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②‐第八話



 図書館で借りた数冊の本を手に、シルビアは帰り道をいそいでいた。今にも泣き出しそうな曇り空を見上げ、少し前まではあんなに晴れていたのにと、ため息をつく。帰りは、人気の喫茶店を巡って、流行のお菓子をリサーチしようと思っていたのに。


 ――しょうがないわ。借りた本を濡らすわけにはいかないもの。


 しかし、我が家まであと少しというところで雨が降り出し、シルビアは慌てて近くの店の軒下に避難した。店の主人に、しばらく雨宿りさせて欲しいと頼もうとしたが、定休日で店は閉まっていた。本が濡れないようエプロンの下に隠し、どうせならレインコートを着てくればよかったと後悔する。濡れるのは苦手だけど、暑い日の雨は嫌いではない。今日は庭の水やりをせずにすみそうだと、ぼんやり空を眺めていると、


「……踏んだり蹴ったりだ」


 いつの間にか、軒下の端にずぶ濡れの少年が立っていて、嘆きの言葉を口にしている。思いがけないお仲間の登場に、シルビアはにやっとした。濡れた服が気持ち悪いのだろう。「くそっ」としきりに悪態をついている。


「これ、よかったら使ってちょうだい」


 同情してハンカチを差し出すと、少年ははっとしたようにこちらを向いた。歳はトーマスと同じくらいか、亜麻色の髪に母親譲りの黒い瞳、繊細でいて、あどけない顔立ち、くたびれてはいるものの、上質のシャツに乗馬用のズボンを身につけている。髪が濡れているせいで一瞬誰かわからなかったが、


 ――そんな……レオナール?


 一方のレオナールも、凍り付いたような表情で、シルビアを見返していた。


「うそだ……うそだ……」


 頭からショールをかぶり、できる限り目立たない格好をしているものの――ここは店の外だし、他人ならともかく、異母弟の目をごまかすことはできないと悟ったシルビアは、いっそ開き直ってにっこり笑う。


「なあに? あたしの顔に何かついている?」


 堂々ととぼけるシルビアに、レオナールは戸惑うような顔をする。


 そんな弟を見下ろしつつ、少し見ないあいだに大きくなったなと感心した。最後に彼を見たのは、ほんの半年前だったのに、頭一つ分あった身長差が、今や拳一つ分になっている。


「あなたは……失礼、あなたのお名前をうかがってもよろしいですか?」

「メロー・エートよ。坊やはなんて名前なの?」


 さすがに弟相手に愛称を名乗るのはまずいと思い、咄嗟に思いついた言葉を口にする。下町娘らしく振る舞ったつもりだが、「坊や」と呼びかけられ、レオナールはショックを受けているようだった。かと思えばすぐに我に返り、


「れ、レオです。坊や、はやめてください」


 やはりこの少年はレオナールなのだと確信した。ユリウスといい彼といい、仮にも王族が、護衛もつけずに町を出歩くなんてと、あきれてしまう。もっとも、自分が言えた義理ではないけれど。


「あら、ごめんなさい。ところで顔くらい拭いたら? 色男が台無しよ」

「あなたは……その……」

「メロー・エート」

「ミス・エート、僕の顔に見覚えはありませんか」


 首を傾げ、まじまじとレオナールの顔をのぞきこむ。


「もしかしてレオって、迷子なの?」

「そうじゃなくて……まさか、僕をからかっておられるのですか」

 

 きつい目つきでじろりと見上げられ、ぎくりとする。けれど今更こんなことくらいでうろたえるものかと、シルビアは困ったふりをした。


「あたし、レオの怒るようなことしたかしら」

「どこまでとぼければ気がすむのですか」

「いいから、さっさと顔を拭きなさい」


 いつまでも受け取ってくれないので、こちらから距離をつめて、顔や髪を拭いてあげる。最初、嫌がられるかと思いきや、レオナールは抵抗しなかった。ただ、信じられないものを見るように、シルビアの手を凝視している。途端、ふいに泣き出しそうな顔をして、「姉上……」と小声で呼ばれた。頼りなげなその声に、思わず胸が締め付けられる。


 人見知りが激しく、臆病なソフィーヌとは違い、幼い頃のレオナールは活発で明るく、よく自分になついていた。継母のことは嫌いだったが、妹たちのことは可愛く思っていた。年頃になったレオナールは継母の目を気にしてか、いっさい自分に近づいてこなくなってしまったけれど、


 ――あなた様の葬儀では、たいそう悲しんでおられたとか。


 リリィの声が耳の奥で蘇り、シルビアはそっとレオナールから離れた。


「早く、雨がやむといいわね」


 聞こえないふりをして、びしょ濡れのハンカチをポケットに押し込む。レオナールはなおもじっとシルビアを見つめていたが、やがて視線をそらし、「また幻覚を見ているのか?」と自分の手を見下ろした。


