②‐第二〇話
とりつくしまもなかった。拒絶され、レオナールの寝室を後にしたシルビアは、外で待っていたリリィに「うまくいかなかった」と正直に報告した。
「完全に嫌われてしまったわ。覚悟はしていたけれど、辛いわね」
「事実を受け入れるのに、時間が必要なだけですわ。しばらくすれば、元の関係に戻れますよ」
「リリィの言う通り、逆効果だったかもしれない」
「けれどあえて憎まれ役を買って出た。容易には真似できないことですわ」
「自分を責めるより、私を責めてくれたほうが、いくらかマシだもの」
強気に微笑むシルビアの肩を、リリィはぽんぽんと叩いてくれる。
「あとのことは私にお任せください」
***
「そろそろ夜が冷えてきたわ。暖炉に火を入れてちょうだい」
分厚い扉の開口部から今晩の夕食――硬いパンと豆のスープ――を差し入れながら、牢番は舌打ちした。暖炉のない部屋にどうやって火を入れろというのか。そもそも、なぜ牢番である自分が、囚人に命令などされなければならないのか。
「知るかよ」
「寒くて凍えてしまうじゃない」
高慢な口調に、はあとため息をつく。
「だったら凍えて死んじまえ」
女囚人はまなじりをつり上げて、のぞき穴からこちらを睨みつけてきたが、牢番はふんと鼻を慣らして、あざ笑う。
「若い女ならまだいびりがいがあるんだがな。ババアのいじけた顔みたってつまらねぇ」
「覚えてなさい」と、女囚人は歯ぎしりした。「あたくしの息子が即位した暁には、おまえなど八つ裂きにして豚の餌にしてやるから」
いつもの脅し文句を口にされて、毎度のことながらどきりとしてしまう。
「王子殿下も気の毒に。とんだ性悪女を母親に持っちまったもんだ。子どもは親を選べねぇからな」
動揺を押し隠して軽口で返すが、女囚人は敏感にそのことに気付いたらしく、
「虚勢だと思わないことね。あの子は今もあたくしを慕っていてよ。母親だもの。あたしくの言うことなら何でもきくわ」
笑いを含んだ声に、余裕が感じられる。
「おまえにだけは教えてあげる。陛下のお命はもう長くはない。周囲には隠しているけれど、重い病を患っておられるの。レオナールが王になる日は、そう遠くはないわ」
「そんな嘘には騙されないぜ。なんのための宮廷まじない師だ」
「まじない師でも治せない病はあるわ」
「あんたの腹はわかってんだっ。俺を脅して言うことをきかせたいんだろっ」
扉を蹴り飛ばし、怒鳴るようにして返すと、女囚人はびくっとしたように黙り込んだ。これまで散々かしずかれてきた人間にとって、言い返されるだけでもさぞ屈辱的だろう。
「王太子の母親だかなんだか知らねぇが、ここじゃただの罪人だ。命があるだけ感謝しろ。まだ寒いってんなら、全身真っ赤になるまで鞭をくれてやる」
「あたくしに向かって、なんてこと……」
「あんたに関しちゃ、他の牢番からも苦情がきてんだ。王妃が相手じゃ、鞭もふるえねぇってな。けど俺は、たとえ相手が王族様だろうと、容赦はしねぇぜ」
「息子は、あたくしをここから出すと約束してくれたわ」
「殿下はあんたのことなんぞ、すぐに忘れちまうさ。なんせお忙しい方だからな」
「確かに、忘却のまじないを使われるとまずいわね」と初めてそのことに気付いたように、ぶつぶつと独り言を言い始める。「あの子はうまくやってくれたかしら」
奥のほうへ移動したらしく、声が徐々に遠のいていく。未だに囚人としての自覚が足りないようだ。二度と反抗的な態度がとれないよう、徹底的に痛めつけてやろうかとも思ったが、万が一にも、そのことが王太子に知れたらと思うと、実行に移せなかった。自分はともかく、可愛い我が子の将来は守らねばならない。
――まったく、厄介な女が来ちまったもんだ。
ため息をつき、牢番がその場を後にしようとすると、
「あなたの言う通りだわ。王太子殿下はひどくお忙しい方、老いた母親のことなど、すぐに忘れてしまうでしょうね」
手のひらを返したような言葉に、思わず足を止めた。
「あたくしは誰にも顧みられることなく、独り悲しく死んでいくのだわ」
