第三十四話
翌日、転移のまじないは使えないため、徒歩で店に戻ることにした。馬車を出すとリリィは言ってくれたものの、できるだけ目立ちたくなかったこともあり、辞退したのだ。裏門から顔をのぞかせたシルビアは、辺りに人気がないことを確認すると、緊張を解いて後ろを振り返る。
「行きましょうか」
リリィが父に頼んで、一時的に裏門を無人にしてくれたおかげで、誰にも見咎められずに城門の外へ出ることができた。まだ少し、病み上がりでぼんやりしているガジェの手を引いて、ゆっくりと歩き出す。ガジェの手は乾燥し、ひんやりしていた。
「この時間帯なら、日が沈む前には着くと思うわ」
裏門を出てまっすぐ進み、<狩猟の森>に入る。そこから城下町へ向かうとかなり遠回りになってしまうものの、今のガジェの状態を考えると、人目を気にせずに歩けるのはありがたかった。
「あなた、この森で私を殺そうとしたのよ、覚えてる?」
「俺が殿下を……?」
びっくりしたような顔をするので、まだ全てを思い出していないようだと、シルビアは残念に思った。
「正確には、そう演技していただけだけど」
「何のために……」
「いずれ思い出すわよ」
ガジェは難しい顔をして、何か考えこんでいるようだった。
「……ところで、俺たちはどこへ向かっているのですか」
「言わなかった? うちへ帰るのよ」
「恐れながら、殿下のお住まいは……」
「私はもう、もと居た場所には住めないのよ。未婚の身で、あなたの子をはらんでしまったから、罰として王城を追放されてしまったの」
ガジェの目がいっそう大きく見開かれたものの、
「俺をからかうのはやめてください」
「からかってなどいないわ。お父様がそう思いこんでいるのは事実だもの」
「では、ただちに訂正すべきでしょう。そもそもなぜ陛下がそのような誤解をされたのか、理解しかねます」
ガジェは明らかに、シルビアの態度に戸惑っている様子だった。途方に暮れたように、シルビアに掴まれた手を見下ろしている。
「手を引いてもらわずとも、一人で歩けるのですが……」
「迷子にならないと約束するなら、離してあげてもいいわ」
「この周辺の地理なら、頭に叩き込んでいます」
真面目に返されてしまい、「そう」と手を離してしまう。少し寂しい気もするが、きっと気のせいだ。
「殿下、いったんこの状況を整理したいのですが」
「私のことを殿下と呼んでいる時点で無理よ」
「ですが……」
「思い出せないのなら、何も考えなくていいの。黙って、私についてきて」
途端、無口になったガジェだったが、つかず離れずの距離を保ち、シルビアの後ろをぴたりとついてくる。<狩猟の森>から城下町までは結構な道のりだったが、それほど苦には感じなかった。森を抜けて、町の喧噪が迫ってくると、二人きりの時間もこれで終わりかと、なんだか名残惜しい気持ちになってくる。
それからしばらく歩いて、山小屋風の店の前で足を止める。
「着いたわ、ここよ」
ガジェははっとしたように、店を眺めている。
表の扉には鍵がかかっていたため、開けて中に入る。嗅ぎ慣れたハーブの香りと、お菓子の甘い匂い――ようやく帰ってきたのだと実感し、泣きたくなるほど嬉しかった。
「さあ、入って」
「ガジェ様っ」
店の奥から、待ちかまえていたようにトーマスが飛び出してきた。せっかくの可愛い顔が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっている。
「よくぞご無事でっ」
なぜここにトーマスがいるのか、訊ねられると思ったのだが、意外にもガジェは何も言わず、腰にしがみついて離れないトーマスの頭を、あやすように撫でていた。
これまで、トーマスには我慢ばかりさせていたので、その罪滅ぼしとして、しばらく二人きりにさせてあげようと、二階へ案内する。
「あとでお茶を持ってきてあげるわ」
