上に立つ人間として、わたくしも大いに見習わなければならないと痛感した次第でして――デイン殿のこともくれぐれもよろしく頼むと申しつけられておりますので、わたくしにできることでしたら……」
「それでは早速、例の囚人の部屋へ案内していただけませんか?」
話が長くなりそうだったので、慌てて口を挟むと、ハウスははっとしたように「おお、そうでした。失礼」と言い、机の上に置いていたランタンを手に取った。
「どうぞ、こちらです」
下へと続く真っ暗な螺旋階段を、ゆっくりと下っていく。
どうやら囚人の部屋は地下にあるらしい。
ようやく階段が途切れると、見張り役の牢番の前を通り過ぎ、ハウスは狭い廊下をどんどん進んでいく。ここは天井が高い作りになっていて、かろうじて天井付近にある採光窓から光が漏れ出していた。
「この部屋です。少々お待ちを」
腰にぶら下げた鍵の束から一つの鍵を取り出し、シルビアに差し出す。
「わたくしは先ほどの部屋におりますので、用事がお済みになりましたら、必ず鍵をかけてお返しください。もしも尋問中に囚人が暴れるようなことがあれば――もっとも、ジェイトン卿直属の部下であるデイン殿であれば、手助けなどご不要でしょうが、大声を出せば巡回中の牢番が応援に駆けつけますので、くれぐれも……」
「承知しました。お気遣い、感謝いたします」
またもや話が長くなりそうだったため、強引に遮って頭を下げると、ハウスは恐縮したように手を振り、「では」と踵を返した。




