第三十五話
「こんなものしか用意できなくてごめんなさい。お菓子はまともに作れるようになったんだけど、なかなか料理の腕は上達しなくて」
小麦粉と少量の水、塩で作った薄焼きパンに、王城から持ってきたバターをたっぷり塗り、その上から蜂蜜をかけて味をごまかす。裏庭で採った香草のサラダに大根の酢漬け、最後にミントティーを出すと、ガジェと向かい合うようにして椅子に座った。
「さあ、頂きましょうか」
「……話をするのではなかったのか」
「会話をしながら食事を楽しむのも悪くないでしょ」
食事中に会話をするなど、王城ではけして許されなかったが、ここにはうるさい教育係もいないし、堅苦しいテーブルマナーから解放されて、シルビアは清々していた。
「そういえば私、あなたにきちんとお礼を言ってなかったわね」
必要ないと、憮然とした表情で返される。
「むしろあなたには借りができた」
「リリィのことも、見逃してくれたって聞いたけど」
「……彼女ほど獣人に詳しい人間はいない。救われたのは俺のほうだ」
「その話、私もリリィから聞いたわ」
シルビアは手を止め、同情をこめて言った。
「さぞかしご両親に会いたいでしょうね」
いや、とガジェはかぶりを振る。
「獣人の子は、十五歳になれば親元を離れて独り立ちをするらしい。俺はその年齢をとっくに越えているし、今さら親の顔を見たいとも思わない」
その割り切った考え方は、獣人特有のものだろうかと、シルビアは首を傾げる。自分だったら、もし母が生きているのであれば、ひと目だけでも会いたいと思うだろう。――彼は強いのね。
感心しているシルビアを見、ガジェは決まり悪そうに続ける。
「俺にも家族を作ることは可能だと、ジェイトン殿は言った。救われたのはそちらのほうだ」
これは、容易には触れられないデリケートな問題だと、シルビアは視線をそらす。別段、潔癖性を気取るつもりはないのだが、ガジェを前にすると意識してしまい、まともに相手の顔を見られなくなってしまうのだ。
「だが、彼女はこうも言っていた。一度恋に落ちれば二度目はないと――そういう種族なのだと。ジェイトン殿にはかつて、獣人の恋人がいたそうだ。その話は聞いているか?」
初耳だった。かつて、ということは、その恋人は既に亡くなってしまったのだろうか。もっと詳しい話が聞きたくて、思わず前のめりになってしまうが、「俺の口からは話せない。本人に聞いてくれ」と至極真面目な顔で断られてしまった。少しがっかりしたものの、
「あなたは、それを聞いて怖いとは思わなかったの?」
たった一度の恋で全てが決まってしまう――たとえ気持ちを受け入れてもらえなくても、一生をかけて相手を想い続けなければならないなんて、自分だったら耐えられないかもしれない。ふと、イツカのことが脳裏をよぎり、やりきれない気持ちになった。彼女がことさら仕事に情熱を傾けるのは、そんな運命から逃れようと、必死にもがいているからだろうか。
「怖い、というより、ほっとした。俺にも人並みに誰かを愛せるとわかって。これまでは、単にその機会が巡ってこなかっただけだと納得できた……だがいざその時が来ると――」
肝心なところで言葉を切り、黙りこんでしまう。困惑し、沈黙に耐えられなくなったシルビアは、目の前の料理を勧めた。
「とりあえず、食べない? 味は保証できないけど」
王城を出てから何も食べていなかったせいか、やや苦みのあるサラダも美味しく感じられた。瞬く間に食べ終えてしまったガジェのために二枚目のパンを焼き、シルビアもお茶をお代わりする。
食後のお茶をすすりながら、シルビアは、ガジェが投獄され、意識を失っているあいだの出来事を、彼に話して聞かせた。ガジェは真剣に耳を傾け、最初こそは険しい表情を浮かべていたものの、ソフィーヌのところではなぜか吹き出しそうな顔をし、話が終わると、何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。
「逃げろと言ったのは逆効果だったようだ」
「あなたがあそこにいるとわかっていたから、立ち向かうことができたの。結果的に、お父様をお救いすることができたし、感謝はしているのよ。けれど命をかけるなんてことは、二度として欲しくないわ」
黙りこむ彼に、「聞いてるの?」と言えば、「約束はできない」ときっぱり返されてしまう。その開き直った態度に唖然としていると、
「俺には、ジェイトン殿のような生き方はできない。あなたが死ねば、俺も死ぬ。けれど、あなたは違うだろう、シルビア」
その言葉の意味を理解できないほど、鈍くはなかった。彼の目に迷いはなく、熱を帯びた眼差しに、今さらながら動揺してしまい、下を向いた。
「……わかりにくいのよ、あなたは。そんなそぶり、ちっとも見せなかったくせに……いきなり――私の前から姿を消すんだから……」
ガジェの告白を、素直に嬉しいと感じてしまう。泣き出したいような、笑い出したいような、不思議な感覚にとらわれて――どうしようもなく彼が好きだと、自覚した瞬間だった。
「できればもっと早く、その言葉を聞きたかったわ」
「言ったところで何になる? 初めから手に入らないとわかっているのに」
「……なぜ手に入らないとわかるの? 私がこの国の王女だから?」
シルビアは立ち上がり、ガジェに近づいていく。本当は彼に触れたかったけれど、なぜか緊張して指先が震えてしまい、伸ばしかけた手をおろしてしまう。
「正確には元王女だけど。前にも言ったはずよ、今は立場が逆転してるって。だから……あなたが私を望んでくれるのであれば、喜んでその手をとるわ」
精一杯、自分の気持ちを彼に伝えたつもりだったが、ガジェは無言だ。目を輝かせたのは一瞬だけで、すぐに暗い表情に戻ってしまった。何の反応もしめさない彼に、シルビアは痺れを切らし、はしたない女だと思われてもいいから、いっそ自分から彼の腕の中に飛び込んでやろうかと企んでいると、
「……俺はあなたに相応しくない」
――また何を言い出すかと思えば……。
けれど、彼の育った境遇を思えば、そんな卑屈な発言も愛しいと感じてしまう。自分の気持ちを認めた途端、開き直ってしまったらしい。自分でも現金だとあきれてしまうが、もう引き返すことはできないのだからと、シルビアは思い切って、自分から距離をつめた。ガジェの背後にまわり、驚かさないよう、そっと自分から抱きつく。
「だったらあなたが私のものになればいいわ。あなたの良いところも、悪いところも全部、私がもらってあげる」
いやがる素振りを見せないので、調子に乗ったシルビアは、さらに体を密着させ、彼の頬に自分の頬を押しつけた。ガジェは身体を強ばらせ、じっとしている。不思議と色っぽい雰囲気にはならず、まるで、人になつかない獣を手懐けようとしている気分だった。
「あなたは私の騎士であり、友人であり、恋人になるのよ。あとは……そうね、先のことはおいおい考えていけばいいわ、愛しい人」
ぎこちなく伸ばされた彼の手が、触れ合っていない方の頬に触れる。
「俺はなんてあなたを呼べばいい?」
「それくらい、自分で考えて」
わかった、とうなずき、「ありがとう」と震える声で感謝される。この状況でそんなことしか言えないなんて、まったくバカ真面目な彼らしいと、シルビアは腕に力をこめた。




