第三十三話
シルビアはその日のうちに、リリィを通して医師を呼んでもらい、ガジェを診てもらった。一時的に記憶が混乱しているだけで、日常生活に支障をきたすほどではないと言われ、ひとまず胸をなで下ろす。身体の傷もほぼ完治しているため、動いても問題ないということだった。
「よかったですわね」
医師が退室すると、シルビアはマントを脱いで、リリィにうなずいてみせる。少し前までひどい頭痛で苦しんでいたガジェだったが、先ほど飲んだ痛み止めの薬が効いたのか、ベッドでぐっすり眠っていた。
「リリィ、今からお父様に会うことはできないかしら」
「……店に、戻られるのですね」
「だとしたら止める?」
いいえ、とリリィはかぶりを振って微笑む。
「人それぞれ、その方に合った生き方がございます。陛下がそれをお認めになるのであれば、私には何も申せません」
「認めてくれないかもしれないわ」
「でも、行かれるのでしょう?」
言いながら、リリィは小さな袋をシルビアに差し出した。
「言われた通り、店にある姫様の寝室からお持ちしましたわ」
袋の中身は宝石箱だった。箱の中には、シルビアが王城から持ち出した全財産が入っている。
「これをどうなさいますの?」
「もちろん、お父様にお返しするのよ。私には、お祖父様が譲ってくださったお店があるのだもの。それだけでもありがたいと思わなくちゃ」
この程度のことで、自身の勝手な振る舞いが許されるとは思っていないけれど、シルビアなりに何かけじめをつけたいと思ったのだ。
「あなたには感謝してもしきれないわ、リリィ。けれどもう、私のことを姫様と呼ぶのはやめてね。これからの私は、ただのシルビアよ」
「ジョージ様がよく、姫様のことをそう呼んでいらっしゃいましたわね。わたしの可愛い、小さなシルビアと」
懐かしそうにリリィは目を細める。
「あの頃より、ずいぶん可愛げがなくなってしまったけれどね」
「あら、今でも十分にお可愛いらしいですわ、特にノーマン殿のことで右往左往しているあなたは」
「……リリィったら」
ふくれて睨みつけると、リリィは笑いながら扉へ向かう。
「では、陛下におうかがいを立てて参りますわ。少しお待ちください、シルビア様」
……
自ら客室に足を運んでくれた父のために、シルビアはハーブティーを淹れた。テーブルを挟んで、父が先に椅子に座ると、シルビアも向かい側に腰を下ろした。ラベンダーの香りが、重苦しい空気を和らげてくれる。
「お父様……」
「おまえの言いたいことはわかっている」
ガジェが意識を取り戻したことは父の耳にも入っているのだろう。ベッドで眠る青年を一瞥し、父はそう言ってシルビアの言葉を遮った。
「やつを愛しているのか」
一瞬、何を訊かれたのかわからなかった。見透かすような視線を向けられ、シルビアは耐えきれず目をそらしてしまう。
「……わかりません」
「隠す必要はないだろう」
「本当にわからないのです」
頑なに言い張ると、「おまえの母もそうだった」と父は笑う。
「自分の気持ちがわからないからと言って、何度も求婚を断られた」
けれどその時にはもう、母は父を愛していたのだ。母の日記には、後になってそのことを自覚したのだと、書かれていた。
黙ってうつむくシルビアに、父は観念したように言う。
「獣人の血を引く子に、我が国の王位継承権を与えることはできぬ」
ガジェに対する気持ちがわからないと言っているのに、なぜそこまで話が飛ぶのかと、ぎょっとして顔をあげてしまった。
父は腕組みをし、睨みつけるように天井を見上げていた。
「そもそも民がそれを認めんだろう。彼ら種族は一般人にとっては得体の知れぬ存在ゆえ。赤い瞳は血の色を思わせ、恐れを強く抱かせる」
「……あの、お父様?」
これはリリィに何か吹き込まれたなと、シルビアは慌てる。
「リリィから何を聞いたか存じませんが……」
「ゆえに、獣人の子を宿したおまえを、王女としてここに置くわけにはいかぬ。すぐにでも城を出るがよい」
再びぎょっとしてしまったが、父の声は真剣だった。
吐き出すようにして言い、腕組みを解いて、顔をこちらに向ける。
「王女でなければ、誰の子を宿そうとおまえの勝手だ。愛する者の子を生み、育てよ。そしてレイシアの分まで生きてくれ」
慈しむような、優しい目を、シルビアは信じられない思いで見返した。それが事実であれば、王女としてあるまじき振る舞い、醜聞以外の何ものでもなく、下手をすれば極刑ものだが――けれど表向き、私は既に病死しているわけだし、いくらお父様でも、死者を死刑にすることはできないわよね?
「二度とおまえを悲しませないとレイシアに誓った。王としては許されぬことだろうが、最後くらい、父親らしいことをさせて欲しい」
ガジェの子を宿しているなどとんでもない誤解で、即座に否定すべきなのだろうが、自分の気持ちを汲んで協力してくれたリリィの思いをむげに扱うこともできず、シルビアはひきつった笑顔で感謝の気持ちを伝えた。ついにでそっと、宝石箱を返すと、父は渋い顔をした。
「それらはレイシアがおまえに残したものだろう。持っていなさい」
「町娘の持ち物としては分不相応です。よければソフィーヌにお与えください。妹は将来王太子妃として、さまざまな行事に出席せねばなりませんし、これから多くの宝飾品が必要になるでしょうから」
父はしぶしぶながらも受け取ってくれた。一気に肩の荷がおりた気がして、シルビアは忘れかけていたティーカップに口をつけ、あっと声を上げた。
「冷めてしまったので、淹れ直してきますわ」
しかし、「このままでよい」と父にカップを取りあげられてしまう。
「先ほどから良い香りがすると思っていたのだ」
まず香りを楽しんでから、一口、二口と飲んで、ふうと息を吐いた。「うまいな」とつぶやかれた言葉に、自分でもあきれるほど浮かれてしまう。
「少し蜂蜜が欲しいところだが」
よもや父が甘党だったとは知らず、意外すぎて笑みがこぼれてしまう。
「でしたら、次は蜂蜜をたっぷり用意しておきます」
「次、か……」
父は寂しげに笑い、それ以上は何も言わず立ち上がる。
シルビアも席を立ち、深く頭を下げた。