「もしくは白昼夢か……」


 また、という言葉が少し引っかかったものの、


「ところで、レオはどこへ向かう途中なの?」


 ぶつぶつと独り言をつぶやくレオナールに不安を覚え、話しかけると、彼はまだ実感がわかないといった様子で、ぼんやりと答えた。


「特に決まっていません。ただ、何も知らない自分に嫌気が差してしまい、衝動的に城を飛び出してきたのですが」


 それはまずい。おそらく今頃、城の者たちは王太子を血眼になって探しているはずだ。父も心配しているだろう。できることなら、彼を城へ送り届けたいが、何か良い手はないものかと考えこんでいると、


「姉上のほうこそ、どちらへ行かれるのですか?」

「あら、あたしにあんたみたいな弟はいないわよ」


「なぜ、そのような悲しいことをおっしゃるのです。ここは僕の夢の世界――いつも、姉上や母上にお会いしたいと願っていました。だから夢の中に現れてくださったのでしょう」


 ソフィーヌならいざしらず、まさかレオナールまでそんなことを言い出すとは意外だった。外見は成長しても、彼の心はまだ、純粋で幼いのだ。けれど、レオナールの口振りからして、このような状況に陥るのは初めてではないと感じた。


「レオ、あんたちょっとおかしいわよ。雨がやんだら、すぐに家に帰りなさい。そのままだと風邪を引いてしまうわ」


「いやです。僕はまだ姉上といたい」


 夢の中だと思いこんでいるせいか、やけに素直に甘えてくる。そんな弟を可愛いと思いながらも、「あたしは一人っ子よ。レオのお姉さんじゃないし、本当のお姉さんに失礼だわ」とあえて突き放したような言い方をした。しかしレオナールはめげずに、シルビアの手をそっと掴んでくる。王太子として厳しい鍛錬を積んでいるのだろう、ガジェには及ばないものの、肉刺だらけのかたい手だ。


「ソフィは嫌いです。僕のことを目の敵にしているし、いつも辛辣ですから」


 ソフィーヌはソフィーヌで、母親の愛を弟に横取りされたと思いこみ、不満を感じているはずだと、内心で苦笑する。


「姉上と母上だけです。僕のことを心から気にかけてくださるのは」


 継母と同列扱いされて、なんとも複雑な気分だった。自分にとっては執念深く、卑劣な女だが、レオナールにとっては愛情深い母親だったのだろう。


「周りの大人たちは僕を王太子としか見ていない。父上にいたっては無関心だ。いっそ僕など廃して、聡明なウィザー伯を後継にとお考えなのかもしれない」


 これは相当病んでいるなと、シルビアはため息をついた。


「姉上はご存じでしたか? 宮廷で流れている噂を。僕はどうやら、父上の子ではないらしい」


 レオナールは頬をゆがめ、子どもらしからぬ表情を浮かべる。


 王妃には、ガジェの前にも、愛人と噂される男性が何人もいた。それこそソフィーヌが誕生する以前から。王が後妻に対して無関心だったこともあり、王妃は王妃で王の気を引こうと、数々の浮き名を流していた。王の子ではないという疑いは、レオナールだけでなく、ソフィーヌに対しても言えたことだが、王が二人を我が子として認知している以上、噂は噂でしかない。


 シルビア自身、そのことについて父と話し合ったことはなかった。レオナールは母親譲りのきつい顔立ちをしているが、耳や鼻の形は父のそれと酷似していたため、あまりに馬鹿げた噂だと思ったからだ。


「母上が投獄されて、僕は初めてそのことを知りました」


 おそらく、王妃に恨みを持つ使用人の誰かが、故意に噂を広めているのだろう。これまでは、王妃の報復を恐れ、誰もが思っていても口には出せなかったというのに。


 雨がやんでも、レオナールはその場から動こうとしなかった。強引に手をふりほどき、逃げたところで追ってくるのはわかっていたし、かといえ、そのまま王城へ誘導しようにも、道のりは遠く、また、いつ雨が降り出すかもわからない。


 我が家はもう目と鼻の先なのにと、シルビアは歯ぎしりした。こうなったら……と覚悟を決め、頭に巻いていたショールをはずす。


「よくわからないけど、家に帰りたくないのなら、良いところへ連れて行ってあげる」


 良いところ? と興味をひかれたようにレオナールが首を傾げる。


「ほっとできて、元気の出る場所よ」


 言いながら、はずしたショールをレオナールの顔の上半分に巻いて、目隠しをする。なぜ目隠しする必要があるのかとレオナールは不満げだったが、でなければ連れて行かないと言うと、素直に従ってくれた。


「じゃあ、行きましょうか」


 握られた手は痛いほどだったが、それが妙にくすぐったくて、シルビアは笑って歩き出した。



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