そのまま客室に二人を押入れ、そっと扉を閉めた。一階に戻ると、赤目の少女が不安そうな面もちで立っていた。
「あら、イツカ。あなたもいたのね」
「シルビアさん、お店、やめないですよね?」
もちろんだとうなずくと、「よかった」と勢いよく抱きつかれてしまう。この子はどこまで事情を把握しているのかと、不思議になったものの、済んでしまったことを蒸し返すのはいやなので、「これからもよろしくね」と軽く肩を叩く。するとイツカはぱっと表情を輝かせ、
「新作の小物をいくつか持ってきたので、あとで見てもらえます?」
……
留守中も、トーマスは仕事をこなしてくれていたらしい。店内は清潔に保たれ、裏庭の植物たちも生き生きとしている。吊り下げて乾燥させておいたドライハーブも、全てお茶用に刻んで、瓶に補充されていた。お菓子の材料もまだ残っているし、これなら明日からでも営業を再開できると、シルビアは喜んだ。
イツカを見送った後、早速台所にこもってお菓子作りに精を出す。すると二階から足音が聞こえ、ガジェが顔を出した。声をかけるべきか迷っている様子だったので、シルビアは手を止めて、顔をあげる。
「もう話は終わったの?」
話の途中で、トーマスが眠ってしまったらしい。ガジェを心配するあまり、ろくに寝れていなかったのだろう。シルビアは二階にあがり、長椅子で眠っていたトーマスをガジェに運ばせ、来客用のベッドに寝かせた。
「あなたも泊まっていけばいいわ。部屋はもう一つあるから」
「……なぜ俺を助けたんだ」
突然のことに、シルビアは弾かれたようにガジェを見返す。彼はシルビアの視線から逃れるように、視線をトーマスに向けていた。
「思い出したのね」
質問の答えを待っているのか、無言のガジェに、ふうと息をつく。
「それを訊きたいのは私のほうよ。あなたがフォンティーヌ様を裏切ったのは、私のためなの? 私を生かして、逃がしたかったから?」
「あなたは逃げなかった。そして俺は失敗した。それ以外になんと答えればいい」
皮肉な笑みを浮かべて、ガジェは続ける。
「俺はあの人にとどめを刺すことができなかった。最後の瞬間、彼女は絶叫し、泣きながら許しを請うてきた。もう二度と、アマーリエ王女には手を出さないから、命だけは助けて欲しいと懇願された。嘘だとわかっていたが、俺は一瞬、躊躇した」
そして気づけば踏み込んできた警備兵らに武器を奪われ、拘束されてしまったという。ガジェは騎士として、無意識のうちに、女性の命を奪うことに抵抗を覚えたのではないのか。失敗する可能性も考慮に入れていたからこそ、自分に逃げろと言ってくれたのではないのかとシルビアは考えた。
「俺はやりそこなった……」
「だから助け出されたことに納得がいかない? バカ言わないで」
ようやくこちらを向いたガジェを、正面から睨みつける。
「私を何だと思っているの。あんなことをされて、私が喜ぶとでも思った? 他人の命を犠牲にしてまで、逃げようなんて思わないわよ」
赤い瞳がわずかに揺れて、力なく伏せられる。
「私は自分の居場所を守るために戦っただけよ。その結果、あなたの罪状が見直されて、釈放されただけじゃないの。重く受け取らないで」
本当はもう一度あなたに会いたかったから、とは言わない。今それを口にすれば、愛を告白しているも同然に思えたからだ。それにまだ、彼がなぜそんなことをしたのか、理由を聞いていない。
「父はあなたにたくさんの褒美をお与えになるそうよ。騎士としての名誉も回復してくださるそうだし、よかった――」
「俺はそんなもののために主を裏切ったわけじゃないっ」
珍しく怒鳴り声をあげたガジェに、シルビアは驚き、慌てて「しっ」と唇に指を立てる。「トーマスが起きてしまうわ。一階で話しましょう」
部屋を出ると、ガジェは反省したような顔で、大人しくついてきた。まるで大型犬を従えているような気分で、シルビアは無意識のうちに笑みをこぼしていた。