「ようやくあんたにも、物事の道理ってもんがわかってきたらしい」
「ところで、殿下は剣術の稽古を欠かさずやっておられるかしら?」
悲しげな声を出して、女囚人は続ける。
「指南役の騎士の言うことをよく聞くようにと、いつも言っているのだけれど」
「指南役の騎士?」
「近衛騎士団副団長ヘルマン・カート様よ。ご存じでしょ」
副団長に関するよくない噂を思い出して、牢番は黙り込んだ。なんでも国王暗殺を企み、事が公になる前に自害したという話だ。
「どうして黙っているの? 彼の身に何か起きたの?」
外の情報を囚人に与えることは禁止されている。牢番は「無駄話は終わりだっ」と怒鳴り、逃げるようにその場を後にした。
***
湿っぽく、薄暗い部屋の中。石造りの壁は分厚く、外からの音が完全に遮断されている。時折、牢番の歩く靴音が聞こえるくらいだ。窓は、天井近くの高い位置にあり、梯子がなければ外の景色を見ることはできない。時間はかろうじてわかる程度で、茜色の光が射し込んでいるから、今は日暮れの時だ。
――あたくしは一体いつまで、ここにいなければならないの。
壁に寄りかかって考え事をしていたフォンティーヌだったが、空腹に負けて、牢番が運んできた食事に手をつけた。テーブルはないため、ボロ切れを集めて作られた寝床まで運ぶ。パンを手に取り、ちぎって口に入れると、ぱさぱさした食感がし、噛むごとに口内の水分が奪われる気がした。よく噛まないと飲み込めないため、顎は疲れるし、何度も咳込みそうになる。スープは薄すぎて水っぽく、味がしない。
「もうイヤよ、こんな生活」
最後に砂糖漬けの果物を食べたのはいつだったか。熱々の紅茶を飲んだのはいつ? こんな汚い部屋に閉じこめられて、満足に暖をとることもできず、食事も家畜の餌同然のものを与えられる。このままでは、衰弱死するか凍死するか、時間の問題だ。なぜ、自分がこのような目に遭わなければならないのか。
答えはわかっている。あの小娘のせいだ。
「アマーリエ・ルドヴィカ・シルビニア……」
呪詛の文句を唱えるように、フォンティーヌは何度もその名を口にした。自身の婚約者を寝取った、忌々しい女の娘――アマーリエへの復讐を果たすためには、何としてでもこの監獄から出なくてはならない。そのための手段は講じたはずだが、
――おそらく、あの男は失敗したのだわ。
牢番の不自然な態度を思い出して、フォンティーヌは歯軋りした。ヘルマン・カートは、フォンティーヌがかつて気まぐれに相手をした愛人の一人にすぎず、特別な感情を抱いたことはなかった。つきあった期間も短く、当時一番のお気に入りはセドリック・サイラスであったため、ヘルマンとの関係を知る人間はいないはずだ。幸いヘルマンは口が堅く、意外にも粘着質な性格をしていたため、いつか使えると思い、関係が途切れてからも、適度な距離を保ち続けていたのだが、
――あてがはずれたわね。
使えない男。
思い返せば、ベッドの中でもつまらない男だった。その上、女を楽しませるだけの話術も持ち合わせていない、馬鹿真面目な仕事人間。けれどそんな男だからこそ、何の疑いもなく、毒薬を飲んだのかもしれない。
――そのペンダント、いつも身につけておられるのですね。大切な物ですか?
――ええ。お母様の形見ですの。
――中には何が入っているのですか?
――薬ですわ。いざという時、あたくしの身を守ってくれるよう、まじないがかけられていますの。
もう十年以上も昔、レオナールが誕生する前の、若きヘルマンとのやりとりを思い出して、フォンティーヌはくすりと笑った。彼に話した内容は嘘ではない。これで全ての罪をあの男になすりつけることができたのだから。証拠がなければ、王とはいえ、自分を裁くことはできないだろう。当初の目的では、王を殺した後であの毒薬を飲んでもらうはずだったのだが、
「まあ、いいわ」
レオナールがいる限り、チャンスはいくらでもある。彼は再び、自分と連絡を取ろうとするだろう。今の王城にレオナールの味方はいない。彼が心から信頼でき、頼れるのは、母親である自分だけなのだから。




